青い炎 Ⅰ
それからウィロットは、俺専属のメイドになる……のはまだ早いというアセリアの判断で、しばらくメイド修行に励むこととなった。
とはいってもアセリアにくっついてパタパタと走り回っていることが多く、当然俺と顔を合わす機会は多い。
例のごたごたから1週間ほど経ち、外の風景もだいぶ春の気配を漂わせてきていた。
積もっていた雪が解け始め、雪の間から顔を出す地面には微かだが緑が頭を覗かせる。
おそらく首都アルナーグでは、もう既に温かい日差しと共に桜が咲き誇っているだろう。
「ユケイ様、ご本読み終わりましたか?交換しますね!」
「ウィロット、待て!きみには無理だろ!」
「それくらいできます!」
「ウィロット!待ちなさい!」
読書台から本を持ち上げた彼女は、背伸びをしてやっと届くかという高さの書架に本を差し込もうとする。そもそも革製で鉄の鋲が打ってある装丁で、盗難防止の鎖もかなりの重量になる。あっという間にその場でひっくり返り、放り出された本はアセリアが読書台にぶつかる寸前で受け止めた。
「ウィロット!怪我はないか!?」
「は、はい、ユケイ様……。大丈夫です……」
「怪我はないかじゃありません!!」
アセリアから激しい雷が落ちる。
「この中には金貨10枚や20枚で買えない本もたくさんあるんです!また砂糖騒ぎの時みたいな目にあいたいのですか!」
ウィロットの顔から血の気がサッと引いていく。
本屋に行けば本がずらりと並んでいるような世界ではないのだ。知らない人からしてみれば、本の値段など想像もできないだろう。活版印刷がまだ発明されていないのだから、書物は全て手書きである。小金貨であれば1枚で12万円ほどだろうか、本一冊が数百万と言われても違和感はない。
「ごめんなさい、アセリア様……。そんな高価なものだなんてぜんぜん知らなくて……」
「ウィロットも知らなくてしょうがないよ。彼女はまだ8才なんだから……」
「ユケイ様はウィロットを甘やかしすぎです!8才なのはユケイ様も一緒ではないですか!もう……。わたしがユケイ様のお世話をするからネヴィルの相手をしてあげてなんて言ったのはどこの誰だったかしら。以前よりいっそう忙しくなってるんですけど……」
「ごめんなさい……」
ウィロットは消え入りそうなほど小さくなっている。もちろん彼女には悪気はないのだ。俺の役に立とうと、ただただ必死になっているだけなのだから。
アセリアはふうとため息をつくと、やれやれと言わんばかりに首を振ると、一転優しい声で彼女に語りかける。
「……強く言いすぎましたね。怪我はしていませんね?次からはちゃんと気をつけて下さい。さあ、そろそろお昼の時間です。あなたには大切な仕事があるでしょう?」
「あ……、はい!」
返事をするやいなや彼女はぺこりと頭を下げ、パタパタと軽快な足音を立てながら部屋を飛び出していった。
「ウィロット!走ってはいけません!」
俺とアセリアから同時にため息が漏れ、思わず顔を見合わせ笑みがこぼれる。
「まったく仕方がありませんね。さあ、ユケイ様も一度お部屋へ戻りましょうか」
「うん、そうだね。ごめんね、アセリアの仕事を増やしてしまって……」
「ユケイ様、その程度のことで王子である貴方が謝罪などしてはいけませんよ」
そういうと彼女はにっこり笑う。
「それに新しい弟と妹……、あっ、あの、新しい妹ができたみたいで楽しいです」
そう言うと、少し恥ずかしそうな顔を浮かべ、そそくさと本をしまうと部屋を後にした。
一瞬俺のことを弟と言いかけたのだろうか。前世でも今世でも、姉を持ったことのない俺は、何故か少し恥ずかしい気になった。
2人連れ立って部屋へ戻る途中、厨房の前に近づくと中が微かにざわめきたっているのに気づく。
俺とアセリアは再び顔を見合わせる。同時に血の気が引くのを感じ、数日前の事件が頭をよぎる。あの時アセリアは慌てて厨房へ駆け込んだが、今回は両手で顔を覆い神に祈りを捧げているようだった。
「あ、アセリア!見て!」
俺はアセリアに厨房の方を見るのを促す。厨房から頭を何度もペコペコ下げながら出てきたのは、この屋敷の下働きだったからだ。頭を下げるたびにふくよかなお腹が揺れ、妙な愛嬌を放っている。
アセリアと俺はほっと安堵のため息をこぼし、小さく笑い合った。
アセリアは男に近寄り、少し威厳を取り繕い声をかける。
「ビス、どうしたのですか?何か揉めていたようにも聞こえましたが?」
「アセリア様、ユケイ様、申し訳ありません。もめていた訳ではないのですが、お酢と塩を少しいただこうとしたらマーフにまたかと言われてしまいまして……」
ああ、それで思い出した。以前図書室の前で、俺に銅のサビを落とす方法はないかと聞いてきた男だ。
「お酢もお塩も大切にしていただかないと……。マーフの言うことも当然です」
「はい、すいません……。ユケイ様、もっとみんなに叱られない方法はないですか?」
「ビス!ユケイ様になれなれしいですよ!そもそもあなたが手入れを怠ったから、銅具をサビさせたのではないですか?」
「いえ、決してそんなことはないのですが……。おかしいなぁ?」
ビスと呼ばれた男は、困ったなぁという顔でまん丸な頬を掻いた。
「ともかく、もうお塩もお酢も無駄にしないでくださいね」
アセリアの言葉に、一瞬ビスは何かを言いかけたような気がしたが、結局口をつぐみ手に入れた塩と酢を大事そうに持ち、こちらに何度も頭を下げながらその場を後にした。
「まったく。ウィロットとかかわってから、なかなか心が休まる時がないですね」
アセリアはそう言いながら笑う。しかし俺は、立ち去るビスの後ろ姿に何か小さな違和感を抱いていた。