青い炎 Ⅶ
「ユケイ様、いるのですか?」
ノックと共にアセリアの声がする。
閂をゴトゴトと抜く音の後、木と木が擦れる不愉快な音を響かせながら、重い扉が開く。
「……えっ?なんですか、この匂いは!?」
「入るな!アセリア!兵を連れて子爵の部屋へ行け!!」
「えっ!?」
「早くしろ!!」
「は、はいっ!」
俺の声にアセリアは弾かれるように部屋を後にした。
同時に、室内に乾いた冬の空気が流れ込んで来るのを感じる。
「ウィロット!ネヴィル!大丈夫か!?」
俺の声に対し、二人は激しく咳き込むことで返事を返す。
ウィロットの俺を掴む手が、微かに力を取り戻したような気がした。どうやら二人とも無事なようだ。
「大丈夫だな!?まだ動くなよ。もう少しここでガスが薄くなるのを待つんだ……」
「は……、はい……」
それからどれくらいが経っただろうか、室内の異臭は徐々に薄れ、やがて冷たい空気が鼻をくすぐる。
「もう大丈夫かな……。ウィロット、ネヴィル、気をつけてゆっくりと降りるからな?」
「ユケイ様、駄目です……。わたしが最初に行きます」
しゃがれた声でウィロットが言う。
「え?あ、ああ。もう大丈夫だよ。もう毒は危険な濃度じゃない」
「それでも!……わたしから降ります」
そう言うと、ウィロットは山のように積み上げられた机や椅子から、這うように降りはじめた。
彼女は慎重に足をかけながら床へ降りると、その場で大袈裟に深呼吸をしてみせた。
「ユケイ様、毒見は大丈夫です!気をつけて、ゆっくりと降りてきて下さい!」
「ああ、ありがとう」
俺は体力の消耗が激しそうなネヴィルを先に下ろすと、ウィロットの手を借りながらゆっくりと床へ辿り着いた。
亜硫酸ガスは非常に危険なものではあるが、その比重は空気が1に対しておよそ2.2、つまり空気の2.2倍重いことになる。上の部屋からガスを流し込み続けた場合、重いガスは部屋の下から溜まっていく。室内は完全に密閉されているわけではないから、どれだけガスを流し続けたとしても部屋の上部数パーセントの空気は、ガスと置き換わることはないのだ。
閉じ込められたとわかった瞬間、俺たちは手分けをして倉庫内の家具や道具を積み上げ、その上に登った。そこで室内の空気をなるべくかき混ぜないようにじっとしながら、天井付近のガスが混じっていない新鮮な空気を吸い続けたのである。
「ネヴィル!大丈夫ですか!?」
オルバート子爵の部屋から戻ったアセリアがネヴィルの元に駆け寄る。
彼女はネヴィルの手を取り、じっと彼の顔を心配そうに眺めた。
「お姉様……、大丈夫です……。お父様は?」
「お父様も無事です……。よく頑張りましたね……」
ひどく枯れた声で返事をするネヴィルをアセリアが抱きしめる。
「アセリア、あのメイドは?」
姉弟の抱擁を邪魔することに多少気がひけたが、そうも言ってられない。
アセリアはハッとこちらに顔を向けると、慌てて立ち上がった。
「はい、部屋に行った時にはもう姿は見えませんでした。あと、ピートの姿も見つけられません……」
「ごめん、座ったままでいいよ。ネヴィルを見ててやってくれ。けど……、多分彼らがビスを殺した犯人で、オルバート子爵が体調を徐々に崩していったのも彼らが原因だろう」
「えっ?ほんとうですか?」
「まだ推測でしかないけど……。多分探せば証拠も出てくると思う」
「すぐに二人を探して下さい!」
アセリアは傍にいた男にそう言うと、男は短く返事をしてその場を離れた。
「ウィロット、ネヴィル、とりあえずここを離れよう。二人ともしっかりと医者に診てもらった方がいい」
「何を言ってるんですか?ユケイ様が最初に診てもらうんです!」
