06
「ワタナベさん」
「はい」
「その顔は、初恋って気付いて、今、甘酸っぱい気持ちになってますね?」
甘酸っぱい?聞いた事あるけど、今の感じがそうなのかな?
「違います?酸っぱい物を食べて頬がキュッとなるみたいに胸がキュンとなってませんか?それがちょっと痛いけど、でも嬉しいみたいな気持ちではありませんか?」
「え~と、たぶん、はい」
「ですよね?それ、貴重ですよ?」
「え?そうなんですか?」
「はい。課長とワタナベさん。両思いなのは間違いありませんが、今感じてる甘酸っぱさは、片想いの時に感じるヤツです」
「そうなんですか?」
「そうなんです。でもキスしたりその先をしたら、甘酸っぱくなくなります」
「え?」
「上手くいってる間はとろりともっと甘いですが、上手くいかなくなるとホロ苦くなったりします。ヤキモチ焼いたりしたら胸の痛みも激しくなりますしね」
「そうなんですか?」
「そうなんです。だから結婚式までファーストキスは取って置いて下さい」
「え?どうしてですか?つながりが分かんないんですが?」
「それは、ワタナベさんが甘酸っぱく感じている時は、課長も甘酸っぱいからです」
「え?オジサンは私が初恋じゃないと思いますけど?」
「でも気持ちが通じていれば、ワタナベさんが甘酸っぱければ課長も甘酸っぱく感じます」
「もしかして、相思相愛ですか?」
「そうです。相思相愛で以心伝心です。そしてその甘酸っぱさが、課長の前の婚約解消の傷を癒すのに効き目がある筈です」
「え?傷?オジサン、婚約解消で傷付いてますか?」
「私の知ってるアマノ課長なら、長年の婚約を解消して何とも思わないとは思えません。少なくとも婚約解消の原因に、心を痛めてると思います」
オジサン、私の前ではそんな素振りを見せないけど、でも言われてみればそうかも?
「その傷に効くんですね?」
「その筈です」
「甘いだけではダメなんですか?」
「ダメです。初心に帰る必要があります。それに甘いだけでは済まないですから」
オジサンとなら甘いだけでも良いと思うけど。
「ワタナベさん。甘いだけの人生を送っている人を私は知りません。ワタナベさんにも色々とあった事が察せられますが、課長と結婚してからも何かとあるかも知れません。その時に課長の傷が治ってなければ、そこから傷が悪化するかも知れません」
「そんな」
「どれも私のただの推測ですし、根拠も示せませんが、でもここ最近の課長を見ていると、何となくそんな気がするんです。多分、ワタナベさんと甘酸っぱい生活を送っているからでしょう」
「そうなんですか?」
「そうなんです。キスもその先も、いざと言う時まで取って置く事できっと何かの役に立ちますし、結婚まで取って置けるならそれが課長には1番です。いつご結婚なさるか分かりませんが、ワタナベさん。課長の為にも、課長のワガママに付き合って上げて下さい」
「ワガママ?」
「ええ。今時キスさえお預けなんて、ワガママ以外の何ものでもありません。でも課長には必要な気がします」
「そうですか」
「それでもし、課長が結婚前に求めて来たら、焦らして上げて下さい」
「え?焦らすって拒否したりもったいぶるって事ですよね?求められたらもう良いんじゃないです?」
「いいえ。傷で言うならかさぶたが出来た状態です。かさぶた、痒くなって掻いたら痕が残るでしょう?だからダメです」
「でもそしたら、いつまでもキスも出来ないって事ですか?」
「結婚って大変なんですよ」
「え?え~と、そうなんですか?」
「はい。現実の対応をする為に、夢から覚める事を迫られます。結婚準備とは夢から覚めて現実を見る作業ですから。マリッジブルーって言うのがあって、結婚が近付くと色々と見えて、結婚するのがイヤになる事があります。実際に結婚式をキャンセルするカップルもいますし」
「それって、結婚しないってことですか?」
「そうです。結婚式じゃなくて結婚自体のキャンセルですね。言い間違えました」
「そんな」
でもオジサンとチイ叔母さんも婚約解消したし。
「ファーストキスはそれを防止する為のご褒美にもなりますよ?」
「え?ホント?」
「なりますなります。夢の続きが結婚後にも残ってますからね」
「え?それって、残ってるのが夢なら良くないんじゃ?」
「いいえ。キスなんて特別な事ではないですから、何回もしてるとキスへの憧れとかはなくなります。魔法が解けるみたいですね?でも魔法が掛かったままなら、ご褒美としては非常に魅力的な筈ですよ?結婚式と言う現実を乗り越えて行く為の原動力になります」
「でも、オジサンはキスもその先も経験してるので、魔法には掛かってないですし」
「ワタナベさんとはまだなんでしょう?」
「そうですけどそれって、私には夢見てるって事ですか?」
「その通りです。課長はワタナベさんとの夢を一緒に見続けてると思えます」
「でも、結婚したら夢が覚めるんですよね?」
「確かに結婚に一切夢を見ない強者もいるらしいですけど」
「あ、いえ、そうではなくて、結婚したら途端に、オジサンの夢が覚めるんだなって思って」
「そこから先は、私の知ってるアマノ課長なら問題ないと思いますよ?ワタナベさんの知ってるおじさんは、夢は見るけど現実は見ないタイプですか?」
「そんな事、ありません。大丈夫だと思います」
ハヤシさんが微笑んで小さく肯いた。
でもすぐに真顔になる。
「結婚するのってとにかく大変なんです。それを二人で乗り越えられれば、結婚後も大抵の事は乗り越えられると聞きます。結婚準備は二人での生活のチュートリアルです。正直、課長とワタナベさんでは年齢差が大変さの理由になると思います。叔母様との事もそうかも知れません。それらを乗り越える為には、ご褒美は多い方が良くないですか?結婚まで我慢できた事が自信にも繋がりますしね?」
「そうか・・・そうなんですね」
気付くとオジサンの姿を探してた。
すぐ見付かる。こっちに背を向けてるけど、あれがオジサンだ。
人に囲まれてるけど、背が高いから顔は良く見える。顔って言うか後頭部だけど。
初恋の人。
一緒に生きて行く人。
私の大切な人。私を大切にしてくれる人。オジサン。
「タカヒロ」
オジサンの名前を呼ぶ女の人の声が聞こえた。