兄と弟(上) Ⅲ
「ユケイ様!」
廊下の向こうから、聞きなれた少女の声とパタパタという足音が聞こえてくる。
彼女は数歩満面の笑みで駆け出したかと思うと、おそらく隣にいるアゼルからの「走るな!」という視線を受けて、途端に神妙な顔つきになりしゃなりしゃなりと歩き出す。
「ウィロット、どうしてここへ?」
「あの、第一王子様はお厳しい方だと聞いたので、心配になって来ました」
「お前が来たところでどうにもならないだろう」
彼女は呆れ顔の護衛騎士のことを、何事もなかったかのように無視をする。
「ああ、俺もちょっと心配だったけど、お兄様はお優しかったよ。水車の件でご褒美がもらえるらしい」
「そうなんですか?良かったですね。何をもらうんですか?」
「いや、まだ考えてるところだけど……」
「じゃあ、前言ってたなんとか鉱石を探してもらえばいいんじゃないですか?パンケーキの。わたしもふわふわのパンケーキ食べたいです」
「食べたいですねじゃない!ウィロット!ユケイ様の前に立つな!言葉使いも馴れ馴れしい!不敬だぞ!!」
「……申し訳ありません」
ウィロットは不満そうに頬を膨らませる。
まあそれは置いておいて。ウィロットの言う何とか鉱石というのは、おそらくトロナ鉱石のことだろう。
トロナ鉱石というのは前世での呼び名で、この世界ではどういう風に呼ばれているのか、そもそも存在しているのかもわかっていない。それは炭酸塩の鉱物であり、これを元に天然の重曹を作ることができるのだ。
重曹があればベーキングパウダーを作ることができ、そうすれば前世のようなパンケーキを作ることができるはずだ。
「トロナ鉱石か、それはいいね。アゼルはどう思う?」
「どうもなにも、それがどういうものかさっぱりわかりません。それでも先ほどの望みよりは何倍もマシでしょうな。アセリアと相談なさいませ」
ウィロットの話しぶりに文句を言う割にはアゼルも十分不敬だと思うのだが、そんなことを言っていても仕方がない。
まあ、平民であるウィロットと貴族の家の出であるアゼルでは、当然違うのだが。
「とりあえずさ、ご褒美の件はさっさと終わらせて図書室に行きたいんだ。エナお兄様から良いものを預かったからね」
「えー、また図書室に行かれるのですかぁ?」
そう言いながら、彼女はぷっくりと頬を膨らませ、それを見てまたアゼルが眉を吊り上げる。
ウィロットは図書室への入室が許可されていないので、俺が図書室に籠ることに対して明らかに不満気だ。
しかし彼女には悪いが、今回はそれどころではない。なぜなら、俺はずっと入りたいと思っていた図書室の奥の書庫への鍵を手に入れたのだ!
エナの口ぶりから察するに、そこまで俺に期待しているようには思えない。であれば、せっかく鍵を借りたのだから奥の書庫を十分に堪能して、それから止まぬ風に関する調査をすることにさせてもらおう。
そのためにも先ずは褒美の件を終わらせなければいけない。俺たちはそのまま、工房へ向かった。
「アセリア様、ただいま戻りました」
ウィロットが恭しく頭を下げる。
工房にはアセリアとカインが俺たちを待っていた。
アゼルはそんなウィロットの態度を見てため息をつく。
彼に言わせれば、ウィロットはアセリアの前でだけ態度を取り繕っているということだ。しかしそれはおそらくそういう狡賢い考えではなく、アセリアに褒めてもらいたい一心なのだろう。
3年ぶりに見た2人は、明確な主従の関係にあるのはもちろんだが、それ以上に姉妹のような結びつきを感じる。
俺と別れた後も、オルバート領では色々とあったのだろう。
一緒に過ごすことが出来なかった3年間を、俺は素直に羨ましく思う。
「お帰りなさいませ、ユケイ様。ウィロットもご苦労様です」
アセリアがゆっくりと頭を下げる。
ウィロットはにっこり笑顔を返すと、お茶を入れてくれるのか竈の方へパタパタと駆けて行った。
しばらくすると香高いお茶の匂いが漂ってくる。
「……褒美はこんな感じにしようと思うんだけど、アセリアはどう思う?」
「それでよろしいのではないでしょうか?あまり価値がない物ですとかえって失礼に当たりますので、希少なものの方がよろしいでしょう。ただ、どのような場所で採掘される可能性があるか、予測でも何か情報がないと探しようがないと思われますが……」
「確かにそうだね。まあ、俺もすぐに見つかるとはおもってないから、トロナ鉱石に特徴が近い物があればなんでも取り寄せてほしいって思ってる。ただ、採掘されるのは岩塩があるような塩分濃度の高い土地だと思う。だとしたら、可能性があるのは国内じゃなくて音の国リュートセレンの『バガル塩湖』の近くとかだろうか?」
「リュートセレンですか……。国交がありますから問題はありませんが、少し距離がありますね。けれど、何か情報があれば取り寄せてほしいというくらいに申し上げておけば、エナ王子のお手間にはならないでしょう」
「じゃあそれでいこう」
「では、わたしがそれをまとめてエナ王子へお伝えしておきます」
「ありがとう!それじゃあ図書室へ行ってきてもいいかな?ご褒美よりなにより、この奥の書庫の鍵がお借りできたことが一番のご褒美だよ」
アセリアは少し考え込む。
「……よろしいですが、今日の夕食はシスターシャ王妃とご一緒です。ちゃんと忘れずに戻ってきて頂けますか?」
「お母様とお会いできるのも久しぶりだからね。もちろん忘れる訳がないよ」
母とはいえ王妃だ。そうそうお会いすることはできない。
とはいえ、母は公務もなくただ幽閉されるだけの日々を過ごしているのだろうと思うと、同じ幽閉生活でも自由に生活できている自分と比べて胸が痛む。
もし可能であれば、そんな彼女を救ってあげたいと思う。
少なくとも一度、俺は産まれたばかりの頃に魔力の目が無いという理由で「処分」されそうになったところを、母に救われているのだから。
そうだ。今晩食事の時にバガル塩湖のことも聞いてみよう。母はリュートセレン出身の貴族だ。もしかしたら何かご存知かもしれない。