05
「ワタナベさん、何か悩みでもあるんですか?いや、それはありますよね?課長とは年齢差がありますし、経験差もあるでしょう。良ければ相談に乗りますよ?」
「あの」
「はい」
「ハヤシさんは・・・キスってした事ありますか?」
ハヤシさんが口に手を当てて、ガクッと項垂れた。
「ごめんなさい・・・私にはワタナベさんの相談に乗れるタマシイがありません・・・」
「え?タマシイ?もしかしてハヤシさんもファーストキスは結婚式にするのですか?あ、ご結婚なさってます?」
「結婚してませんが、ファーストキスは済ませてしまいました」
「そうですよね?普通しますよね?」
「調べてませんが、する人も多いと思います」
「オジサンは結婚するまで私に手を出さないって言ってるんです。キスもエッチの一種だって言って、結婚式までしないって」
「うう、かちょう・・・」
「あの、どうやったらキスして貰えるか、教えて貰えないでしょうか?」
「ごめんなさい。教えられません。ワタナベさんはそのままでいて下さい」
「え?このまま?」
「アマノ課長がワタナベさんをとても大切にしてるのが良く分かりました」
「はい。とても大切にして貰ってます」
「く~っ!素直でよろしいです。ですのでファーストキスは結婚式まで取って置いて下さい」
「え?でも私、もっとオジサンとこう、なんと言うか、その、イチャイチャもしたいんです」
「ダメです。アマノ課長の為に我慢しましょう」
ハヤシさんが顔を上げて強い口調でそう言う。
でもね?
「我慢してるのはオジサンなんです。我慢しなくて良いのに」
「いいえ我慢です。良いですか?世の男性は経験豊富な女性より、ウブな女性をより好みます。調査はしていませんが、経験則でそう言えます」
「ウブ?」
「ウブって言うのは、そうですね、未経験もそうですが、ブリッ子なんかも男から見るとウブに見えます」
ブリッ子・・・知ってる中ではダイ叔母さんかな?
ダイ叔母さんは男性の前では態度が違うけれど、オジサンはあまり良く思ってなかったと思う。
「オジサンはブリッ子はそうでもないと思いますけど?」
「それはそうですよ。なんたって本当にウブな少女が婚約者なんですから」
「え?私?未経験ならウブなんですか?」
「そうとは限りませんが、ワタナベさんがウブである事は私が保証します」
「あの、それって、私はオジサンに好まれるって事ですか?」
「モチロンです」
「ありがとうございます、ハヤシさん!」
「く~っ!」
ハヤシさんがまた口に手を当てて項垂れた。
ハヤシさんも酔ってるのかな?そう言えば飲んでないって言ってなかたっけ?
取り敢えずハヤシさんは体調が悪くなさそうなので、立ち上がって焼いてた肉や野菜をお皿に取った。
ハヤシさんのは焦げ焦げだ。
お皿をテーブルに載せて、ハヤシさんの隣にしゃがむ。
「ハヤシさん」
「はい、なんでしょうか?アマノ課長の天使様」
「え?酔ってます?」
「いえ、極めてシラフです」
酔ってる人は酔ってないって言うヤツかな?
「ネットで調べたりすると、高校生でキスやその先までしてる子もいるんです」
「いやいますけど、ダメですよ?」
「何でですか?中学や小学生でもいるんですよ?」
「ヒトはヒトです」
「私も人ですよ」
「ワタナベさんは課長の天使ですから」
「でもですね、結婚してから、なんか違った、って思われたら大変じゃないですか?」
「大丈夫です。男性はウブが好きと言いましたが、ブッチャケると処女が大好きです」
「え?」
「ほら、誰も歩いていない雪の上に足跡を付けるのって楽しいでしょう?あれですよ、あれ。だから処女雪って言うんです」
「でもオジサンは、私が処女じゃなければ口説くって言ったんですよ?」
「アマノかちょう!いえ、それは逆ですよ、ワタナベさん」
「逆?」
「商品にグッズとかシールとかのオマケが付いてると、どれが良いか慎重に選ぶじゃないですか?でもオマケがなければどれでも良いですよね?処女じゃないと他の女性と同じになるから、気軽に口説けるんです」
「え?」
「アマノ課長と結婚するのと、アマノ課長と男女の関係になるの、ワタナベさんはどっちを選びますか?」
「二択なんですか?どっちもじゃダメ?」
「いいえ、二者択一です。結婚したら男女の関係にはなれますが、結婚前に男女の関係になったら、どうなるかは保証出来ません」
「そんな・・・」
