水車と風車 Ⅱ
それから1刻程、お互いに言葉を交わすこともなく本を読みふける。
ノキアの方を時折盗み見るが、調べものは上手くいってないことが彼の険しい表情から読み取れた。それは俺も同じで、俺が今心から欲している物、すなわち重曹はこの世界の技術で生み出すことは難しいということが改めてわかった。
唯一希みがあるとすれば、トロナ鉱石だ。
トロナ鉱石は前世でも稀な鉱石で、天然に産出する鉱石で炭酸水素ナトリウムが結晶化したものなのだ。
もしこの世界でもトロナ鉱石にあたる物が発見できれば、前世に負けないパンケーキが作れるはずだ。いや、パンケーキだけではなく、重曹は食料事情を味的な意味で改善させるのに大きく役立ってくれる。
何より、せっかく美味しいメープルシロップがあるのだから美味しいパンケーキが食べたい!
もちろん俺が食べたいというだけではない。メープルシロップがどれだけ美味しかろうと、活用方法が無ければ売れないのだ。
「なにやら難航しているようだね」
不意に声をかけられ、肩がぴくりと跳ねる。
顔を上げると、そこには困ったような笑みを浮かべるノキアがいた。
「ええ、そうですね……。けどそれはお兄さまも同じように見えますね」
「なんだい?見ていたのかい?」
2人でため息交じりに笑いあう。
「あの奥に入れたらもっと参考になる資料があるかも知れないのだけどね」
そう言いながら、ノキアは図書室の奥を見る。
視線の先には頑丈そうな木製の扉があり、図書室の扉にしては奇妙に思える程の意匠がこらされていた。
「ああ、奥の書庫ですね。わたしはあの扉が開いているところを見たことありませんが、お兄様も入ったことは無いのですか?」
「いや、エナお兄様と一緒に何度かは入ったけどね。お兄様が鍵をお持ちなのだが、今は不在だからね。もっともお兄様が見えたとしてもおいそれと『奥の書庫』に入れてくれとは言えない」
「そうなんですね。わたしも入ってみたいです!中はどんな感じなのですか?」
「中はそんなに広くはないが、真ん中に柱が一本あってね。部屋の壁にそって本棚が並んでいたかな?入ったのはずいぶん昔だから、あまり覚えていないんだよ。その頃はあまり本に興味がなくてね。今考えると惜しいことをしたと思ってるよ」
図書室の奥には、「奥の書庫」と呼ばれる謎の部屋があった。
おそらくさらに貴重な書物などがしまわれているのだろうが、当然俺なんかが入れるような場所ではない。
王都アルナーグには、「龍の亡骸」から授かった「止まぬ風」という奇跡が施されている。
それはこの大陸の誕生神話にも遡る話なのだが、まるでおとぎ話のような神話に出てくる奇跡も確かにこの世界には確認されている。
その一つが「止まぬ風」だ。
大気に魔法の力を巡らす秘術らしく、この都の民は全て等しくその恩恵を受けているらしい。
もちろんその中に俺は含まれていないのだが、その「止まぬ風」に関する書物が、この奥の書庫に所蔵されているという噂も聞いたことがあった。
「ユケイ、よかったら少し相談に乗ってもらえないだろうか?後で工房に行ってもいいかい?」
「私はいいですが……。後でエナ様に怒られませんか?」
思い違いかもしれないが、第一王子のエナは俺とノキアが一緒にいることを、あまり良く思っていないように見える。
「なに、お兄様は遠征中だ。行くなら今だろ?」
「……まあ、たしかにそうとも言えますが。それでは食後にお待ちしております」
「ああ。頼んだよ!」
そういうと、ノキアは足早に部屋を後にした。
彼と入れ違いに、守護騎士であるアゼルが室内に入ってくる。
「……何か約束をされたみたいですね?」
「ああ。相談があるということだから、後で工房へ招待した」
「そうですか。……そろそろお部屋へ戻りましょう」
正確にいえばノキアから行きたいといわれたので招待したわけではない。しかし、こう言っておかなければアゼルは更に難色を示すだろう。
アゼルは特に何も口には出さないが、彼もノキアとの交流を良く思っていない節がある。
彼の立場からすれば異母兄弟というのは俺の安全を脅かす可能性がある相手ということなのだろうが、俺がノキアやエナの何の脅威になるというのだろうか。
これ見よがしにため息をついて見せても、彼の表情は眉毛一つも動かなかった。
食事を終えた後、俺は離宮に作られた工房へ籠る。そう、ここが俺の残りの時間を過ごす場所だ。
オルバート領から戻った俺を出迎えた物、それは俺が二年弱城を空けている間に造られていたこの離宮だった。
離宮といってもそれは城の敷地内に建てられており、建物内に全ての生活に必要な施設が備えられている、俺と俺の母専用の建物であった。
過度に豪華なつくりではなく、決して広い建物ではないものの、質の良い調度品に囲まれ、広くないとはいえ平民の暮らしと比べれば超豪邸だ。それでも以前与えられていた部屋よりは少し狭くなっただろうか。それでもねだった結果、念願の工房まで追加で作ってもらえたのだから文句など無い。
工房は追加で作ってもらったとは思えない程、満足が行くものだった。
レンガで作られた大きな炉に、鞴、そして竈が二つ。大小の石臼や金床に水桶。床は石張りになっているので汚すことに気を使う必要もなく、壁には一面様々な実験器具が備え付けてあった。
そして工房から直接中庭の外れに出られる、小さな勝手口まである。
まさに求めていたそのもので、ここは俺が自室よりも多くの時間を過ごす場所に……いや、ここが自室といっても過言ではないだろう。
一切の外出が認められないということではないのだが、俺は一生この場所で過ごすことになるのだから。
久しぶりに王都アルナーグへ戻った時、今後はこの離宮を住処とするということを伝えられると同時に、俺の母であるシスターシャが第2王妃から第3王妃に位を下げられたということを聞いた。
理由は聞くまでもないだろう。
王妃の最も重要な役目、それは立派な跡取りを産むということだ。それなのに「魔力の目」を持たぬ出来損ないの俺を産んでしまった。
実際、父王オダウ・アルナーグには俺を含めて5人の子がいるが、魔力の目を持たないのは俺だけで、母が生んだ子もまた俺だけというのだから、その原因が母にあると思われても仕方がないのかもしれない。しかし、図書室の本で調べる限り魔力の目を持たずに産まれたのはこの俺を除けば数百年前に遡る1名だけ。
魔力の目が無いのは俺が異世界から転生してきているということに原因がある可能性が高いのだから、それを母のせいにするというのは間違っている。
しかし、それを証明することは出来ず、また証明したとしてもなにか俺や母の扱いが変わるわけでもない。今後父と母の間に子が儲けられることはないだろう。
結局封建社会のこの世界、王子であろうと何であろうと、より上位の者の命令に従うしかないのだ。
男子である俺はまだいい。何か公務を授かれば出かけることもあるだろうし、兄や弟たちに誘われればここから出かけることもある。城内の図書室には自由に行くことも許されている。しかし、実質王妃の任も解かれ、誘ってくれる相手もいない母は一生この中で過ごすことになるのだろうか。
以前母が、故郷であるリュートセレンから届いた手紙を見て目に涙を溜めたことがある。
もし可能であれば、もう一度母に故郷の地を訪れさせてあげることができないだろうか……。