兄と弟(上) Ⅵ
尊敬する先人達にに感謝と敬意を払います。
夕食時、食堂でスープを一匙、すっと吸ってお母様が「あっ」と幽かな叫び声を挙げた。
「お母様、どうされましたか?」
「ごめんなさい、変な声をあげてしまって。ふふふ、実はね、とても素敵なグラスを頂いたんです」
そう言いながら母は窓の外に目を向け、そっともう一口スープをすくった。
スープをすくう様を花びらに例えた人がいたが、それはまさしくお母様のことといって良いだろう。
母はメイドを手で呼び寄せると、小さな声で何か指示を出す。
母は生まれながらの貴族だった。音の国リュートセレンの侯爵家に産まれ、侯爵令嬢として常に登城し、貴族社会の中心で育ったらしい。
リュートセレンはアルナーグと比べ、国の規模が桁違いに大きかった。
俺も当然貴族と呼ばれる身分だが、こんな片田舎の国と豊かなリュートセレンの生活は、豪華さでは比べるまでもないだろう。
話によると、彼女はリュートセレンでは歌姫と呼ばれるほどの美声を持ち、美しい金髪と白く長い指で爪弾く竪琴の音色は、荒ぶる龍すら深い眠りに誘ったという。
当然リュートセレンの国内外から婚姻の誘いは絶えず、最終的に母を射止めたのが父、オダウ・アルナーグというわけだ。
母は、俺が産まれるまでは第二王妃という立場だった。
それまではアルナーグでも社交の場に出て、自慢の竪琴といた声を数多く披露したという。
さらに、豊富な社交経験を活かし、他国との懇談の場でも率先して場を仕切ったらしい。
しかし、それは俺が産まれるまでの話だが……。
「どうしましたか?ユケイ。何か考えごとでもおありですか?」
「あ、申し訳ありません、お母様。少しぼーっとしてしまいました」
「ふふふ、よろしいですよ。ごゆっくりなさいませ」
そう言いながら、母は俺に微笑みかける。
母は、今のこの暮らしのことをどう思っているのだろうか……。
俺たちの机に次の皿が運ばれてくる。
白身の魚を香草と焼いたものだろうか、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「お話しには聞いていましたけど。ユケイの食卓にはいつも温かい料理が並んでいるそうですね」
「え?あ、ああ、はい。おかげさまで助かっています」
「後でご紹介いただいてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです、お母様」
一瞬何のことか分からなかったが、要するに毒見をしても食事がまだ温かい、つまり毒見が早いということを言っているのだろう。
実際は毒見役が嚥下してからしばらくの時間をおいて食事が出される。毒は口に入れてからすぐに効果を現すものもあれば、しばらく経ってから効果が出るものもあるからだ。だから、毒見役が口に料理を運ぶまでの時間が、料理が冷めているかどうかにさほど大きな違いは生まれないのだが、少しでも早く毒見を終わらせようというウィロットの思いの部分をくみ取ってそういう言葉をかけてくれたのだろう。
ウィロットが母に認められたことが、とても嬉しく感じられる。
次々と新しい料理が運ばれ、俺たちはその全てに舌鼓を打った。
いつもの食事より料理が美味しく感じるのは、きっと食卓についているのが1人ではないからだろう。
普段の俺は、人と食卓を囲むことは許されないのだ。
それから、多くの話をしながら食事は進んだ。
本来であれば会話は食事の後にするものなのだが、その不作法に関して母からの指摘はない。
会話の大部分はたわいもないことだが、例のバガル塩湖のトロナ鉱石についても忘れずに問いかける。
そのまま食事は進み、俺たちには食後のお茶とお茶請けが用意された。
俺の前には陶器のティーカップと焼き菓子、そして母の前には見慣れない鮮やかな青紫色をしたグラスが置かれていた。
「綺麗でしょ?これは国王様から先日頂いたんです。ザンクトカレンで作られたグラスです」
そう言いながらグラスを軽く持ち上げ、うっとりとした表情でそれを眺めた。
どうやら食事の前にメイドへ指示していたのは、これのことだったらしい。
部屋の明かりに照らされ、白いテーブルクロスにキラキラと宝石のように揺らめく紫色の影が落ちた。
ザンクトカレンは俺でもはっきりとその名を知っている。
地の国ヴィンストラルドの北方にある街で、ヴィンストラルド国内の宗教の要である大聖堂がある場所だ。
大聖堂には世界で最大と謳われるステンドグラスがあり、ザンクトカレンの職人が作るガラスは均一さ、透明度ともに世界に並ぶものがないという。
俺もいつかはその街を訪れてみたいと、強く願っている場所だ。
「……そういえば先ほどの話で思い出したことがあるのですが、バガル塩湖から採掘される岩塩の中に、味が違うものが稀にあると聞いたことがありますよ」
「ほんとですか!?それはどの様なものなのでしょうか?」
「さあ……。話に聞いただけですので、実物を見たことがあるわけではありませんの」
「そうですか……」
「それを手に入れたいと言うことですね?では、わたくしの方でも気を配っておきましょう」
「はい、ありがとうございます」
「バガル塩湖も懐かしい名前ですが……。今日エナ王子に、わたくしのことで何かを申し出たと聞きました……」
「あ……、はい……」
おそらくそれは、俺がエナに母の里帰りを申し出た件だろう。
母の表情は変わらず穏やかだが、その件がどこからか母の耳に入ったということは、その過程で何かの迷惑をかけた可能性がある……。
「申し訳ありません、エナ王子に褒美と言われ、そのまま口から出てしまいました……」
母は一瞬黙るが、笑顔で言葉を紡いだ。
「ユケイがわたくしのことを考えてくれたことは嬉しく思います。ありがとう、ユケイ……。けど、わたしは今の生活をとても幸せに感じています。そのようなことは決して望みませんので、お忘れなきように……」
それは本当なのだろうか?
