毒見少女の憂鬱 Ⅲ
次の日の朝。俺は目を覚ますと、温かい室内に微かな人の気配を感じる。昨日の夕刻から降り始めた雪はもう止んだだろうか、ベッドの中にすっぽりと納まっていても、三の刻……つまり前世でいう6時を告げる鐘の音が、雪に吸われて小さくなっていることが分かった。
微かな気配の元はアセリアだろう。俺が目を覚ます前に明かりをつけたり暖炉に薪を足したり、寝覚めの準備をしているのだ。
俺は目を閉じたまま、大きく寝返りを打って見せる。これは彼女への、「そろそろ目を覚ましますよ」という合図であった。
子どもとはいえ王子である俺は、従者が起きる為の準備を万全に整え、起こされないといけないのである。
王子を起こすのは従者の仕事であり、それができない従者は無能の烙印を押されてしまうからだ。
「ユケイ様、寝覚めの時間でございます。」
静かな女性の声、アセリアの声だ。
「良き寝覚めに感謝します」
ユケイはゆっくりと寝台から身体を起こし、アセリアにそう語りかけた。
アセリアはにっこり笑って、部屋のカーテンを開けていく。
派手さは無いがシンプルで艶のある木材で彩られたユケイの寝室に、雪に反射した銀色の光が室内に流れ込んでくる。
パチパチと薪がはぜる音と、暖炉から伝わる柔らかい温もりが心地いい。
以前住んでいた王都「アルナーグ」とこの屋敷は5日程の距離しか離れていない。しかし、氷の精霊の力が強い白龍山脈の麓にあるために、わずかな距離とはいえ気温は低く雪も多い。
この白龍山脈というのは、かつて世界を暴れまわった「伝承の龍」の亡骸でできていると伝えられているのだが、その山頂には伝承の龍から産まれたと言われている「氷龍」が住むという。
それでも季節はもう春に差し掛かっており、既に雪解けがはじまり春の兆しが見え始めているのだ。おそらく王都辺りでは、既に桜の蕾が膨らみ始めていることだろう。
俺は食事を終え、日課の図書室通いをするためにアセリアを連れて部屋を出る。
今はまだ身の回り、つまりメイドだけが付き従っているのだが、9歳になった後には常に護衛の人間が付くらしい。なぜ貴族の娘であるアセリアがメイドの真似事をしなければいけないのかとも思うが、王子の教育係であり身の回りの世話を取り仕切る役目を負うのは、ある程度身分の高いものの仕事らしい。
それは本来であれば仰せつかった者にとっても名誉なことらしいのだが、俺みたいな欠陥王子に仕えることとなったアセリアにしてみれば、とんだ貧乏くじを引いたというところだろう。
「あら?」
図書室に近づくと、アセリアが小さな声を上げた。一瞬何事かと思うが、俺もその理由をすぐに理解することとなる。図書室の前に、2つの人影があったからだ。
服装からすると、おそらく庭師か掃除夫か、いずれではないだろうかと思われる。
「どうなさいましたか?」
アセリアが2人に声をかけると、男たちは慌てて膝をつき、形式的な挨拶をする。
「おはようございます、ユケイ様、アセリア様。あの、実は少し相談したいことがございまして……」
男はそう言いながらも、一瞬俺の方をチラリと見た。もちろん俺はそれに気づいたし、アセリアの目にも留まったのだろう。
「ふふふ、ユケイ様にご相談されたいということですね?よろしいでしょうか?」
「え?う、うん。俺にわかることだったら……」
「ありがとうございます!」
アセリアは楽しそうに小さく笑って、俺と男たちを取り次いだ。
2人は屋敷の下働きで、体型がふくよかな男がビス、この屋敷で働き始めてもう20年になるベテランだ。
もう一人の痩せた男はピート。半年ほど前に夫婦で雇われ、住み込みで働いている。
男たちの相談はこのようなものだった。春に向けて保管していた銅製の祭具を手入れしようとしたところ、激しく変色してしまっていたらしい。銅なので多少の変色は起こることなのだが、今回はその程度がひどくいつも通りの手入れでは色が元に戻らないということだ。
「普段の手入れというのはどのようにしてたのですか?」
「はい。水を沸かして、熱湯を使って革で磨いておりました」
「なるほど……」
銅は放置すると水分と反応して表面に緑青と呼ばれる緑色の被膜がついてしまう。日常的に革で表面を研磨していればそうなることはないのだが、おそらく手を抜いてしまったということだろう。重曹があれば被膜を簡単に分解することができるが、この時代に重曹……つまり炭酸水素ナトリウムを抽出することは少し難しい。
「じゃあ、お酢をもらってきて、それに同じ量の塩を溶かしてください。塩は全て溶けませんがザラザラした液体が出来るはずです。その液体を布につけて銅の表面に付いた緑色の膜をこすれば、緑色の膜は解けて綺麗になるはずです。必ず布を使って下さいね。革ではだめですよ?磨いた後に塩分をちゃんと拭き取らないと、まだ腐食してしまいますから気をつけてください」
「お酢と塩ですか……?それは厨房にあるお酢と塩のことですか?」
「はい、そうです。両方とも高価なものですから、大切に使って下さい。お酢と砂糖じゃなくって良かったですね」
この世界において塩と違い砂糖は非常に高価で手に入りにくい。厨房で砂糖を寄越せなどといったら難色を示されることだろう。
もっとも、塩とお酢でもすんなり分けてもらえるかどうか分からないが。
2人は顔を見合わせる。俺が提示した解決方法がにわかに信じられないようだ。
「大丈夫。とりあえずやってみて下さい」
「は、はい。ありがとうございます」
男たちは半信半疑といった表情を浮かべたまま、図書室の前を後にした。
「ユケイ様、今の話は本当なのですか?」
「なんだい?アセリアまで疑うのかい?」
「いえ、決してそういう訳ではないのですが……」
「大丈夫だよ。いろいろと理由はあるんだけど、あれで十分綺麗になるはずだよ」
「そうなんですね。ふふふ、さすが『図書室のお悩み解決王子ですね』それはどの本に書いてあるのですか?」
「え?えっと、ど、どれだったかな?」
そこを聞かれると正直困る。もうすでにどの知識がどこで仕入れたものなのか、はっきりしていないからだ。
前世から持ち越した記憶であった場合、どれだけ探しても俺の知識の出所を記した本が出てこない場合もある。
むしろ前世の記憶が色褪せずはっきりと残っている分、本からの知識の方が明らかに少ないのだ。
「まさか、ここの本の内容が全て頭に入っておられるのですか?」
「いや、たまたま覚えていただけだよ」
「さすが『図書室のお悩み解決王子』ですね!」
まあ……、その呼び名は別にいいのだが、正直もう少し格好がつく呼び名は無かったのだろうかと思う。特に「お悩み解決王子」というあたりが少し馬鹿々々しいというか。もっとシンプルに、「図書室の主」とかにしてくれればいいのに。