07 しとしと雨音
「ありがとうございました! 失礼します」
扉を開けて向き直り、お辞儀をした三日月は、最後の力を振り絞るかのように元気よく挨拶をする。
「ハーイ、またねぇ♪」
「ぅ、あ、ひゃい」
(先生が『またねぇ』って! “ねぇ”って、親しげにッ)
ロイズは変わらずその素敵な笑みを浮かべながら、彼女へ気さくに手をゆらゆらと振り見送った。
――キィ、ガチャ。
「はぁ、緊張したぁ……」
(ロイズ先生とのお話、無事に終わったぁ)
部屋を出た瞬間、体から緊張の全てを吐き出すように深く、重い、溜息がもれた。それから目をつぶり、廊下の壁に寄りかかる。
(あぁ、ひんやりしてきた)
“ポッ”
「冷たい、気持ちいい」
“……ぽつぽつ”
(あっ)
“……ザァー”
緊張と恥ずかしさでオーバーヒートしかけていた頭は、無事に冷えてきた。良かった、と平常心を取り戻した彼女の耳には、しっとりと、落ち着く音が聞こえ始める。廊下の窓にそっと目をやると、雨が降り始めているのに気が付いた。
「雨……雨音」
良い意味での疲労感が、自分の周囲にあるもの何も見えない、なーんにも聞こえないと余裕の持てない数分間。廊下の壁を支えに少しだけひんやりとした湿度と陽の当たらなくなった薄暗さのおかげで、だんだん冷静さを取り戻してゆく。
――しとしと、しとしと。
(降り始めた雨の音が、頭の中で音楽みたいに響いて)
どこか悲し気な雨空を、ふと三日月は見上げ、思う。
“ザァー……”
それから五分後。
ようやく再起動完了の彼女は、自身のほっぺたをペチペチッ! 瞬きを数回繰り返した。
(さて! 帰りますか)
――ぞわっ。
ビクッ。
それは一歩、足を出した瞬間のこと。
背中に感じた何か。
激しく降る雨のせいだろうか。彼女は、特別校舎の様子が来た時とはどことなく違う雰囲気であることに気が付く。
「なんだろう、暗くなったからかな」
少しだけ、視えない怖気を感じた。
(あれ? そういえば。精霊さんたちがいない)
いつもであれば、彼女の周りには温かく光る精霊たちが飛び回り、少ない時でも一粒二粒は傍で見守ってくれている。
これは生まれた時からで、三日月にとっては生活の一部……可愛い精霊さんたちは友達のような存在。そのような極めて珍しい関係が実現しているのも、彼女の類い稀な能力が関わっていた。
いつだって安心感を与えてくれる精霊たちと、ずっと一緒に過ごしているためか、このように急に目の前からいなくなってしまうと、たとえ一瞬でも不安で仕方がなくなるのだ。
「今は、一緒にいてほしいけれど」
(精霊さんたちにも都合があるし。あるのかな? ふふ)
「大丈夫だよね。それにもしかしたら、わたしが視えてないだけかもしれないし」
自分にも原因があるのかもしれない。そう思ってしまうのは、良くも悪くも彼女自身がまだ、自分の力の大きさを理解しきれていないからだ。
“ザァァァァー……”
次第に強くなる雨は、心に冷たく刺さる気がした。
(ダメだ、早くここを出よう)
「ゆっくりしていられないんだった……って、うっわ! 大変、次の授業が始まっちゃうよ」
ちょっと距離あるしー、もぉ~と怖さと寂しさを紛らわすように独りで呟きながら、特別校舎の出入口へと急いだ。
「そうそう、ここを曲がって、と」
思った通り、同じような扉や廊下が続いていて、特別校舎内を覚えきれていない。三日月は「よしよし!」と、来るときに目印していて良かったな、迷わずに出られそうだなと安堵する。
誰にも遭遇しなかったことに胸を撫で下ろしながら、近付いた出入口へと足早に向かっていると、急に――。
「ねぇキミ」
(――ぅ、ふぇっ!)
後ろから、知らない声に呼び止められた。
「あまり見かけない子だね、何クラス? お名前は?」
三日月は振り返らずに、立ち止まる。
(あぁ、ここの生徒さんに、会ってしまったぁ……)
そう、此処は上流階級の生徒が学ぶ教室がある場所。そして、こうして話しかけられることは、三日月が一番恐れていたことでもあり、また、一番苦手とするシチュエーションなのだ。
(聞こえないふり……とか)
「おい、聞いているのか」
(ん、んー。えー無理、ですよねぇ)
仕方なく、ゆっくり振り返った。出来れば今後も、上流階級の生徒さんたちとはあまり関わり合いたくないな、静かに学園生活を送りたいな、と心底思いながらも、上手くない愛想笑いを浮かべてみる。
(どうしよう。どうやってこの場を乗り切ろう?)
だからといって能力を使ってしまうと、後々面倒な話になるだろう。ではとりあえず、何か理由を付けてこの場から逃げる? にしても、次またどこかでばったりと会った時が……。
悩みながら黙っていると、相手はなぜか誇らしげな表情で話し始めた。
「おやおや? キミの記章……もしかして、一般クラスの子?」
(そう! ソウデス! 気付いていただけましたか?! なので、わたしのことはお気になさらず、どうぞお先に行って下さい!)
と、引きつった笑顔になりながらも彼女は心の中で叫んでいた。
しかし、その声届かず。
黙ったままの三日月に「へぇー」と、物珍しそうな顔で近寄ってきた。
「なぜかな? この校舎に一般クラスの子がいるのは大変珍しい! しかもキミ、髪色がブロンド~、じゃないのか? これまた珍しい。というよりも……」
“ドックん……”
――「妙だねぇ~?」
その一瞬、驚きからか目を丸くした相手はすぐに興味深々の笑い顔になる。
(えぇ、えぇ、上流階級の御方。あなた様のその反応は正しいことと思いますが。はぁー、やっぱりそうですよね、おかしいですよねぇ)
――なんだこいつ!
――『上流階級』の子でもないのにその髪色は?
彼女の耳には、言われなくてもこの言葉が伝わってくるようであった。
どの国でもそうだが、ホワイトブロンドの髪色は特に希少と言われ、上流階級の血統でも珍しい。それなのに一般人である彼女がこのような髪色なのはとても不思議なことだと、幼い頃からさんざん言われてきた。
そのせいで、おかしな疑いをかけられたこともある。
(まさに今みたいな状況、今みたいな視線で。もう悲しくなっちゃうんですねぇ)
「噂で聞いたことはあったが。まさか本当にいるとはねぇ……しかもその色、綺麗だ。とても興味が」
スッ――。
(え、何?)
色々と言われるだけなら慣れっこで、なんてことはない。しかし今、いつもとは違う状況と展開に、三日月は身の危機を感じていた。
(これは、後のことなんて考えていられない)
――逃げなきゃ!
その瞬間、彼女は無礼だとは思いつつ後ずさりし、逃げの体制をとる。
(もう、なりふり構っていられない)
「あの、じゅ、授業に遅れるので失礼し……ひゃっ」
言い終わる前に、相手がかざす手のひらは躊躇うことなく、三日月の頭上近くまで伸びてきていた。
(ダメ、避けられないっ!)
覚悟するようにぎゅっと目をつぶる。
特別校舎で突然声を掛けてきた見知らぬ生徒の手は、彼女の美しい髪へ、触れようとしていたのだった。