パンケーキと食中毒 Ⅰ
「ユケイ様!できましたよ!今度はきっと大成功です!」
そういいながら上機嫌のウィロットが運んで来たものは、小麦色に焼けた円型の物体である。
円の直径はおよそ15シール、厚さは2シールほどだろうか、香ばしい小麦の匂いと卵と牛乳の微かな香りが工房内に広がり、立ち上る湯気を軽く匂うだけでも涎が溢れて止まらなくなりそうだ。
漂う香りに俺も思わずテンションが上がってしまう。
やっぱりパンケーキは幾つになっても良いものだ。
「これだよ!これ!これがずっと食べたかったんだ!」
……遡ること今日から4日前。
それは例の事件から1ヶ月ほど経ったその日、俺たちの元に届いたのは白い歪な形をした鉱石だった。
それまでに何度もハズレの鉱石が届けられた。ハズレの中には希少なもの、そこらに転がっているような変哲もない石ころ、そして未だに正体の分からないものもあったが、その日に届いたものは正しく俺が求めているものであった。
色形はもちろん、何よりそれはバガル塩湖から届けられたという。
どうやらそれはバガル塩湖の辺りでは腐り塩と呼ばれているものらしく、さして珍しいものではないとのことらしい。
これがもし本物のトロナ鉱石であれば、重曹を抽出してベイキングパウダーを作って、前世と同じようなふわふわのパンケーキが食べれるのだが……
「ウィロット、お酢……」
「はい、どうぞ!」
鉱石のかけらに、チョンと少量の酢を垂らす。
一見何の変化もないように見えるが……
「またハズレですか?」
そう言いながらも彼女はさして気にしていなさそうだ。
そんな彼女を護衛見習い件助手に昇格(?)したカインが、ギロリと睨む。
「ウィロット、静かに!」
「はい、すいません」
耳をよーく澄ますと、微かにパチパチという泡が弾けるような音が聞こえる。
「これだ!!」
「えっ!?」
「ほんとうですか!?」
一瞬だけ間を開けて……
「やったーー!!」
俺とウィロットの声が重なる。
俺と彼女は、飛び上がってパチンと手を打ち合わせた。
一瞬カインもそれに混ざりかけるが、恥ずかしさのためか護衛のためか、どうやら自重したらしい。
「よかったですね!ユケイ様!」
「うん、ありがとう!」
「それで、これって何なんですか?」
「ええっ!?何回も説明したでしょ?」
「ユケイ様の説明は難しいんです」
膝の力ががっくり抜ける。
俺は何度目かの説明を彼女にするが、結局理解できたのは美味しいおやつが作れるということだけらしい。
それにしても、腐り塩とは酷いネーミングだ。
確かにアルカリ性のトロナ鉱石は強い苦味があり、大量に摂取すると粘膜を痛める可能性もある。そう呼ばれるのも理解できなくは無いが。しかしそれなら、これは現地に行けば安く手に入るということだろうか?
