毒見少女の憂鬱 Ⅴ
彼女の名はウィロット。
少し前にこの屋敷に買い上げられた農奴であった。
この世界では奴隷制は俺が産まれる前に廃止されている。しかし、労働力として農奴を雇うということは合法であった。農奴は奴隷と違い財産を持つこと、結婚をすることは許されていたが、職業の自由、移住の自由は認められておらず、生活に困った平民が金銭と引き換えに子供を農奴に出すということが日常的に行われている。
そしてウィロットもその様な経緯で、このオルバート家に俺の毒見役として買われてきたのだという。
そして事の次第はやはり昨日の夕刻に聞いた、厨房での騒動が全てであった。
ウィロットの主な仕事は毒見であるが、農奴である彼女は当然それだけで他の労働を免除されることはない。他のメイドと同じように、清掃や洗濯など、様々な仕事をこなさなければいけなかった。
しかし、わずか8才の彼女がそれらの仕事を十分こなせるわけもなく、行く先々で邪魔に扱われ、あの日はついに厨房へ行くように命じられたのである。
「8才で他の者と同じような仕事ができるわけないじゃないか……」
8才といえば前世で考えると小学3年生である。
農奴に関してはいろいろ事情があるとしても、一人前の労働力として責任を負わすというのはとうてい考えられない。
「で、昨日厨房で野菜を塩ゆでした後のスープを、別の瓶に移すようにいわれました。その時、空の瓶と間違えて砂糖が入れられている瓶にスープを入れてしまったのです……」
「えっ!?」
俺は思わず声を上げてしまう。
アセリアは既に状況を知っていたのか、ふぅとため息をついて首を左右に振った。
ウィロットは木彫りのペンダントをギュッと握りしめ、ぷるぷると小刻みに震えている。
鮮度や賞味期限がはっきりと管理されていないこの世界では、よほど新鮮なものでないかぎり肉類はもちろん野菜も生で提供されることは少ない。さらに塩などの調味料も高価なため、野菜を塩ゆでする場合のスープは火を通し数回使い回すことになるのだ。
「なんでそんなことを……」
「だって、瓶の中が見えなかったんです!」
要するに、瓶の中に砂糖が入っていることに気づかず、空だと思い塩ゆで用のスープを流し込んでしまったということらしい。
確かに彼女の身長であれば、瓶の大きさによっては中まで見通すことは難しいだろう。
特に砂糖が瓶の口までいっぱいに入っているのでなければ猶更だ。
しかし、それで砂糖を駄目にしてしまったというのであれば目も当てられない。砂糖は非常に貴重な調味料であり、その扱いは香辛料と変わらない。特に今の季節はその原料となるサトウキビも甜菜も無く、ウィロットが駄目にしてしまった量がどれほどなのかはわからないが、砂糖を買おうとするなら今が最も高い時期だといっても過言ではないだろう。
「それで、その駄目にした砂糖を弁償しろと言われているのかい?」
「はい……。ネヴィル様はそれをわたしの家に請求すると言ってました。けど、家はわたしを売りに出さなければ冬支度も出来ない程貧しいです。お砂糖の弁償なんて、できるはずがありません……」
この地域は冬の間多くの雪に閉ざされるため、冬を越すために大量の食糧、そして薪を蓄えなければならない。彼女の家は男手が少なく、食糧を貯えるにも薪を集めるにも、大変な労力とお金が必要なのだ。
「ウィロットはもうすでに屋敷に買われているんだろう?その責任をウィロットの実家に求めるなんておかしいんじゃないか!?」
「ユケイ様、ウィロットは買われているのではありません、奴隷ではないのですから。彼女はここで働き財産を得ることができます。当然ミスにより負債を得ることもあります。それが彼女の手当で賄えないのであれば、家族にそれを負ってもらうこともあるでしょう……」
「そんな都合のいい解釈が通るのか?ただですら毒見なんて望まない仕事をやらされているというのに!」
「ネヴィル様は砂糖の代金の代わりとして、わたしの兄も農奴として屋敷で引き取ると言われました。父はもういないので、兄も家から出ることになればわたしの家の働き手がいなくなってしまいます……。そうなれば、もう私たち家族は飢えるのを待つことしかできません……」
初めてウィロットが毒見に現れた日、彼女は最初のスープをなかなか口に運ぶことができなかった。手が激しく震え、スプーンを何度も落とし、目には大粒の涙が浮かんでいた。
俺なんて毒殺するような人間はいない、俺自身はそれを分かっている。実際昨日までは毒見など付けずに食事をしていたのだ。
しかしそれを知らない……、いや、知ってたとしても、彼女にとって目の前のスープは自分を殺すかもしれないスープなのだ。
そんな彼女の気持ちを分かっているのか、誰も彼女の毒見を急かす者はいなかった。だとしても「早くそれを飲め!」という無言の圧力がのしかかり、四半刻をかけてわずかな量の毒見を終えた時、彼女の顔はぼろぼろ零れる涙で埋まっていたのだ。
わずか8才の少女に、自ら毒かもしれない食べ物を口へ運ばせる。それ以上の責め苦をさらに与えるというつもりなのか?
