銅貨と金貨 Ⅱ
それからネヴィルは使者としての仕事や謁見などに飛び回り、ようやく多少の時間が取れたのが彼が来てから3日目のことだった。
その間、彼は積極的に方々へ飛び回っていたようだが、アセリアの話によるととても活き活きとしていたらしい。
どうやらこの使者という仕事は、非常に水が合っているらしい。
オルバート領にいた頃は剣の鍛錬によく励んでいたが、意外にも彼の適性は外交や商売といった方面にあるようだ。
「ユケイ様、なかなかお時間を作れずに申し訳ありません……」
「いや、構わないよ。ずいぶん忙しそうだけど大丈夫かい?アセリアとの時間は取れているんだろうか?」
「はい。お気遣いありがとうございます。なにせ時間があまりないものですから。オルバートの冬は早いです。せっかく頂いた機会に、多くの人と会い、多くの物を見なければなりませんので」
「……なんだか本当に別人になったようだね。オルバートの冬は厳しいけど、春は長く続きそうだ」
「そのきっかけを与えてくれたのは、全てユケイ様です」
「やめてくれよ、俺はそんな大したものじゃない。それより、調べたいことっていうのは何だい?」
「あ、はい……、実は……」
ネヴィルは俺に、現在オルバート領が抱えている問題を語った。
彼のその問題の捉え方や整理の仕方、そして理路整然とした語り口からは、彼に会わなかった3年間、立派は領主になるために弛まぬ努力を積み重ねてきたことが感じ取れる。
「なるほど……。そこでイタヤカエデの植林を行いたいけど、それが上手くいっていないということか……」
「はい、流石ユケイ様です」
「いちいち持ち上げるのは止めてくれよ。なんだかこそばゆい」
「はい、申し訳ありません……」
今後オルバート領を豊かにする為に、メープルシロップの販売という路線は大きな柱になる。しかし、その為にはその生産量を増やさなければならないのだ。
例えば砂糖キビや甜菜大根を増産する場合。問題を単純化すれば、作付け面積増やせばよい。
それはもちろん簡単ではないが、十分可能だろう。
では、メープルシロップを増産する場合はどうすれば良いのか?
それは原料となるイタヤカエデの樹液を多く収穫しなければならず、それはつまりイタヤカエデの森を植林しなければいけないということだ。
「で、昨年までの成果はどうだったの?」
「はい。昨年までの成果はほぼゼロといって良いほどでした。イタヤカエデの実からは芽は一切芽吹かず、さし木で根を張らせたものは最初は上手くいっていたのですが、冬の間に枝を全て鹿に食べられてしまい……」
「えっ?鹿が?」
「はい。結果数本は残っているのですが、今年の冬を越せるかどうか……」
「ああ、なるほど……」
さし木というのは、若い木の枝を丁寧に切り離し、それを土に刺して肥料を与えることによりその枝から根が生えてくるというものだ。
木の植林方法としてはどこでも使われている一般的な方法である。
前世でも鹿による農作物の被害は度々ニュースになっていたが、この世界で鹿と言われる動物は前世のそれに比べると一回り大きく、食欲も旺盛だ。さらに冬の間冬眠もしないので、さし木されたイタヤカエデの若木は格好のエサだろう。
イタヤカエデの木は、根が張ったとしても樹液が取れるようになるのに30年。生産量では劣るが吸引機を使う方法を使えば5年ほどで採取できるようになるが、それでも植林から5年後だ。
対策をしなければ5年のうちに全てのイタヤカエデの若木はやられてしまうだろう。
「鹿をある程度駆除するというのはどうかな?」
「はい、それももちろん検討しているのですが、冬眠しない鹿はオルバートの民にとって、冬の間の重要な食糧源です。やたらと数を減らせば、そのツケはいずれ人間に回ってくるでしょう」
「うん、確かにネヴィルの言う通りだ」
正直……、ネヴィルが賢すぎて力になれる気がしないのだが。図書室に行ければ、専門書をあたり何かいい案が浮かぶかも知れない。
