兄と弟(下)Ⅸ
「……ユケイ、君にはがっかりしたよ。弟だと思い可愛がってきたつもりだ。口では王位に興味がないと言っていても、結局君も狙っていたということだね」
「お兄様、何を言ってるんですか……?」
「君こそ何を言っているんだ?取られた手柄を取り返しに来たということだろう?先日は確か兄に手柄を譲ると言っていたと思ったがな」
俺を見つめるノキアの冷ややかな目。
それは昨日までの兄と、同じ人なのかと疑うほどであった。
「わたしはそんなこと一言も言っていません。手柄など全く興味がない。わたしが言いたいのは、カインの件です!」
「カイン?それはいったい誰だい?」
「お兄様が罪を擦り付け、今現在牢屋に入れられているわたしの助手です!」
「……そのカインという者はどこかの貴族の子弟なのか?」
「いえ、違います……」
「なるほど。それで、そのカインがどうしたんだい?」
どうしたというのは、いったいどういう意味だろうか。
俺は今確かに、俺の部下であるカインが罪を擦り付けられて牢屋に囚われていると説明したはずだ。俺の意図を理解してそう答えたのか、本気で理解できずにそう言っているのか、言葉以前に大きな壁が立ち塞がり頭がクラクラするようだ。
「お兄様、このままではカインが罰せられます……。無実の部下が、処罰されることになるのですよ?」
「……つまり、そのカインという下働きの男の減刑を望むということか?」
減刑?
カインは当然無実なわけだから、減刑どころか罰せられること自体がおかしい。むしろ一人で命を懸けて賊へ立ち向かったのだから、報奨を与えられても然るべきだ。
それを減刑というのは、どういう思考で出てくる言葉なのだろうか。
まるで言葉が通じていないような感覚、いや、見ている世界が違うというか、住んでいる世界が違うかのような……。
「ユケイ、どんなに君が頑張ったとしても、エナお兄様が皇太子になることは決まっている。そうなれば、継承権二位は第一王妃の次男である僕だ。手柄が要らぬというならここからすぐに居なくなってくれ」
「そんなことを言っているのではない!カインを解放して、彼に謝って下さい!!」
「……謝る?」
ノキアの表情は、心底訳がわからないといった感じだ。
「ユケイ……、彼にはもしかしたら申し訳ないことをしたかもしれない。けど、僕は王子だよ?それに、君の兄じゃないか。カインはよほど優秀だったのかもしれないけど、ただの下働きだし平民だ。それでも謝罪をしろと言うのかい?」
そうか、これが封建社会というものなのか……。
はるか昔、社会の授業で習った知識。それはこの世界の社会システムの礎になっているものだが、それを深く意識することはなかったと思っていた。
しかし、それは全くの嘘だ。
そんなはずはないのだ。俺は多くの人を傅かせ、ウィロットには毒味をさせ、人々から搾取した税で生活をしている。
封建社会の頂点にどかっと腰を下ろしている癖に、王侯貴族にたいして平民に頭を下げろとは、いったいどの口が言っているのだろう。
例えノキアがカインに謝罪したとしても、俺が普段やっていることとノキアがやっていることは全く変わらないのだ。
ノキアに謝罪させたいのはカインではない。そんなことをされても彼にはなんの特にもならないのだから。
ノキアの謝罪を求めているのは、俺自身のエゴ。すなわち、カインを理不尽に使役している自分に対して、俺は「ちゃんとやっている」という免罪符を欲しがっているだけだ。
違う、そうじゃない。
そんなものより俺がやらなければいけないこと、それは……。
俺は3秒息を止め、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……お兄様、申し訳ありません。少し気が動転していたようです……」
そう、俺がやらなければいけないことは、カインに誓った通り彼を無事に牢から救い出すことだけだ。
「あ、ああ。落ち着いてくれて助かるよ」
もし俺がカインの無実を証明するのであれば、それは当然ノキアを断罪しなければならない。しかし、そんなことは不可能だ。
法に則ってとか、正義の名においてとか、そんなことは全く関係ない。
今回の件で、王子を断罪すること自体が不可能、なぜなら今回の件で関係している者が、全て第二王子以下の身分だからである。
理不尽であろうとなんであろうと、それが封建社会の仕組みなのだ。
であればどうするべきか?