「良いですか?処女ってだけでも男性に取って価値が上がるのです。ワタナベさんの本来の価値に上乗せです。その上、ファーストキスも貰えるなんて、アマノ課長はどれだけ恵まれているか」
「でも、オジサンとのキスなら、結婚前でも良いでしょう?」
「夏の仕事上がりのビールなんですけれど、分かりませんよね?」
「え?ビールはちょっと」
「えーと、ダイエットもまだ早いでしょうし、ワタナベさん。何か我慢する事ってあります?楽しみを取って置く方の我慢です」
「ココア?」
「ココアを我慢してるんですか?」
「オジサンと一緒に飲みたいので、一人では飲まない様にしてます」
「ちょっと違うし、アマノ課長がココア飲むんだなんて驚きですが、可愛いのでそれで良いです。我慢するからこそ、一緒に飲めて美味しいですよね?」
「それは、はい。でも驚き?」
「つまりアマノ課長も素敵なキスをする為に、我慢をしてるんです。結婚式でファーストキスなんて経験、やろうと思っても中々難しいです。レアですよ?レア?」
「でも」
「でもじゃありません。結婚したらいくらでも出来るんですから。それまでワタナベさんも我慢すべきです」
「そうかも知れませんけど」
「けどでもありません。それと、もしかしたらご存知なのかも知れませんが、アマノ課長、ワタナベさんの前にも婚約者がいました」
「それは、はい。知ってます」
チイ叔母さんの事だものね。
「その方とはお付きあいも長かったらしく、聞いてはいませんが男女の関係にあったものと推測出来ます」
「分かるんですか?」
「30歳の男と27か8の女が長年婚約していて、何もないのは不自然ですから」
「それなら私だって同じ婚約者です」
「いやいやダメですって。私の話、聞いてました?処女だと価値が上乗せですよ?ファーストキスなら更に何倍もですよ?」
「でもきっとオジサンは、それらを私が失くしても、私と暮らしてくれます」
私がそう言うとハヤシさんは、「ハァ~」と長い溜め息をついた。
「足が痺れました。ワタナベさんは大丈夫ですか?」
そう言ってハヤシさんが立ち上がるので、「大丈夫です」と言いながら私も立ち上がった。
「私はアマノ課長を上司としても人間としても尊敬しています。私の知るアマノ課長なら、確かにどんな事があってもワタナベさんを見捨てたりしないでしょう。しかし、長い間婚約していた女性と別れて、ワタナベさんと婚約したのは事実。何があったのか、今日知ったばかりなので調べていませんが、その婚約解消はアマノ課長らしくないんです」
「それは・・・私の所為なんです」
「え?」
「オジサンの前の婚約者って、私の叔母なんです」
「まさか寝取っ・・・てないからワタナベさんは私に相談したんでしたね。え?ワタナベさんの所為?」
「私、叔母さんが紹介した男性と、無理矢理関係させられそうになって」
「え?関係って、男女の?」
「はい。男女のです。それをオジサンが助けてくれたんです。叔母さんとは婚約を解消して、行き場のない私を部屋に泊めてくれたんです」
「え?部屋にって、その時もアマノ課長とは何もなかったんですね?」
「あ、別々の部屋に寝てますから」
「なるほど。まあそうか」
「それで私からプロポーズして」
「え?ワタナベさんから?課長からじゃなく?」
「はい」
「もしかして、課長の事を狙ってたんですか?」
「狙ってたって、恋人として叔母から寝取るって意味ですよね?違います。それはないです。オジサンと叔母さんが結婚して、オジサンと家族になれるのを楽しみに思ってました」
「助けられて好きになったとか?それなら課長が慎重なのも分かりますが」
「そうなのですか?」
「ええ。吊り橋効果、とは違うかも知れませんが、課長に助けられて急に好きになったなら、失礼ですけど急に冷める事もあると思えますから」
「急じゃありません。オジサンのお嫁さんになりたいって思ったのは、幼稚園の時です」
「・・・初恋ですか?」
「あ、そうですね。初恋です。でも他の人を好きになった事がないんですが、それでも初恋って言います?」
何度か恋をしたなら1番目は初恋だろうけど、1度きりなら違う気がする。私は一生オジサンだけで、2度目はない覚悟でいる。だから単恋?一人だとピン芸人とか言うから、ピン恋?
「いえ、充分に初恋です。胸を張ってそう主張しましょう。大丈夫です」
「分かりました。そうか、初恋か」
「く~っ」
ハヤシさんがまた口に手を当てて、でも今度は私を見たままで、俯かなかった。
何かを訴えてるみたいな顔だけど?