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「わかった。駄目にした砂糖の分を弁償すればいいんだろ?じゃあ城からそれを運んでもらえば……」
「それは駄目です」
「なんで!?」
「ここからアルナーグに使いを出し、そこから砂糖を運ばせるというのは砂糖の費用だけではなく多くのお金がかかります。その予算がユケイ様にはありません」
「予算……?」
「はい、予算です。それにその予算は国のお金です。ユケイ様が生活するために使われなければなりません。ウィロットのミスは彼女が起こしたものです。そのために国のお金をお使いになることはできません」
「そんな!」
アセリアの言うことは確かに正論なのかもしれない。しかし、俺には業務上ミスした責任を、そこまで追及されること自体が納得できない。それはもちろん前世での感覚だということはわかっているが、だとしてもそれではこの少女が不幸すぎるのではないだろうか。
「じゃあ俺がネヴィルと交渉する!それならいいだろう?」
「交渉するとは何を交渉するというのですか?」
「それは……、砂糖の弁償を少し待ってくれるように頼むとか……」
「少し待って、それは誰が払うのですか?それに王子であるユケイ様と子爵の子であるネヴィルの間で交わされる話し合いは、交渉と言うのでしょうか?」
「そ、それは……」
「そうではなくって……!ウィロット!あなたはユケイ様の『噂』を聞いてここに来たのでしょう!?あなたがユケイ様にお願いすることはもっと別にあるはずです!」
アセリアの突然の声に、俺もウィロットもきょとんとした顔をする。
噂とはいったい何のことだ?
「……噂ってもしかして、『図書室のお悩み解決王子』のこと?」
ウィロットはハッと顔を上げる。
「は、はい!そのお話を聞いて王子様に会いに来ました。けど……、何をお願いすればいいのか……」
ウィロットはオロオロしながら、アセリアの顔を見上げた。
「それは……、もう!ユケイ様、ウィロットが誤って塩水を入れてしまった瓶はそのまま保管してあります!塩と砂糖が混ざったスープの中から、砂糖だけを取り出すことはできないでしょうか?」
「……あ、ああ!そういうことか!」
俺は全てのことが腑に落ちた気がした。
「スープは全部取ってあるんだね?」
「は、はい」
「じゃあ大丈夫だ。そのスープの中から、砂糖だけを取り出すことはできるよ!」
「えっ!?ほんとうですか?」
「ああ、それはそんなに難しくないよ。溶けた砂糖全部とはいかないが、うまくやればほとんど抽出できるはずだ!」
俺の言葉を聞いて、アセリアとウィロットは一瞬顔を見合わせると、アセリアはウィロットを力いっぱい抱きしめた。
「ウィロット!」
ああ、そういうつもりだったのか……。
そもそも部屋の外に現れたウィロットの気配に気が付いたのも、少し強引に室内に招き入れたのもアセリアだ。もしかしたら俺の知らないところで、ウィロットに俺に相談するように促していたのかもしれない。
先ほどのアセリアの物言いは、確かにかなり厳しいものだったが、彼女の立場上仕方がなかった。だから、俺の立場を使わずに知恵を使ってウィロットを助けてあげれないか?そう考えたのだろう。