兄と弟(上) Ⅰ
今俺の目の前にある扉、それは俺の部屋のそれと材質、意匠も含めて大きく変わらないはずなのに、なぜかとても重く大きく感じる。
いや、正確にいえば離宮は作られてまだ3年しか経っていない。
流れる月日がその扉に貫禄を与えた……というだけではないだろう。その威圧感の正体は、もちろんその部屋の中にいるはずの人物から受けている、それは分かっている。
部屋の主、それはエナ・アルナーグ。
風の国アルナーグの第一王子であり、俺の腹違いの兄であった。
つい数日前、俺はノキアを通じてお願いの手紙を出したのだが、今回はエナ王子から直々のお呼び出しを頂いたわけだ。
水利組合の件に決着がついて一週間、用件はおそらくそれに関してのことだろう。あれは最終的に少なからず国に利益が出る形で収まったため、何かお叱りを受けるために呼び出されたということは無いはずだが……。
はっきり言うとエナのことは苦手だった。とはいってもエナとの交流はほとんどなく、苦手、苦手じゃないと判断できる程の付き合いは無いのだが、彼の弟であるノキアの態度から察するに俺と趣味を共にしてくれるような人物ではないだろう。
「ユケイ様、いい加減入ってよろしいですか?」
「あ、ちょっとまっ……」
アゼルが俺の思考を強制的に中断させ、扉の前の守衛に頷いて合図を促す。
「エナ王子、ユケイ王子がお見えになりました」
「……ああ。通せ」
部屋へ通されるとそこは広めの執務室で、彼は目の前の机に座りペンを走らせながら、俺たちに目を向けることなくソファーへの着席を勧めた。
第一王子の執務室とはいえあまり華美な装飾はされておらず、ノキアも含めてアルナーグ王家の王子たちは慎ましやかな者が多いのだろう。
その点では国の未来は安泰だといえる。
「すまない、急に呼び出してしまって。オルバート子爵の所から従者が来たと聞いたが、不便はないか?」
「はい、とても助かっています」
「そうか。それはよかった」
彼は机で書類に何かを書き込みながら俺に言葉を投げかけた。
俺の前に飲み物が用意される頃、仕事に切りがついたのかエナも向かいのソファーに腰かけた。
彼は毒見代わりに出されたお茶にまず口をつけ、しかし気になるなら飲む必要はないと一言付け加えながらもお茶を勧める。
「さて……。水利組合の件だが、ノキアの話ではかなり非凡な才を見せたと聞いた。実際にユケイから持ちかけられた手紙どおり水利組合との話し合いが進んだときは、正直俺も目を疑ったよ」
「いえ、全てはノキア様のお力です」
「謙遜は良い、話はノキアから聞いている。……が、ノキアの説明が悪いのか俺の頭が悪いのか、正直ユケイが何をしてあの結果になったのか俺は理解できていない。しかし、今後もユケイが国の為に力を尽くしてくれるなら俺はそれを理解する努力をしなくて済む。其方の力は、今後も国の為に使われると思って良いな?」
「はい、もちろんです。エナ王子」
「よい。……ユケイ、腹は違えど私達は兄弟だ。兄と呼ぶがいい」
「はい、お兄様」
俺の返事に満足したのか、エナはにこりと笑った。
エナと弟であるノキアとは顔つきや灰色がかった髪質など兄弟そのものであったが、明らかに性格が違う兄弟だった。
線の細いノキアに比べて体格が良く、知識や魔法を好む弟に対しエナは武芸を重んじる傾向にあるらしい。
単刀直入な性格は好みが分かれるところではあるものの多くの者に慕われ、彼自身も次の王に相応しい行いを心がけているように見える。
もう既に次期王としての執務を熟し、次の王の座を最も期待されているといっても過言ではないだろう。
「よい。では褒美を1つやろう。すぐに思いつくものはあるか?」
「ほ、褒美ですか?」
「褒美だ。ユケイがもたらした将来の利益は決して少なくない。望むものがあるなら何でも言ってみろ」
俺はウィロットを侍従に加えることで、既に褒美をもらったと思っていた。しかし、褒美はもう既にノキアから貰ったなどということは、エナの前で言える訳がない。
しかし、何も考えていなかったところに急に褒美なんて言われても……。
いや、望みはあった……。
「お兄様、わたしの母であるシスターシャ第3王妃に里帰りを……」
「待て……」
エナは俺の言葉を途中で遮る。
「……ユケイ、それはシスターシャ様が願ったことなのか?」
エナの目は一瞬鋭くなるが、しかしすぐ呆れたようなため息とともに平静を取り戻した。
「い、いえ。そんなことはありません。わたしが今思いついたことです……」
「……ならばよい。その願いは聞けない。もう少し大きくなれば理由はわかるだろう。他には?」
「で、では……。賢者の塔に通いたいです……」
再びエナは表情を崩す。今度はいったいなんだというのだろうか?
