少年と少女
「アセリア様、お帰りなさいませ!」
ウィロットはそう言うと、久しぶりに姿を現したアセリアに文字通り飛びついた。
武装商隊遠征は帰還時期を僅かに遅らせ、彼女が離宮に戻ったのは奇しくも一年を終える最後の日、フュイルベールの日だった。
3ヶ月ぶりの彼女は長旅のせいか微かに痩せたような印象を受けたが、変わらずの穏やかな笑顔、そして以前にもまして強い意志を感じるようだ。
「ただいま、ウィロット。ユケイ様へのご報告が先ですよ?待っていて下さいね」
「はい!」
ウィロットはそう答えながらも、カインに引き剥がされるまでアセリアから離れようとはしなかった。
「おかえり、アセリア。旅の間、不自由はなかった?体調は崩してないかい?」
「はい、ユケイ様。いろいろなことがございましたが、無事に帰って来ることができました」
「うん、ほんとうに良かった。アセリアが無事であれば、それ以上はもう高望みはしないよ」
「ふふふ、そんなことおっしゃらないで下さい。腐り塩を積んだ荷馬車で中庭はいっぱいですよ。あとはこちらです……」
アセリアは小さな長方形の箱を俺に差し出す。
俺はそれを受け取ると、丁重にその蓋を開いた。
最初に現れたのは緩衝材として詰められていた木屑、その中から深い光沢を持つ赤いベルベットが現れた。そしてそれに包まれていたのは……
「わぁー!キレイ……」
いつのまにか間に割って入ったウィロットが感嘆の声を上げるが、またもやカインに連れ去られていく。
最初に姿を現したそのガラスペンは、纏った赤いベルベットを内側に映しルビーのような光沢を放った。
そして袋から取り出すと真冬の軒先にできた氷柱のような透明度。
ひんやりとした硬質な手触り、しかし液体に触れているかの様に指に吸い付く感触、ザンクトカレンのガラス細工が精巧だと言われているのが一瞬で納得できる。
ペン先には花の蕾に見立てた繊細な筋がいくつも入っており、ペンを傾けるたびに小さな光の粒が中で踊っているかの様だ。
柄の部分には蔦を模した様な緩やかな装飾が施され、それが指の腹に馴染みとても握りやすい形になっていた。
「ウィロット!インクを用意してくれ!」
「はい!」
答えるや否や、机の上にはあっという間にインクと植物紙、そして羊皮紙の切れ端が並べられた。
インクをペンの先端につけると、スッと花の蕾に青黒いインクが吸い取られていく。そのまま俺は、紙の上でペンを走らせた。
「こ……、これは……!いいね!すごくいい!」
まるで紙の抵抗を全く感じない書き心地、それはまるで水面を指でなぞるかの様だった。
「お気に召しましたか?」
「うん、最高だよ!正しく俺が望んだ物だ!ありがとう、アセリア!」
「ありがとうございます。そう仰って頂けると思っていました。わたしも試作の時から何度も使わせて頂きましたが、本当に素晴らしい書き味ですね。バルハルクがユケイ様の仰ったことに間違いはなかったと大声を出しておりました」
「大声?」
「ええ、間違いなく売れるって」
「ああ、なるほどね」
思わず苦笑が漏れる。
その光景が目に浮かぶようだ。
「因みに、これと同じような装飾入りのガラスペンが12本、装飾なしのガラスペンが36本。あとは形が悪いですがペンとしては使える程度の出来の物が33本ございます」
「そ、そんなに?」
「はい。フュイルベールが明けたら、バルハルクが新年の挨拶に来ると言っておりました」
まあ……、流石にそれは断れないだろう。武装商隊遠征の話もしなければいけないし、正直なところ土産話が楽しみで仕方がない。
「あの、ユケイ様。わたし新しい友人が出来たのです。ぜひユケイ様に紹介したいのですがよろしいでしょうか?」
アセリアはそういって、いつも通りの穏やかな笑顔を見せる。
なるほど、そうきたか。その友人とは、説明されなくても誰なのか分かる気がする。しかし、アセリアの紹介であれば会わないわけにはいかないだろう。
「ああ、わかったよ。それじゃあバルハルクと一緒に連れてくるといいさ」
「ふふふ。さすがユケイ様、察しがいいですね。テティスも喜ぶと思います」
「眠らないテティスね。彼女は本当に眠らないの?」
「さあ、どうでしょうか。少なくとも……、わたしは彼女が寝ているところを見たことがありません」
そう答えると、なぜかアセリアは微かに頬を赤く染めた。