しかし、穏やかな表情の中にも揺るがない意思を秘めた瞳に、俺は異を返すことは出来なかった。
「はい、忘れません……」
それからしばらくたわいもない話をし、楽しい食事の時間も終わりが近づいた。
お母様は相変わらず元気そうに見えたが、心なしか少し痩せたようにも見える。
「アセリア、ウィロット、こちらへ来てくれないか?」
俺の声に応えて、壁際に控えていたウィロットとアセリアが俺の横に並ぶ。
「アセリアさん、オルバート領ではユケイがお世話になりました。ずっとお礼がしたいと思っていたのよ?」
そう言うと母は立ち上がり、アセリアの手をそっと取った。
護衛が慌ててその行為を止めに入ろうとするが、母はそっと手で護衛の動きを制する。
「そんなもったいないお言葉……。わたし達こそユケイ様には領地に新しい糧を授けて頂きました。感謝の言葉しかございません……」
「ありがとう。オルバート子爵様はその後いかがですか?」
「はい、体調もだいぶ回復してきております」
「そうですか。なによりです……」
新たな糧とはメープルシロップのことだろう。
年を追う毎に生産量も増えているようで、それが今後さらに大きなオルバート領、ひいてはアルナーグの産業となっていくだろう。
オルバート子爵も好んでメープルシロップを口にするらしく、それには血糖値を下げる効果、甘さの割にカロリーが少なかったり、カルシウムが豊富に含まれていたりと、なかなかの健康食品でもある。もしかしたらオルバート子爵の体調回復に、一役買っているのかもしれない。
「貴女がウィロットですね?」
「はい!王妃様」
ウィロットのあまりにもの元気な声に、俺は何故か冷や汗が滲む。
「ふふふ。オルバート領から帰って、ユケイはとても頼もしくなりました。あなたのこともユケイからよく聞いていますよ」
「は、はい」
「これからもずっとユケイの傍にいて彼を助けてあげてね?」
「はい!わたしはこれからもずっと、死ぬまでユケイ様の毒見をすると誓いました!ユケイ様のお食事は任せて下さい!王妃様!」
「それは心強いわね。よろしくね?ウィロット。わたくしのことはシスターシャと呼ぶことを許します」
「はい!シスター……
「ウィロット!!」
俺は慌てて彼女の言葉を遮る。
傍らのアセリアも、今まさに彼女の口に手を伸ばそうとしている所だった。
「ど、どうしたんですか、ユケイ様?びっくりします」
「ウィロット、『様』だぞ?『様』」
「ウィロット様?」
彼女はポカンとした顔を俺に見せる。
「そうじゃない!『シスターシャ様』だ!」
彼女は以前、同じようなシチュエーションで俺のことを呼び捨てにし、アセリアに叱責されたことがあった。
こんな人目のあるところで、下女が王妃を呼び捨てになどしたらその首が胴体と別れを告げてもおかしくない。
「もちろん分かっておりますよ。当たり前じゃないですか。ね!シスターシャ様」
そういうとウィロットはニッコリと笑った。
「ふふふ、楽しそうでよろしいですね。先ほどの鉱石の件はわたくしの方からもお話してみます」
「はい、ありがとうございます」
こうして久しぶりの母との食事は、終わりを告げた。
それから3日後、俺たちの工房に小さな鉱石が届けられた。