兄と弟(上)Ⅶ
その日は朝から日差しが強く、前世の日本と比べれば数段涼しく過ごせるこの世界でも、汗が止まることのない日だった。
「ユケイ様……、暑いです……。何か涼しくなるものは作れませんか……」
「ウィロット、だれるな。不敬だぞ」
猫のように溶けそうになる彼女に、カインは無表情で釘を刺す。
彼女は身分上、貴族の前で肌を出す服を着ることができない。この気候の中、手首まできっちりと覆う服はさぞかし辛いだろう。
その上、彼女はアルナーグ国内で最も涼しいと思われる白龍山脈の麓の出身だ。初めて過ごすアルナーグの夏は耐え難いのかも知れない。
「涼しくなるもの?」
エアコンや扇風機なんて物はもちろん作れない。
昔の日本では、いったいどうやって涼をとっていたのだろうか?
「風鈴……は、無理か。打ち水とか……、走馬灯でも作るか?」
とても高価な素材であるガラスを無闇に使うわけにもいかなし、何よりそんな技術なんて持っていない。持っていたとしても炎天下の室内で溶かしたガラスを吹くなど、想像しただけで汗が噴き出しそうだ。
とりあえず有り合わせの物を使い、カインと2人で簡単な走馬灯を組み上げた。
「これは何ですか?」
「うん。まあ見ててよ」
走馬灯に火をつけると、二重になった内側の提灯がゆっくりと回り出し、外側の幕に薄く影を映す。
昼間だからあまりはっきりとした陰影は見えないが、急拵えの割には上手く行った気がする。
「これが走馬灯だよ」
「……そうなんですね」
3人は黙って回り続ける走馬灯を眺める。
「……それでユケイ様。これはいつ涼しくなるのですか?」
「それは……いつって……。いつだろう?」
「ユケイ様は何をおっしゃってるんですか?」
「ウィロット、不敬だぞ」
呆れたようなウィロットの声に、カインが無表情で突っ込みを入れる。
「い、いや、これは本来は夜に使うものなんだよ」
「夜に使ったら涼しくなるんですか?」
「それは……、なる……かな?」
「……そうなんですね。けど夜は涼しいです」
「ウィロット、不敬だぞ」
カインがため息混じりに言う。何となくだが、そのため息は俺に向いているような気がした。
俺はいったい何をしているんだろう。図書室の件を前に進めなければいけないのに、こんなことで遊んでいて……。
「ユケイ様、失礼します」
不意に工房の扉がノックされたかと思うと、小さな籠を持ったアセリアが室内へ入ってきた。
「あら?それは何ですか?」
音もなく回り続けるぼんやりとした光を見て、アセリアが声をあげる。
「はい、アセリア様。これは『そうまとう』といって、夜に使えばとても涼しく……」
「ウィロット、その話はもういいよ。アセリアは何を持って来たの?」
「あ、はい」
アセリアは籠の中から布に包まれた物を取り出し、作業台の上でそれを解いて見せた。
中から大小様々な石が現れる。
「エナ様の使いの者から預かって来ました」
エナの使いということは、当然それは先日所望したトロナ鉱石の件だろう。
しかし……。
「残念だけど、これはトロナ鉱石じゃない気がする……」
エナにトロナ鉱石のことを伝えてまだ3日、当然こんなに早く出て来るとは思っていない。確かに俺がアセリアにまとめてもらった特徴を満たしていると言えば満たしている。しかし、色が少し濃いというか、黄色がかっているような気がする。
とは言っても俺自身トロナ鉱石の実物を見たことがあるわけではないので、断言はできないのだが。
「ウィロット、酢と水を少し持ってきてくれないか?」
「酢?酢ってあの酸っぱいお酢ですか?」
「ああ。その酢だ」
「ユケイ様、どうぞ……」
俺とウィロットがやり取りをしている間に、カインが俺の元に小瓶に入った酢を持ってきた。
「ああ、ありがとう」
「あっ!わたしが頼まれたのに!」
