水車と風車 Ⅰ
「今年もオルバート領からメープルシロップが入荷しました。今朝はパンケーキにいたします」
「え?ああ。もうそんな季節か……」
運ばれた朝食のプレートから立ち上る甘く香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐり空腹を誘う。
オルバート領から王都アルナーグに戻った翌年から、春の訪れを告げるかのようにこの時期にメープルシロップが届く。
あれからもう3年の月日が流れた。俺は11才になり、遠く離れた友人ももちろん11才になっている。彼女は今も元気にやっているだろうか?
毒見を終え、目の前にパンケーキが運ばれてくる。ナイフで切り分け一欠けそれを口に運ぶと、メープルシロップの豊潤な香りと、冷めたパンケーキのもっさりとした口当たり……。
パンケーキとは名ばかりで、どちらかといえばクッキーに近いものだろう。
毒見にたっぷりと時間をかけられたそれは、パサパサと俺の口腔内の水分を奪う。
ベイキングパウダーは重曹がまだ実用化されていないこの世界にはない。せっかくのメープルシロップを美味しくいただけるのは、どうやらまだ先になりそうだ。
「今の俺に必要なのは、重曹と……」
ついついある人の名前が出かけるが、それ以上は言ってもしょうがない。俺は更に一欠けケーキを口に放り込むと、言葉と共にそれを飲み込んだ。
風の国アルナーグの首都アルナーグ。その王城の図書室は素晴らしかった。
オルバート子爵の蔵書は子爵という身分を考えれば驚異的な量ではあったが、ここのそれとは比べるべくもない。
何より有難いのは、ここの本は鎖に繋がれておらず、俺の力でも容易に持ち運びができる。持ち運びができるために所定の読書台を使う必要が無く、椅子に座って本を読むことができるのだ。
異世界感、いや、中世感あふれる鎖に繋がれた書架も趣があって悪くないが、正直立ちっぱなしで本を読むのはかなり厳しい。その分、図書室への入室は貴族以上と決められているなど警備は厳重になるが、それは仕方がないのかも知れない。
俺は図書室の前に到着すると、守衛はいつも通り飾りのついた赤い鍵を使って図書室の扉を開く。
24時間俺に張り付いている護衛も図書室に入れず、守護騎士であるアゼルは貴族位ではあるが本が好きではないのか、図書室の中までは警護につこうとはしなかった。
それもあって、俺は以前と同様余暇の半分をここで過ごすことになる。
では、残りの半分は何処で過ごしているのかというと……
「やあ、ユケイ。今日も精が出るね」
「あ、お兄様。おはようございます」
しばらく読書を続けると、扉が開き一人の男が入ってきた。それは俺の腹違いの兄にあたるアルナーグ第二王子、ノキア・アルナーグである。
風の国アルナーグ。
国王オダウ・アルナーグが治める小さな国である。
現在は地の国ヴィンストラルドの属国ではあるが完全な自治が認められており、農業と多少の魔法技術を生業にしている国だ。
国王オダウは三人の王妃を持ち、四人の王子、一人の王女を授かり、豊かではないが平和な国といえるだろう。
俺は第二王妃……、いや、第三王妃との間に産まれた第三王子という立場であり、目の前にいるノキアは第一王妃の子ということになる。
5才年上になるノキアは背が高くすらりとした体形で、人当たりの良い穏やかな人物だった。俺の真っ黒な髪より微かに灰色がかった髪をしており、光に当たるそれはとても綺麗だと思う。
いかにも武人然とした長男、第一王子であるエナとは対照的に魔法を好み知識を好む彼は、母違いとはいえ俺にとても近いものを感じていた。
俺たちは基本的に産まれた母と生活の拠点を共にする。
つまり第一王妃の子である二人の兄、そして、第二王妃の子である弟と妹、彼等との交流はほとんどない。今年四才になる弟など、産まれてからまだ片手で足りる程しか顔を合わせたことがないほどだ。
そんな中でもノキアとは、比較的に交流が深いといえるだろう。
趣味というか性質が合うというのもあるが、この図書室で顔をよく会わすせいだろうか。
彼も俺ほどではないがここによく姿を現す。それからよく言葉を交わすようになり、彼からしてみれば魔法が使えない出来損ないの俺は王位を争う必要のない人物だ。弟ということもあり気の許せる人という立場になったんだろう。
ノキアは俺に優しく、俺も優しい彼を兄として慕った。
やがて彼との交流が始まったのである。
「今日は何時もより早いですね。どうされたのですか?」
「ああ、先日からみんな討伐遠征に行ってるだろ?僕の剣術指南もそれに出ているんだ。だから煩わしい朝の稽古はしばらくお休みなんだよ」
「なるほど、そうでしたね。どうりで今日の城は静かなわけです」
そういうと、俺とノキアは小さく笑いあった。
討伐遠征とは、毎年春先に行われる大規模な魔物狩りのことである。
冬を越え、活動を始めた魔物、ほとんどの場合は妖魔と呼ばれるゴブリンやコボルトを指すのだが、それらが繁殖を行う前に討伐を行うのだ。
妖魔は繁殖力が強く、放置すればすぐに数を増やす。毎年遠征を行ったとしても、その数は一向に減る気配を見せない。
「去年はお兄さまも遠征に行かれてましたよね?」
「ああ……。王家の義務とはいえ、正直すすんで行きたいとは思えないね。今後は全てお兄様にお任せしたいよ」
「ふふふ。遠征は何時までの予定ですか?」
「遠征はまだ続くが、お兄様は早ければ来週には帰ってくる。無事にお戻りになるといいんだが……」
「そうですね。けど、お兄様でしたらきっとご無事ですよ」
お兄さまというのは当然第一王子エナのことだ。
討伐遠征は騎士団や兵士の実践訓練も兼ねている。
ゴブリンなどは慎重に複数人で当たればあまり脅威にはならないのだが、それでも毎年多くの負傷者が出る。ゴブリンを狩るためには、当然彼らのテリトリーである森に踏み入らなければいけない。その場合、敵からの最初の一撃は殺意の籠った不意打ちから始まるのだ……。
その時のことを思い出しているのか、ノキアの表情が暗く沈む。
「お兄様……?」
「ああ、すまない。ユケイも自分の番が回ってこないように祈っておいた方がいいよ。あれは……人の所業ではない……」
「……?」
俺は兄の瞳の奥に、言葉に表せない黒い傷を見たような気がした。
「いやすまない、邪魔をしたね。僕は少し調べ物があるから」
そういうと、ノキアは技術関連の本が並ぶ書架へと向かった。
俺もいつか、討伐遠征に出ることがあるのだろうか?
ノキアは先ほど、それを「王家の義務」といった。もし俺が王家の括りの中に入っているのであれば、それは俺の義務でもあるということだろう。しかし、その義務が俺のものではないとしたら、俺はいったい何に当たるというのだろう。