図書室に行ければだが。
「ネヴィル、時間があるなら一度城の図書室に行ってみたらどう?オルバートの図書室よりだいぶ広いし、樹木に関する専門書もあったはずだから力になるかも」
「あ……、なるほど……」
一瞬だけネヴィルが気を使うような表情をしたのは、おそらくアセリアから幽閉のことを聞いたからだろう。
「アセリア、ネヴィルを図書室へ案内してあげて」
「はい」
連れ立って部屋を出る2人を、なぜか少し眩しく感じる。
「しかし、あのネヴィルがずいぶんと立派になったな」
「ネヴィル様はユケイ様みたいになるんだって、ずっと頑張ってましたからね」
「すごいね。頭が下がるよ」
「何いってるんですか?すごいのはネヴィル様じゃなくって、ユケイ様ですよ。ユケイ様がネヴィル様をその気にさせたんですから。あの意地悪なネヴィル様を」
そう言いながら、ウィロットはぷっくりと頬を膨らませる。
ついそのまん丸く膨らんだ頬を指で突いてみたくなるが、流石にそれは自重しよう。
「けど、メープルシロップって葉っぱまで美味しいんですね。甘いんでしょうか?」
「ああ、どうなんだろうね。けど鹿は冬の間はエサがないからなんでも食べるんだよ。木の実だけじゃなくって木の皮だったり、芽だったり葉っぱだったり。枝も食べちゃうから根が生えたての若木なんて全部やられちゃうだろうね」
「そうなんですね。」
「なにか良い方法ないかなぁ」
「大丈夫ですよ。ユケイ様でしたら絶対に良い方法が見つかりますから!お茶を入れ直してきますね」
彼女はそういうと、さっとトレーに食器を乗せ、パタパタと炊事室へと入って行く。
とはいっても、これは中々の難題だ。前世でも鹿のせいで山が禿山になったという話を聞いたことがある。前世で解決できないものが、俺にできるのだろうか?
そりゃあウィロットには良いところを見せたいし、ネヴィルにもいずれ化けの皮が剥がれるとしてももう少しは尊敬してもらいたいという気持ちもあるのだが……
「ユケイ様、おてて出して下さい」
「え?あ、ああ。おててって言うなよ。子どもみたいだろ?」
「なに言ってるんですか。ユケイ様はまだ子どもですよ」
「それをいうならウィロットだって子どもだろ?」
「もちろんそうですよ。カイン様も子どもです」
「どうでもいい」
カインは無愛想に答える。
俺は両手をウィロットに差し出すと、彼女はそれに数滴瓶から液体を垂らし、俺はそれを手に揉み込む。
両手にスーッとした冷たい感触が広がった。
「これって本当に効くんですか?」
「うーん、気休めといえば気休めだけどね」
彼女が持ってきた液体、それは新しく作った消毒用のアルコールだった。
城にあった蒸留酒を更に蒸留し、アルコール濃度を極端に高めたものである。
「石鹸も高いですけど、こっちの方がもっとお金がかかりますね」
「うん、そうだね。アルコール消毒液を作るより、石鹸を安く大量に作る方法を考えた方が良いのかもしれない」
実際、食中毒の防止には石鹸で手を洗うだけで概ね大丈夫なのだ。
この世界の技術で蒸留酒からアルコールを作っていては、いずれ国中の酒がなくなってしまうだろう。
「安い石鹸ですか?わたしはお城に来る前は、ムクロジの実を使ってました」
「ああ、ムクロジね……」
「はい。オルバートの森にはムクロジがいっぱい生えてますからね」
ムクロジの実にはサポニンという成分が含まれており、それが泡立つことで石鹸やシャボン液のような効果を持つ。
昔から天然の石鹸として活用されてきたものだ。
「そういえば、オルバートの鹿はムクロジを食べないんですよ。美味しくないんですかね」
「ああ、そうなんだ……」
そう言いながら、彼女はお茶請けを取りに炊事室へ戻る。
ムクロジの実は苦味があり、人間が食べる際には周りのサポニンを含む果肉部分を取り除き、中心部分を炒ってから食べる。
生でそのまま食べることはしないだろう。
「そうか……。鹿はムクロジを食べない……」