パンケーキと食中毒 Ⅱ
ほかほかと湯気をあげるパンケーキを前に、今にも鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌なウィロット。
「ではユケイ様、お先に失礼します!」
そう言うと、ウィロットは切り分けたパンケーキを口の中にゆっくりと運ぶ。
そして咀嚼する度に、彼女の目元がとろんと垂れていく。
そんな彼女を見いるだけで、思い出の味が口の中にジュワッと広がるようだ。
幸せそうな彼女に呆れてため息が出る。
「そりゃあ、まあ、美味しいんだろうな」
「ウィロット!さっさと嚥下して毒見を終わらせろ!」
痺れを切らしたカインが、ウィロットに食ってかかる。
その瞬間だった。
「ユケイ様!」
ノックもせずに緊迫した声を上げ、部屋へ飛び込んで来たのはアセリアだった。
その剣幕に驚いたのか、ウィロットはごくりと冗談のような大きな音をさせ、パンケーキを飲み込んだ。
軽く喉に詰まらせたのか、大急ぎで水を喉に流し込む。
「どうした、アセリア?らしくもなく慌てて……」
「ユケイ様、体調に変化はありませんか?何か変なものをお召し上がりなったりしていませんか?」
部屋に入るや否や彼女は一目散に俺の元へ駆け寄り、俺の手を取ったり首筋やおでこに手を当てたり、俺の体調を確認する。
彼女の焦り様が、何か只事ではない事態が起こっていることを物語っていた。
「変なものって、俺は何も食べてないけど……」
そう言いながら、視線はウィロットの方へと向いてしまう。
俺の視線を感じ取ったのか、アセリアはそれを追う様に視線を動かし、その先で見とめたのは今まさに二切れ目のパンケーキを口に運ぼうとしているウィロットだった。
「ウィロット!」
その瞬間アセリアの顔はみるみる青くなり、矢のような素早さでウィロットが手に持ったフォークを、パンケーキごと弾き飛ばした。
「ウィロット!何を食べているの!?すぐに吐き出させます!ユケイ様も一切何も口にしないで下さい!」
アセリアはそう叫ぶと、ウィロットを抱えるようにして部屋から出ていった。
嵐の様にアセリアが駆け抜けた後、ドンドンと工房の扉がノックされ、現れたのはアゼルだった。
「ユケイ様、体調にお変わりはありませんか?気分が優れないとか、腹痛とか……」
「いや、俺は特になんともないけど。さっきアセリアも来てウィロットを連れて行ったが、いったい何が起こったんだ?」
「はい。実は……」
アゼルは短く前置くと、今このアルナーグ城内で起こっている非常事態について話し始めた。
「食中毒……だって?」
どうやら一部の兵舎で食事をした者の中に、なんらかの体調不良を訴える者、中には意識を失う者すら出ているらしい。
幸い今のところ、命を落とすほどの症状が出ている者はいない。しかし意識障害を起こした者の中には、今だに目を覚まさない者もいるという。
この時代、食中毒自体は全く珍しいものではない。
衛生観念や食品に関する知識不足ということなのだろうが、それは現在の文明レベルを考えれば仕方がないだろう。
「お母様やお兄様達は無事なのか?」
「はい、今のところ食中毒はそこしか発生しておりませんので。しかし、念のために王族の方々には今日の昼食は取り止めにして頂きたい……のですが。しかし、これは一体どういうことですかな……?」
アゼルはジロリと室内を見渡す。
彼の目には食べかけのパンケーキ、出しっぱなしになったメープルシロップのビン、そして漂う甘い香り……
この後俺は、アゼルからの特大カミナリを受けることになったのだ。
「まったく。王子の位にある者が、まさか正規の料理人以外が作ったものを食べようとするなんて。しかも自分達で料理の真似事をして、得体の知れない材料を使ってまで……」
アゼルは心の底から理解できないといった風だ。
確かにアゼルの言う通りだ。一緒に怒られたカインの落ち込み様がすごい。
そんなこんなしている間に、コンコンと弱々しく工房の扉がノックされる。そこには青い顔をしたウィロットとアセリアの姿があった。
彼女は確かに青い顔をしているが、体調を崩している様には見えない。
ぐったりしているのは、おそらく嘔吐剤を飲まされたのだろう。
嘔吐剤とは、吐き出したくなるくらいの苦い薬だ。
甘いパンケーキの後に飲む嘔吐剤は、さぞかし地獄の味わいだったろう。
「ウィロット、大丈夫か?」
「はい、ユケイ様。大丈夫です……。せっかく美味しいパンケーキを食べたのに、全部もどしてしまいました……」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう?異常がないならいいんだけど……」
「わたしは大丈夫ですけど、中庭の方は大変でした。そこら中で人が休んで治療を受けていて……」
「そんなになのか!?」
おそらく嘔吐剤を飲まされるためにわざわざ外に連れ出され、その時に例の惨状を目撃したのだろう。
衛生管理がしっかりしていないこの世界で、食中毒が度々起こってしまうのは必然だ。
幸い俺は直接の被害を被ってはいなかったが、何度も食中毒が発生したという話は耳に届いている。
今回は特に交代で食事を取ろうと、早目に食事を始めていた兵士達にその被害が多いらしい。
「原因はわかっているのか?」
「今のところは……」
アゼルはそう言いながら首を振った。
食中毒には色々な原因がある。
まずは衛生管理の失敗による細菌や微生物などの汚染だ。次に食材の腐敗によるもの、後はソーセージやハムやチーズなど、加工食品の作成中による不備、後は毒性のものが誤って混入してしまうケース。
前世でも香り高く美味しいと言われるギョウジャニンニクと、強い毒性を持つイヌサフランを誤って食べてしまい、重篤な食中毒を引き起こすというケースが多々ある。こちらでも当然それはあり得るだろう。
「城の外の様子はどうなんだ?」
「特に何も情報は入ってきていないので、特に問題はないかと思います」
「全く?」
「はい」
「そうか……。それはよかったけど……まあ、起きてしまったものは仕方がない。とりあえず今日の昼食は抜きだな」
「えー?皆んなですか?」
ウィロットが不満そうな声を上げる。
食中毒が起きた時、真っ先に犠牲になるのは自分だとわかっているのだろうか?
「パンケーキはきっと大丈夫だと思います。さっきちょっと食べたけど、平気でした。アセリア様にぜんぶ吐かされてしまいましたけど」
そう言いなが恨めしそうにアセリアを見るが、彼女は意に介さず涼しい顔だ。
「麦角の可能性もある。小麦粉なんて今は一番ダメだよ」
俺の言葉を聞いて、ウィロットはヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
麦角とは麦に付く病気の一つで、それに気づかずに食べた場合、命を落とす可能性もあるのだ。食中毒の原因になることがある。
その日は結局、夕食まで飲食を控えたために賑やかなウィロットの腹の音を聞きながら過ごすことになった。夕食は無事に済ますことができたために彼女の機嫌は保つことができた。
しかしその3日後。
城内で再び大規模な食中毒が発生した。前回は一つの炊事場で起きたことであったが、今回は何と城内全ての炊事場で同時に発生したのだった。
そして、俺の昼食の毒見をしていたウィロット。
彼女も被害に遭うこととなってしまった。