それから俺たちは、アセリアが旅先で手に入れた様々な珍しい物、珍しい話を存分に堪能した。それのどれもが俺の心を揺さぶり、もう2度とこの離宮から出れないと宣言された俺の心は微かに痛む。
彼女の話によると、武装商隊は遠征中に何度も襲撃にあったらしい。その内4件が妖魔による襲撃で、7件が人間による襲撃だった。
それは北に進めば進むほど多くなり、どうやら北方で始まった戦争が影響しているらしい。
治安が悪化した地方では武装商隊は最大限に歓迎され、それと比例して利益を伸ばしたという。
そしてこの日、当然ではあるが離宮にエナもノキアも現れなかった。
夕食も終わり一息ついた頃、遠征中に手に入れた不思議な香りのするお茶をウィロットが淹れてくれた。
ジャスミンのような遠い昔に嗅いだような匂い、それに対して懐かしいと思う感情はもう湧いてこない。
「ウィロット、ほんとうによかったのかい?冬のオルバート領は雪に閉ざされる。その間でも家に帰ってもよかったのに……」
「わたしが帰ったら、誰がユケイ様のお世話をするんですか?」
「それは……、まあ、冬の間くらいなんとかするさ」
「なんとかするのはユケイ様じゃなくって、他のメイドです。ユケイ様はいろいろとわがままですからね。わたし以外にお世話が務まるとは思えません」
ウィロットはそう言うと、エヘンと言わんばかりに胸を張った。
まあ確かに彼女がいうことも一理あるのかも知れないが、それ以上にトラブルを起こしそうな気がしなくもない。当然そんなことは口にはしないのだが。
「そうは言うけど、アルナーグに来てから一度もオルバートに帰っていないだろう?家族にも顔を見せた方がいいんじゃないか?」
「ユケイ様はお優しいですね。けど大丈夫です。わたしはこれからも、一生ユケイ様のお側を離れることはありま……、あれ?走馬灯が見える……」
「えっ!?走馬灯?」
ウィロットが指差す窓の方に進むと、冬の夜空にふよふよと浮かぶ幾つかの光が見えた。
「あ、あそこにも!」
「ああ、天灯か……。びっくりした……」
よく見ると、冬の夜空に何個かの天灯が浮かんでいるのを見つけることができた。
年越しを目前にし、街の喧騒が微かに離宮にも聞こえてくる。
俺たちは並んで、しばらく夜空を眺めた。
ウィロットのあの事件の後、時折夜空に浮かぶ天灯を見るようになった。
彼女が浮かべたものを回収したのか、そもそも作り方を知っていたのかはわからないが、誰かが戯れにあげているのだろう。
あまりにも多くなれば火災の危険もあるために禁止されるだろうが、娯楽の少ない世界である。特に今日はフュイルベールだ。それくらいのことをしたくなる気持ちもわかる。
「……なんでびっくりするんですか?」
「ああ。走馬灯ってさ、もう一つ意味があってね。人は死ぬ瞬間、一生の中のいろんな場面を夢みたいに振り返るって言われているんだ。そのことを走馬灯っていうんだよ」
「そうなんですね。それじゃあわたしの走馬灯には全ての場面でユケイ様が出てきますよ」
「縁起でもないこと言うなよ……」
「ユケイ様の走馬灯も、半分でいいからわたしに下さい。わたしはそれだけで満足です……」
そっと彼女の横顔を見ると、彼女の視線は迷い無く夜空へと向かっている。
右手に微かな温もりを感じた。見なくてもわかるそれは、彼女の小さい手だ。いや、もう小さく無いのかも知れない。
オルバート領で手を繋いで森を駆け回った時、あの時と比べたらだいぶ大きくなった気がする。そしてこれからも、どんどんと大きくなるのだろう。
そしていつか、今日のこの日のことを走馬灯で見たりするのだろうか。
「ウィロット、手……」
「いいじゃないですか。わたしたちまだ子供なんですから」
「……そうだね」
それから俺たちは、しばらく手を繋いで夜空を見上げる。
どれくらい見ていただろうか、痺れを切らしたカインの咳払いに邪魔をされるまで……。
「カイン様、こういう時は気を利かせて部屋を出て行くべきでは無いですか?」
「そんなことできるわけないだろう。それに、アセリア様はいいのか?」
振り返るとアセリアがにっこりと笑っている。
「カイン様、そういうのを『空気が読めない』って言うんですよ!」
そう言いながらも、ウィロットは繋いだ手をいつまでも離そうとはしなかった。
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