気が付けば、アゼルも同じような表情をしていた。
「賢者の塔がユケイを受け入れる訳がないだろう……。それとも賢者の塔に行けば魔力の目が得られる確信があるのか?」
「いえ、確信は全くないですが、魔法を学ぶということには意味があると思います」
「魔法を使えない其方が学んで意味はあるのか?」
「それは、説明は難しいのですが……」
「もうよい。賢者の塔は学舎ではあるが一方的に知識を乞うところではない。其方が受け入れられることはない」
「……はい」
賢者の塔というのは、宗主国である地の国ディストランデが誇る魔法の研究機関だ。
前世でいうと大学院みたいなところだが、そこには「龍の亡骸」から授けられたという「魔術の門」という奇跡が収められているという。
その魔術の門が何かはわからないが、「魔力の目」を持たない俺にとって最後の希望になるかもしれないものだった。
いつかは賢者の塔に入る、それは俺の人生の目的の一つだと言っても過言ではない。
「いや、よい……。つい忘れそうになるが、ユケイはまだ11才だったな。ノキアと違い世の中に関する知識はまだ足りぬのだろう。誰か分かる者と相談して褒美を考えるといい」
「は、はい」
エナは少しため息をつくと、ほんの少しだけ姿勢を崩してソファーに深く座り直した。
なんとなくだが、それは彼が俺に対する意識を、少しだけ軟化させた印の様に思えた。
「よい。もう一つ、ユケイの知恵を見込んで頼みがある」
「頼みですか?」
「ああ。その詳細を知る必要は無いが、ユケイは「止まぬ風」というものは知っているか?」
「えっと、龍の亡骸から授けられた、この地に魔力を留める奇跡と聞いています」
「……その通りだ。止まぬ風のおかげで、このアルナーグの街は豊かな魔力に守られている。しかし、その範囲はあくまでアルナーグの城壁の内部のみだ」
「はい」
「現在、騎士団が討伐遠征に出ているのは知っているな?」
「はい。お兄様も先日まで同行されていました」
「そうだ。討伐遠征では毎年多くの犠牲がでる。今年は残念ながら討伐が間に合わず、村が一つ無くなった。それでも、領民の安全のためにそれを欠かすことはできない。もし止まぬ風の加護の範囲が広がれば、討伐遠征をもっと安全に行えるはずだ」
討伐遠征は国中を回って行われる。これを怠れば、例えばオルバート領のような強い兵力を持たない領主は損害を受けかねない。
ゴブリン狩りなど妖魔退治を冒険者と呼ばれる何でも屋に依頼することもあるが、それはだいたいの場合において被害が出てからの対処療法になる。
民の安全を確保するため、そして貴重な実戦経験を兵士に積ませるため、討伐遠征は必要不可欠なのである。
エナの言うことはもちろん理解できる。
しかし、そのことについて俺に頼みとは、一体なんなのだろうか。