俺はそれを再びカインに粉末状にするよう頼んだのだが……、以前のウルツ鉱石の時の重労働に懲りたのか、遠回しかつ断固とした意志で断られてしまった。
「それじゃあ、粉ひきに頼むしかないか」
「水車ですか?」
カインが怪訝な表情をする。
「まあ、ウィロットは顔が割れていないから大丈夫だろう。ウィロット、ちょっとお使いを頼んでいいかい?」
水車小屋を統括する水利組合とは以前一悶着あった。ウィロットには重々目立たないようにと釘を刺し、水車小屋へとお使いに出す。
そして数刻後、俺たちは皿いっぱいの、粉末状腐り塩を手に入れることができた。
「ウィロット、水車の様子はどうだった?」
「はい、お城のすぐそばにも新しい水車ができてました。粉ひきさんも忙しそうにしてましたよ」
「ウィロットは並ばなかったかい?」
「ちょっと並びましたけど、すぐに順番が回ってきました。あまり混んでる感じではなかったです」
「そっか……」
新しい水車が増えていたということは、水利組合のバルハルクは約束を守っているのだろう。
あの件も今から思えば小さな影を生むきっかけだった。しかしそれは小さな側面であり、俺とノキアがしたことは多くの人の利益になったことに間違いは無いはずだ。
であれば、今の状況は些細なことなのかもしれない。
「……けど、石を粉ひきして下さいって言ったら、臼が痛むから石を臼にかけるなんてできないって言われました」
「ああ、それもそうか……、あれ?じゃあどうやってそれを引いてもらったんだい?」
「はい!ユケイ王子からの仕事だって言ったら、喜んでやってくれました!」
俺は一瞬で血の気が引くのを感じた。
「ええっ!そんなこと言っちゃったの?目立たないようにって言ったじゃないか!?」
「大丈夫ですよ。粉ひきさんにこっそり伝えましたから。ぜんぜん目立ってないです」
カインの大きなため息が聞こえる。
ウィロットやアセリアと合流したのは水車の件の直後だ。彼女が俺と水利組合とのいざこざを知らないのは、当然のことなのだ。
当然、言わなかった俺が悪い……。
おそらく今頃、俺の使いのメイドが、奇妙な仕事を持ってきたという情報はバルハルクの耳に届いているだろう。悪い方に話が転がらないことを祈るしかない……。
まあ、終わったことは仕方がない。ウィロットを責めるのはお門違いだ。
何はともあれ粉末状のトロナ鉱石は手に入った。この状態から重曹を取り出すことはさほど難しくない。以前オルバート領で行った、砂糖の再結晶に原理は似ている。
それから幾つかの過程を経て遂に、俺はこの世界で重曹を手にすることができたのだ。
重曹には色々な使い道がある。しかし、今は何よりパンケーキの作成だ。生地に重曹を練り込むだけでは生地を膨らますことはできない。重曹から炭酸ガスを発生させなければ、前世のようなふんわりしたパンケーキを作ることはできないのだ。
ここからは試行錯誤の連続である。
小麦粉に対しての重曹の分量はどれくらいが適正か?そして炭酸ガスを発生させるための還元剤を何にするか?
重曹は弱アルカリ性だから、レモン汁などの柑橘系植物に含まれるクエン酸、玉ねぎなどに含まれるタルタル酸、ヨーグルトに含まれる乳酸。パンケーキ自体の味に悪い影響を与えず、かつ、適正に炭酸ガスを発生させる物質はいったいなんだろうか?
様々な試作品の結果、最終的に落ち着いたのは焼く直前のパンケーキ生地に直接「お酢」を垂らし、それをかき混ぜてから焼くというものだった。
そして今日の昼である。
「メープルシロップとバターが良く合うんだよ。昼食の前だけど、皆でこれを食べちゃおうか」
皆で食べると言っても、当然同じ卓を囲んで食事をすることではない。
当然主人が先で、それが終わってから配下の者が食べるのがしきたりだ。
「わーい!わたしもパンケーキ食べたいです!」
「ウィロット、アセリア様やアゼル様がいないからって、緩みすぎだぞ!ユケイ様ももう少しウィロットに厳しく言って頂かないと……」
カインが暴走するウィロットを止めに入る。
「まあ、ちょっとくらいいいじゃないか」
「そうです。ちょっとだけなんですから。もちろん最初にパンケーキを食べるのはわたしですよ!毒見しなければいけませんからね」
「目の前で作ったのに、毒見も何もないだろう?」
思わず悪態が口を出てしまう。
「ダメですよ、ユケイ様。ユケイ様のお口に入れる物は、毒見が絶対必要ですから」
ウィロットはそういうと、鼻歌混じりにメープルシロップを取り出し、少量をパンケーキの上から回しかけた。濃厚なキャラメルのような、そして微かに燻製されたような渋い香りが香ばしい小麦の匂いと溶け合い、何とも言えない芳醇な香りが辺りに漂う。