兄と弟(上)Ⅷ
図書室は相変わらず静かだった。
確かにこの世界の識字率は高くない。もちろんここは王族しか使ってはいけないという場所ではないのだが、この場所でノキア以外の人間と会うということはあまり多くなかった。
誰もいない静かな図書室でゆっくりと本を読むというのは、俺にとって至福の時である。
しかし、他の者が全く図書室に興味を持たないのは、非常に嘆かわしく思う。
まったく、せっかくこれだけの蔵書があるにも関わらず、なぜこんなにも閑散としているのだろう……と、この時は本気でそう思っていたのだが……。
これは後ほど聞かされたことなのだが、いや、そもそも自分で気づけというレベルのことではある。それには理由があったのだ。
アゼルはいつも図書室の中には入って来なかった。つまり、図書室の前で警備をしていたことになる。
さて、誰かが図書室を使おうと部屋の前までやってきた時、そこに王子の守護騎士が立っていたとしたら、その者はどうするだろうか?
そう、王子である俺に遠慮して、図書室の利用を控えるのだ。
もちろんアゼルが追い払うわけではない。しかしわざわざ追い払わなくても、俺がいるということが知られれば、それでも中に入って来るのは同じ王子であるノキアくらいしかいないのだ。
アゼルがもし図書室内で俺を警備した場合、当然図書室の利用者は室内に入ってから俺を見つけることになる。
要するにアゼルがいつも図書室に入ってこなかったのは、本が嫌いでも何でもなく、俺をなるべく1人にしておいてやろうという気遣いだったのである。
静かな図書室に自然と浮き足だってしまうが、とりあえず今日の目的ははっきりとしている。
それはもちろん、先程届いた謎の鉱石についてだ。
鉱物関係の書物や地理に関する書物を何冊か見繕い、鉱石やコンパスと一緒に机の上へ並べた。
とりあえずポッセの情報と、それに関する鉱石がないかをつらつらと調べてみる。
それからどれくらいの時が経っただろうか、気がつけばいつも通りに本にのめり込んでしまっていた。
だからノキアに声をかけられるまで、彼の存在に全く気づいていなかったのである。
「やあユケイ、精が出るね。今度は何を調べているんだい?」
不意に声をかけられてハッとする。見上げるとそこには笑顔で俺を見下ろすノキアの顔があった。
「お兄様!す、すいません、気づいてなくて」
「いや、ユケイは集中すると周りが見えなくなるからね、気にしなくていいよ。……それはいったい何だい?」
そう言いながら、ノキアは机の上に置かれたコンパスを指さしてそう言った。
「あ、はい。これはコンパスと言いまして、赤い針が常に北を指すようになってます」
「へえ、そうなんだ。それで?」
「……それだけです」
「……それだけ?」
「はい。そうです」
「……そ、そうか。けどそれは、太陽や星を見ればわかるんじゃないか?」
「そうですね。けど星が見えない時もありますから。部屋の中とか、雨の時とか」
「うん、確かに」
「あと、鉄を見つけることができます。くっつける程近づけないといけないけど」
「なるほど……。すごいね」
ノキアの多少気を使った視線を感じる。王子はこれに、あまり興味がなさそうだ。
いやいや、確かにそれだけと思うかもしれないが、これが将来的には羅針盤になり、モーターの発見につながるのだ。基礎技術を甘く見てはいけない……って、それどころではない。
せっかくノキアが図書室に来たのだ。都合のいいことに、今日はアセリアもノキアの侍従もついてきていない。つまり図書室内には俺とノキアの2人きり。彼に龍の浮き彫りを発見してもらうには絶好のタイミングである!
「……お、お兄様は今日はどうされたのですか?」
「いや、ちょっと探し物があってね」
「そうなんですね。わたしはこの鉱石について調べたくて。ポッセから来たらしいのですが……」
「ポッセから?うーん、なにか結晶らしいものは見えるけど……」
「はい。今この図録を調べているんです。あ、そういえばこれなんですが……」
俺は懐から、四つの鍵が付いた鍵の束を取り出す。ちょっと切り出し方が不自然だっただろうか?