俺にとっての最良の道すじは1つだけだ……。
「お兄様、何度も申し上げている通り、わたしは王位には全く興味がありません。工房が有ればそれで満足ですし、工房さえあればこれからもノキアお兄様やエナお兄様のお役に立てます。ですが、工房を動かす為にはカインが必要なのです。ですからどうか……、どうか彼を解放して下さい。お願いします、お兄様……!」
「ユケイ、君は化け物だよ……。僕が君の言葉を信じると思うのかい?」
「化け物?何をおっしゃっているのですか?優しいお兄様はどこへ行ってしまったのですか!?」
「それは、全て君のせいだ。魔力の目を持たない、無能の子だと思ったから憐れんでやっただけだ。魔法も使えない君が王位につくことはないからね。けど、君はいったい何なんだ?」
「お兄様!わたしは今回の件については今後、口を出さないと誓います。止まぬ風をお兄様が手に入れ、それを全てお兄様の手柄としてエナお兄様に報告しても、わたしは全て関知しないと誓います!ですからカインを解放し、また別の者を罰するようなことは止めて下さい!」
途端に、ノキアの瞳に怒りの炎が灯る。
彼は手を振り上げると、手に持った鍵の束を地面に叩きつけた。
「これ以上僕を兄と呼ぶな!全く忌々しい!魔力の目を持たないクセに僕に見えない物を見て、僕の知らないことを知り……、風車の時だって僕が出来ないことを全て簡単にやってのける。弟のクセに!第三王妃の子のクセに!!エナお兄様はなぜ僕じゃなくユケイに書庫の鍵を渡したんだ!?生意気なんだよ!挙句の果てに、王位より平民の下働きの方が大切?何を言っているのか全くわからない。まるで違う世界の人間と話しているようだ……」
ノキアの言っていることはもっともなのかもしれない。俺がこの世界に産まれて11年、しかし前世で過ごした時間の方が遥かに長い。俺のことを「違う世界の人間」という彼の言葉は、ある意味正解なのだ。
「では、どうしろと言うのですか?どうすればわたしの言葉を信じると……」
「……先程、工房さえあればいいと言ったな?」
「……はい。言いました」
「わかった。では、今後一切離宮から出るのを禁止する。そうすれば君と顔を合わせることもないだろう。エナお兄様が王位に着くまでだ」
「そんな……」
「エナお兄様が王位に着けば僕は王弟だ。その時には君はもう王家に不要な人間になっている。第四王子のマリニも、第一王女のフラウラもいるからね。その時が来たら、僕が君をアルナーグから追放してやる。それまで離宮の中で大人しくしているんだ」
離宮の中で、要するに俺を幽閉するということか?
離宮から出ないということは街へ出ることも叶わないし、当然図書室へも行けない。カインと引き換えに、俺の自由を差し出せということだ。
それは俺を信じるための条件ではなく、俺を信じないという宣言ではないだろうか?
ここから俺やカインの身を保証する方法はあるだろうか?
例えば……、本当に例えばだが、全ての罪をノキアの指示で行われたと公表し、その上で彼がエナから「止まぬ風」の秘密を奪い独占しようとしているという理由と証拠を暴く、もしくは作り上げれば……。
その結果、第一王子エナと第二王子ノキアの対立を煽れるかもしれない。そうして俺がエナの陣営に加担すれば、ノキアの要求に従う必要はなくなる。
しかし、その筋書き通りことが進んだ場合、アルナーグ王家は一体どのような未来を迎えるだろう。
そんな未来は誰も望んでいないはずだ。一体何がノキアをこんな疑心暗鬼に駆り立ててしまったというのだ。
これは全て、俺のせいだというのだろうか……?
「ユケイ……、僕は知っているよ。君がまだ赤子の頃、君は兄様には全く近寄らず、俺にだけ懐いて来た…」
全身の血が凍る気配がする。
「昔は可愛いって思ってたさ。けど、あれは全て俺に取り入るための演技だったんだろう……?兄様は厳しそうだからな!だから、だからお前は無能に見える俺に媚を打ったんだ!」
「そ……そんな……、赤子の頃の……ことを……」
「僕はあの時の目をはっきりと覚えている。あれは才の無い、ただ王子だということしか取り柄のない俺を嘲笑っていたんだろう!」
俺はこの言葉を、本気で否定できるだろうか?
俺はエナよりノキアの方が取り入り易そうという理由で、彼に媚をうったのは事実なのだ。前世で36年過ごし、その経験を持ってノキアをどの様な目で見たのかなんてもう覚えていない。
兄をこうしたのは、俺があの時に必死でついた、小さな嘘だというのか……!
けど仕方がないじゃないか!
そうしなければ、俺は殺されていたんだから!
心が静まるのを感じる。
もうこの世界で、彼に俺が出来ることは何も無いのかも知れない。
産まれた世界が違うのなら、決して交わらない物もあるのだろう。
「わたしはお兄様の敵であったことは今まで一度もありません。今後もお兄様がお兄様である限り、それは決して変わることはないでしょう。カインをお返し下さい。そして、無実の者を犠牲にしないで下さい。わたしが離宮に引き篭もることでお兄様の心が休まるのであれば、わたしは今後、離宮から一歩も出ないと誓います」
「そ……、そんなこと……」
これでも信じられないと言うのだろうか。
まるで曇ったガラス玉のようになった猜疑心にまみれた兄の瞳。
これも全て俺のせいなのか?繰り返し自分に問いかけても、その答えは出るはずはない……
「お兄様、これも信じられないと言いますか?であれば、わたしはもうお兄様と戦うしか術はなくなります。わたしが敵か味方か、よくお考え下さい」
そう言って、俺はノキアの瞳を真っ直ぐに見据える。
彼の瞳に渦巻くのは怒りであろうか、それとも恐怖であろうか、それとももっと別の感情なのか、俺に読み取ることはできない。
しかし最終的にノキアは舌打ちをし、俺と目を合わすこともなく短く言い放った。
「もう行ってくれ……」
そして図書室の扉を、力無く指し示す。
こうして俺は、兄と小さな自由を失った。