兄と弟(下) Ⅳ
「ユケイ様!起きてください!」
突然俺を叩き起こしたのは、緊迫したアゼルの声だ。
只事ではない雰囲気に、俺も一瞬で意識が覚醒したのがわかった。
「ど、どうした?こんな時間に」
外を見ればまだ日も出ていないことがわかる。夏の夜が短い時期、日も出ていないということは相当な早朝であることがわかる。
「離宮に賊が入りました。目的はわかりませんが、ユケイ様やシスターシャ様に危害を加えようとする輩の可能性が高いと思われます。申し訳ありませんが、お目覚め下さい」
「離宮に賊が!?」
離宮に不審者が侵入することなど、当然今までなかったことだ。
離宮自体はそんなに警備が厳重というわけではないが、それでもその建物は城壁の中にある。賊がそうそう簡単に入れるところではないはずだ。
「ユケイ様、これにお召し替え下さい」
「ああ、うん。お母様は?」
アセリアが丈夫な皮で作られている狩猟服を持ってきた。
万が一の為の鎧がわりということだろうか、彼女は急いでそれを俺に着替えさせる。その顔は心配かけまいという配慮のためか、いつもと同じ穏やかだった。しかし、服を縫い止めるその手が微かに震えていることに気づいた。
それはそうだ。彼女も賊は怖いに決まっている。
「アセリア、大丈夫?」
「は、はい。わたしはもちろん大丈夫です」
「……わかった。アセリアも兵の側を離れないように。お母様は?」
「はい。シスターシャ様の元には兵が沢山ついています。ご安心下さい」
「そっか……」
母の元には俺よりもさらに厳重な警護が付いている。
よっぽどのことがない限り大丈夫だろう。
「その賊っていうのは、まだ離宮の中にいるの?」
「いえ、おそらくもういないと思います。カインが追い払いましたので」
意外な名前が飛び出し、思わず声が大きくなった。
「カインが!?なんでカインが追い払うんだ!?」
「実は……」
アゼルの話によると、どうやらその賊は俺の工房の勝手口から離宮内に侵入しようとしたらしい。
鍵をなんらかの方法で開き、室内に侵入したところ工房で寝泊まりしているカインと鉢合わせになったという。
「えっ!?カインて工房で寝ていたの!?」
俺にとってはまずその話が衝撃的だった。
確かに今までカインの家とか気にしたことも無かったが、まさか工房に住み着いていたなんて思いもしない。
「そして工房内でカインと戦闘になったのですが、全て返り討ちにして賊は逃げていったそうです」
「カインが返り討ちにした!?」
アゼルがカインから聞いた話によると、賊は3人いたらしい。
それをカイン1人で返り討ちにするなんて……。そんなことは可能なのだろうか?
「カインは怪我はしていないのか?」
「はい、多少傷を負ったそうですが、大きな怪我はしていないそうです」
「カインは工房か?」
「はい」
俺はアゼルの返事を聞くと、同時に走り出した。
「ユケイ様!危険です!」
扉の前に立ち塞がる兵士の間をすり抜けると、俺は全速力で工房へと走った。
廊下の壁に並ぶ燭台の火が、闇夜の中オレンジ色に怪しく揺れる。
「カイン!だいじょうぶか!?」
工房へ飛び込むとそこは真っ暗な闇の中で、その奥から聞き慣れた声が返ってくる。
廊下の燭台から投げかけられる光の影に写し出され、微かに浮かび上がるものはおそらくカインのものだろう。
「ユケイ様?」
はっきりと姿は見えないが、声を聞く限り普段と変わりがないようだ。
俺がいない時は燭台などの明かりは消しているので、俺にとっては室内は真っ暗闇である。しかし、実際には魔法の灯りが常に付いているので、彼からこちらははっきりと確認できるようだ。
俺は声の方に近づくと、座り込むカインの手を取った。
「怪我は?」
「はい、少し。しかしかすり傷です」
「そうか、よかった……」
とりあえずほっと胸を撫で下ろす。
微かに見える傷口や、出血の様子からも彼が言う通り大事には至ってなさそうだ。しかし相手は賊だ、刃に毒が仕込んである可能性も十分にある。
「申し訳ありません。賊と乱闘になったので、工房の中がめちゃくちゃに……」
「そんなことはどうでもいいよ。とりあえずカインが無事でよかった」
そう言いながら、俺は室内をぐるりと見渡す。
もう日の出のころだろうが、室内は真っ暗で何も見えな……
「あれ?」
最初は何も無かったはずだ。
しかし暗闇の中よく目を凝らすと、勝手口の方に何やら微かに光るものが見える。
「ユケイ様!明かりをつけますから動かないで下さい!危ないです!」
息を激しく切らせながら、アセリアが遅れてやって来る。そして彼女は工房内の燭台に火を灯そうとするが……
