銅貨と金貨 Ⅲ
「いたっ!」
炊事室の方からウィロットの小さな悲鳴が聞こえる。
「どうした!?」
俺とカインが炊事室へ駆け込むと、そこには指から血を流したウィロットが蹲っていた。
「ごめんなさい、置いてあったナイフで指を切ってしまいました」
傷口を押さえている為に見えないが、出血の具合から傷はかなり深そうだ。
「大丈夫か?」
「は……、はい……」
「とりあえず消毒して!」
俺は瓶のアルコールを、ウィロットの傷口に振りかける。
「きゃぁ!ユケイ様、しみるです……」
「我慢しなさい!神官に見てもらった方がいいな……」
俺は机から小銀貨を一枚取ってくると、それをカインに渡した。
「カイン、ウィロットと一緒に神官の所に行ってくれ。銀貨を渡してウィロットに『神の奇跡』を施してもらって来てくれ」
「ユケイ様、銀貨がもったいないです」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう?傷が深ければ指が動かなくなることもある」
「けど……」
「いいから!カイン、早くウィロットを連れて行ってくれ!俺は部屋から出ないから!」
「……はい、わかりました」
しぶしぶとウィロットは、半ば連行されるかのようにカインに連れられて行く。
神の奇跡とは、この国の教会に属する聖職者たちが使う魔法の一種だ。彼等は傷を癒したり神の奇跡にあやかった魔法を使い、それに応じた寄付を求める。
この国では教会の影響はそれほどではないが、音の国リュートセレンや火の国フラムヘイドでは絶大な力を持ち、特にリュートセレンの教会の主は教王と呼ばれ、国王と肩を並べるほどだという。
「どうせだったら教会が食中毒も治してくれれば良いのに。役立たずの守銭奴どもが……」
久しぶりに1人になったせいか、つい教会への愚痴が出てしまう。
アルナーグでは教会の力はそれほど強くない。しかし、神の奇跡を体現する彼等には熱狂的な信者がつく。奇跡自体が神の存在証明になるからだ。
もっとも俺は、それでも神の存在を信じていないのだが、そんなことを言えばウィロットからすら変な目で見られかねない。
神は神職を通して人に奇跡を与え、我々人間を見守っているというのがこの世界の常識なのだ。
「ムクロジってどんな木だっけ……?」
ムクロジという名前は知っているし、その実が石鹸の代わりになるということも知っている。それでも名前と形が一致しないのだ。
そういえば前世で奈良公園を訪れた時、確かに大きなムクロジの木があった気がする。
まあムクロジには毒があるわけではないので、好んで食べないということだろう。
「……なんだろ。なんか前世でこんなことあった気がするな」
何と何が繋がっているかも認識できない程度で、俺の頭の中を微かに刺激するものがある。
それが何かの解決の糸口になりそうな気がするのだが……。
それからしばらくして、ウィロットとカインが部屋に帰って来た。
「ユケイ様、申し訳ありませんでした。次から気をつけます……」
「ああ、気をつけてくれよ?魔法は万能じゃないんだから。もう痛みはないのかい?」
「いえ、まだまだ全然痛いです」
「ちょっと見せてみて」
「はい……」
そう言いながら、彼女は傷を負った指を俺に差し出した。
確かに傷口は繋がっているが、その後は生々しい赤いみみず腫れのようになっていた。
癒しの奇跡といっても、何もかも元通りというわけにはいかないのだろう。聞いた話によると、傷に関しては強い効果を発揮するが、骨折や病気には、あまり効果がないらしい。
「ユケイ様、この神の奇跡って、どこまで使えるんですか?例えば指が全部切れちゃった時とか……」
「恐いこというなよ……。俺が知っているわけがないだろ?」
「ユケイ様は魔法の勉強は一生懸命するのに、神の奇跡はあまり興味がないんですね」
それはウィロットの指摘通りだ。
前世で無神論者だった影響だろうか、どうにも宗教的なことに拒否感を感じてしまう。魔力の目がないということも関係するのだろうか?
きっと実際に神が存在したとしても俺の目には見えないだろうし、神の奇跡が俺に効かないということは神にも俺は見えていないのだろう。
「聞いた話ですが、昔リュートセレンの司祭様は切り落とされた腕を繋げたという逸話が残っています」
「へえ……、すごいね」
まあ、おそらくそれはだいぶ誇張されているのだろう。教会の権威を広める為につかれた嘘という可能性もある。
そんなことが可能なら、前世の外科手術を遥かに上回るでは……、あれ?
「どうしました?ユケイ様」
俺の様子を不審に思ったのか、カインが声をかけてくる。
「いや……、もしかしたら……。カイン、さっきの話だけどさ、神の奇跡って何処まで効果があるのかな?」
「どこまでというのは?」
「例えば動物とか、植物とか……」
「植物……ですか?」
「うん。例えば植物……」
「アゼル様から、戦場で軍馬の傷を神の奇跡で治したという話は聞いたことがありますが、植物はどうでしょうか……」
そうか、少なくとも馬や動物には効果があるということだ。人に効果があり、動物にも効果がある。であれば、植物にも効果がある可能性は十分にある。
俺の予想だが、神の奇跡というのは実際に神が起こしている奇跡ではなく、信仰の力が起こしているのではないかと思っている。
だから癒しの奇跡も、神が持つ何でもありの奇跡などではなく、もともと人に備わっている自己治癒能力を強化しているのではないだろうか。
であれば、強い自己治癒能力を持つ植物にも十分効果が出る可能性はある。
「ユケイ様、失礼致します」
不意に扉がノックされ、アセリアとネヴィルが帰って来た。
気がつけば結構な時間が経っていたらしい。
「ネヴィル、お帰り。何か成果はありそうかい?」
「いろいろと興味深い文献はありましたが、イタヤカエデの植林に関しては何も……」
「そうか……。実はちょっとアイデアがあるんだが聞いて欲しい」
「ユケイ様、ちょっと待って下さい」
ウィロットが話に割って入る。
「まずこれが先です。ネヴィル様、アセリア様、おててを出して下さい」
そういうと彼女は、2人の手に数滴づつ器用にアルコールを振りかける。
どうやら彼女はおててというのを手の丁寧な言い方と解釈しているらしい。
「あ、ああ。そうだったね。ウィロット、これで食中毒が本当に防げるのかい?」
「それはやってみないとわからないです。ね、ユケイ様?」
「ああ、そうだね。けど多少の効果は間違いなくあるはずだよ」
「そうなんですね……。ユケイ様、よろしければこの液体を少し売って頂けないでしょうか?」
「いや、売るだなんて。元々そのつもりだったから、いくらでも持っていって貰っていいよ」
「ありがとうございます。……お恥ずかしい話なのですが、実はわたしがオルバート領を出発する少し前に、城で食中毒騒ぎがありまして……」
「なんだって!?」
ネヴィルの何気ない一言に、全員の視線が集中する。
俺があげた声が思いの外大きかったのか、ネヴィルの肩が大きく跳ねた。