しかしそんな俺に気づくこともなく、それを目に止めた瞬間にノキアの目の色が変わった。
「ユケイ!なんでキミがそれを持っているんだ!?」
突然あげられた大きな声に、俺は思わず動きが止まる。
「お、お兄様?」
「い、いや、すまなかった。それは奥の書庫の鍵ではないのか?それはお兄様が持っていたはずだ。どうしてユケイがそれを持っているんだ?」
「はい、エナお兄様から少し調べ物をするように申し付かって、鍵を預かっていました」
「そうなのか……」
ノキアはそう答えながらも、視線は鍵に釘付けになっている。
彼の顔には、なんとも形容し難い複雑な表情が浮かんでいるような気がする。
「あの、わたしは調べ物がありますので、どうぞお兄様鍵をお持ち下さい」
「え!?い、いいのか?」
「もちろんです。わたしも先日中に入りましたから。エナお兄様は王族であれば奥の書庫には入っていいとおっしゃってました。わたしがいいのですから、お兄様が駄目なんてことはありません」
「そ、そうか。確かにそうだね……」
「鍵の使い方はわかりますか?」
「ああ、もちろんだよ。『王家の血で門は開く』、つまり最初に王冠の鍵を回して、その後に門の鍵だ」
なるほど、あの鍵の順番にはそういう意味があったのか。
黄色い王冠の鍵と黒い門の鍵。その組み合わせを解く謎かけが、「王家の血で門は開く」ということなのだろう。であれば、あの柱の扉にも何か開くための言い伝えがある可能性が高い。
ノキアは鍵を受け取ると、まるで走るように奥の書庫へと向かっていった。
あとはノキアが龍の浮き彫りを発見し、俺に声をかけるのを待つだけだ。いや、別に俺に声をかけなくてもいい。
ふと気が付いたのだが、先ほどノキアは図書室へ「探し物がある」と言っていた。図書室ですることは「調べもの」であって「探し物」ではない。
もしかしたら彼も、俺と同じようにエナから話が来ており、「止まぬ風の書」を探しているのかもしれない。俺としては手柄は全てノキアのものにしてもらっても全く構わない。いっそのこと鍵は彼に託して、俺は部屋を後にした方がいいのだろうか?
水利組合の時、ノキアは俺を信じて全てを任せてくれた。今回はもう、俺は止まぬ風探しはリタイアして、ノキアに全てを任せることにしよう。
その上で彼から何か協力を依頼されれば、その時は全力で兄の力になればいい。
「よし、そうしよう!」
そうとなれば、まずはノキアからエナに気兼ねなく報告できるように、俺はこの場を離れた方がいい。
俺は慌てて本を片付け始める。その瞬間だった……
「ユケイ!こっちに来てくれ!」
少しタイミングが遅かったらしい、奥の書庫から俺を呼ぶノキアの声が響く。
呼ばれてしまっては行かないわけにはいかない。当然あの柱を目に止めて、俺を呼んでいるのだろう。
せめて龍の浮き彫りの第一発見者はノキアになってもらわなければいけない。
こうなると問題は、もう既に見ている龍の浮き彫りを見て、それを初見のように上手く驚けるかだ。
頭の中で驚いた風のセリフを数度シミュレーションし、扉にそっと手を掛け、大きく深呼吸をする。そして、俺は扉を勢いよく開いた。
「こ、これ!これはいったいなんですか!?」
セリフは正直上手くなかったかもしれない。それ以上に、龍の浮き彫りを指さしてしまったのは明らかにオーバーアクションだっただろうか。
しかし、問題点は全くそこではなかった……。
ノキアは一冊の本を手に取って、それに向けておもちゃを見つけたようなキラキラした視線を送っていた。しかし、俺の一連の行動を見て、みるみる表情が曇っていく。
「どうしたユケイ?……何をいってるんだ?」
怪訝そうな表情をしながら俺が指さした先を覗き込み、そして再び俺の顔を覗き込む。
「え……?龍……の……」
「龍……の?龍がどうしたんだ?」
彼の手には鉱石が多く記された本が開かれていた。俺の為に探してくれたのか、先程の声はこれを見せたくて俺を呼んだのだろう。
ああそうか……
俺はこの時やっと理解した。
そもそも龍のレリーフは、俺にしか見えていなかったのだ。
ノキアの目には、奥の書庫の中央に位置する柱は、きっとなんの変哲もない柱に見えているのだろう。
おそらく、柱に掘られた龍の浮き彫りや扉の上から、それを隠すように壁の模様の映像を映し出す魔法がかけられているのだと思われる。
魔法が見えるノキアは、魔法で作られた柱の幻術を見て、魔力の目をもたず魔法の見えない俺は、幻術を無視して柱の本当の形を目にした。
つまりノキアと俺は、同じ柱を見ながらも、全く違う物を見ていたのだ。