「アセリア!ちょっと待って!」
「えっ?」
俺は身を低く構えながら、勝手口付近の光に近づく。
「これは……足跡か?」
床に指を這わすと、指先には何か光る粉末のようなものが付着したのがわかった。
「ああ、そういうことか……」
「ユケイ様、どうされたのですか?」
「アゼル、これは見えるかい?」
そう言いながら、俺は指先をアゼルに見せる。
「……いいえ、何も見えませんが?」
彼は少し不思議そうな顔をしながら首を横に振った。
世界には紫外線に反応し、蛍光という特殊な光を放つ鉱石が多くある。有名なのは蛍石だが、方ソーダ方石やウルツ鉱石、宝石ではルビーやサファイアなど、同様の特性を持った石は自然界に多く存在する。
そして、夜明け前や夕方の、大気の中を長く進む太陽光は紫外線の割合が高くなり、特に夜明け直前の薄白んだ状態では紫外線の割合が最も高くなるのだ。
そして蛍光は他の光の中では観測できない。
つまり、暗闇の中の俺は観測でき、魔法の光の中にいるアゼルには見ることができないということだ。
不意に朝日が昇り、日の光が室内を照らし始める。
同時に、薄く輝く足跡は朝日の中に飲み込まれていき、同時に部屋の惨状が明らかになっていく。
「……これは、……ひどいな。ごめん、アセリア、明かりを付けてくれ」
いつも通りの明るさを取り戻した室内で、俺の目に飛び込んだのは散らばった工具や椅子、机の上にまで足跡が付いている。まるで台風の後のようだ。
床の上には粉々になったコンパスのかけらが転がっていた。
幸い棚の方には被害はなく、そこには実験の過程で精製された様々な薬品などもあったが、それらには手を付けられた形跡は全くなかった。
「ユケイ様、申し訳ありませんでした。わたしが賊を追い払えていればこんなことには……」
「ふふふ、変なことを言うね。カインは俺の助手なのに、賊を追い払うとか」
「そ、それは……」
「ごめん、俺はぜんぜん気づいていなかった。カインの役目は、本当は助手なんかじゃなくって俺の護衛と工房の警備だったんだね。だからここで寝泊まりしていたってこと?」
「……はい。申し訳ございません」
普段無表情なカインがこんな困惑した顔を見せるのは初めてでは無いだろうか。
彼は戸惑いながら深く頭を下げた。
おそらく彼の頭の中には、俺に対して騙したとか裏切ったかのような思いが巡っているのだろう。確かに彼が工房の助手を希望したという、多少でも趣味や興味が近い人間ではなかったことはすごく残念ではある。
しかし、俺のために命懸けで賊の侵入を防いでくれたのだ。
もし彼がここにいなければ、もしかしたら俺や母に危害が及んでいたかも知れない。
「そんなことはないよ。まあちょっと残念ではあるけどね。カインも俺と同じように、実験とか少し変わった学問に興味があると思ってたからね」
「すいません」
「いや、もう謝らないでくれ。これからも助手の仕事をしてくれるんだろ?」
「そ、それは……」
ふっとカインの顔がいつもの無表情に戻る。
昨日の重労働を根に持っているのか、どうやら助手の仕事自体はあまり好みではないらしい……。
「け、けどすごいね。1人で賊を3人も撃退するなんて」
「あ、はい……。ただ、なんと言いますかまるで手応えがなかったというか、武器は振るっていましたが……」
「そうなんだ……。何か特徴は?」
「特には……」
「まあいいよ。門が閉じた城の中から、そうそう逃げられるものじゃない。きっとすぐに見つかるさ。そうすれば奴らの目的もすぐにわかる」
賊が離宮と分かった上で侵入したのであれば、目的は俺か母であるシスターシャ王妃しかない。
それらを害して誰が得をするかといわれれば一切思い浮かばないのだが、城に忍び込むなんて命懸けのことをやってのけたのだ。それなりの動機があるのだろう。
「ユケイ様、とりあえずお部屋へ戻りましょう。お目覚めにはまだ早いです」
「アセリア、もう完全に目が覚めてしまったしいいよ。それより工房を片付けないと……」
「ダメです!それはユケイ様のお仕事ではありません」
「いや、けどこの中に犯人の手がかりが……」
「ダメです!!それは衛兵の仕事です。犯人の手がかりなんて、ユケイ様が探す必要はありません。育ち盛りのユケイ様が今やるべき仕事は、毎日決まった量の睡眠をとることです!」
アセリアもかなり頑固だ。こうなっては決して折れることはないだろう。
まあ、きっと寝て起きれば賊は捕まっているか、もしくは自害している可能性も高い。
「わかったよ。後で調べるから、工房はいじらないでくれよ?」
一応そう言ってみるが、どうせ戻った時には綺麗さっぱり片付けられているのだろう。