手柄を横取りされたと言わんばかりにウィロットは頬を膨らませ、我先にと水を取りにパタパタと駆けていく。
「誰が持ってきてもいいだろ?さて……」
俺は砕けた鉱石の欠片に、酢を一滴垂らす。
もしこれがトロナ鉱石であれば、表面からすぐに泡が出てくるはずだ。しかし、鉱石に目立った変化は現れない。
「やっぱりトロナ鉱石じゃないな」
他に見た目が似ているといえば硝石だろう。
俺は次に指先に水を少しつけ、鉱石の表面をなぞってみる。
もしこれが黒色火薬の原料にもなる硝石であれば、水に触れたところに吸熱反応が起こるはずだ。しかし接触面から、それが起きているとは感じられない。
ここからバガル塩湖まで行って帰って来たら一ヶ月はかかるだろう。
日数を考えてもバガル塩湖まで情報が渡って届けられたものではないだろうから、精製して調べるまでもないのだが……。
「これはポッセから来た商隊が持ち込んだという話ですよ」
「ポッセか……」
アセリアが台の上を整理しつつ、俺に声をかけた。
それを聞いたウィロットが口をはさむ。
「ポッセってオルバート領の反対側ですよね?オルバート領と違って地の精霊の力がとても強くて、雪が降らないって聞いたことあります」
「そうだね。温泉が出るって話も聞いたことあるけど」
「温泉てなんですか?」
「温泉はね、湧水ってあるだろ?あれが凄く熱いんだよ」
「そうなんですね。じゃあ、薪代が安くすんで助かりますね」
「ああ、確かにそうだね。……じゃあ、これはポッセで採れた石ってことかな?」
ポッセとは温泉が湧くという土地だが、この世界には入浴という習慣が一部にしかないため、温泉地という概念は無い。
しかし、そういった場所からは少し変わった鉱石が産出することもある。
「カイン、こないだ作ったアレを持ってきてくれないか?」
「アレ?……あ、はい」
カインは一瞬悩むが、すぐに思い当たったらしい。
スッと机の上に円形の小さな道具が置かれる。
それは中央に薄く細長い板のようなものが針で浮く様に止めてあり、その片方が赤く着色されていた。
俺はそれを届けられた鉱石に近づけるが、それによってその道具にはこれといった変化は見られなかった。
「磁性はないか……。とりあえず砕いて成分を調べてみるか」
先日新しく作ったもの、それはコンパスだった。
弱い物であれば磁石を作るのは難しくない。磁石の上で磁束方向に鉄を精製すればいいだけだ。
しかし、それには一つ矛盾がある。磁石がないのに、どうやって磁石の上で鉄を精製するのか?
その答えは簡単である。「星」を使うのだ。
多くの星は地磁気というものを持っている。中には前世における金星のように地磁気を持たない星もあるのだが、星自体が大きな磁石だといえる。つまり、細長く純度の高い鉄を、星の磁束方向に向けて精錬すれば、それだけで鉄は弱い磁石になるのだ。
もっともその方法ではごく弱い磁石しか作れないので、それこそコンパスぐらいにしか使えないのだが、このように鉄を見分けるくらいのことになら活用することもできるのだ。
「カイン、とりあえずこの鉱石を拳一つ分ほど細かく砕いておいてくれないか?俺は少し図書室で調べて来るから」
「はい、わかりました」
「アゼルを呼んできてくれ」
俺は奥の書庫の鍵と鉱石の欠片、そしてなんとなくコンパスも持って、アゼルと2人で図書室へ向かう。
奥の書庫の鍵をもらってから毎日欠かさず図書室へ向かっているが、その間ノキアに会うことは無かった。
もし図書室でノキアに会うことができればその場で奥の書庫の鍵を渡し、彼に龍の浮き彫りを発見してもらおうと考えているのだが。
図書室の前にたどり着くと、そこには守衛の姿は見えるがノキアの守護騎士の姿は見えない。どうやら今日も図書室には来ていないようだ。
守衛に図書室の鍵を開けてもらうと、アゼルはやはり図書室には入ろうとせず、いつも通り一人で図書室に入ることになった。