ウィロットは両手を組み、頬を膨らませながら俺をジロリと睨んだ。
どうやら彼女は大丈夫そうだ。それと同時に、俺は急に足元がふらつくのを感じた。
「ユケイ様!?」
頭上からウィロットとアセリアの声が聞こえる。
どうしたんだろう?急に力が入らなくなったような……。
そして次に目を開けた時、そこは俺の部屋のベッドの上だった。
「先生!ユケイ様が目を覚ましました!」
見回すとそこにはウィロットとアセリアとネヴィル、そして体調を崩した時に何度か世話になった医者の姿もあった。
「ユケイさまぁ!!」
目を真っ赤に腫らしたウィロットが、大粒の涙をこぼしながら飛びついてくる。
「ウィロット、ダメです……」
静止しようとするアセリアを手で抑え、俺は抱きつくウィロットの上にそっと手を置いた。
「ごめん、心配かけたね……」
彼女は声にならない声を上げ続け、俺はいつまでも彼女を撫で続けることとなった。
どれくらい経っただろうか、医者はもう大丈夫だと言い残し席を外すと、やがてウィロットも落ち着きを取り戻す。
ウィロットもネヴィルも顔色は良く、おそらく体に重大な影響が残ることは無いだろう。どうやら俺が一番重症だったようだ。
しかしもう意識も何も、しっかりとしている。
おそらく体に害が残ることはなさそうだ。
「ユケイ様、よろしいでしょうか?」
「何だい?」
アセリアが恐る恐る声をかける。
「ピート達の部屋から、これが見つかったそうです」
一つは陶器製の小さな瓶で、中には真っ白な粉末が入っていた。
そしてもう一つは革の袋で、黄色い粉末や同じ色の小さな半透明の結晶のようなものが入っている。
俺は見た瞬間、その正体が脳裏に浮かんだ。
「触らない方がいい。多分白いのはヒ素だろう」
ヒ素とは液体に溶かせば無色透明になる猛毒で、わずか0.3g程で成人男性でも致死量となる。そして、その毒は銀を黒く変色させるのだ。
「多分ビスはこれで殺されたんだろう。マーフが子爵の部屋で人魂を見た時あのメイドはいなかったらしいけど、その時はピートと2人でビスを井戸に運んでいたんじゃないだろうか。ビスはだいぶ大柄だからね。」
「ビスはどうしてあんな目に……」
「2人が逃げてしまったから理由はわからないけど、もしかしたらあの倉庫の秘密を見つけてしまったのかもしれない」
「倉庫の秘密ですか?」
「ああ。あの倉庫とオルバート子爵の部屋は、おそらく隠し通路のようなもので繋がっているんだろう。万が一のためにそういうものがあってもおかしくない」
「あの、ユケイ様はどうしてそれに気づいたのですか?」
ネヴィルは知らなかったようだが、アセリアの反応を見る限り隠し通路のことは知っていたのだろう。オルバート家の人間だから、知っていても当然だが。
「それは子爵の部屋でウィロットが灯りをつけた時、窓が一つしか開いていないのに灯明の火がずっと揺れていたんだ。室内の空気を動かすためには、どこか二か所の扉を開けないと空気が動かない。そして子爵の部屋の真下にある倉庫の中でも、窓が開いていないのに灯明の火が動いた。これは恐らく上の部屋の扉を開けたということだろう。倉庫からはきっと、屋敷の外へつながる隠し通路がある。つまり、子爵の部屋から倉庫を通じて空気を排出することができたんじゃないかな」
「こっちの黄色い砂糖みたいなのは何ですか?」
美味しそうに見えるのだろうか?ウィロットが聞いてくる。
「食べたら駄目だよ。じゃあ、扉と窓を開けて、香炉を持ってきてくれないか?」
ウィロットはパタパタと室内を駆け回り、俺の目の前に香炉を置くと、蓋を開けて中の炭を露出させる。
「持ってきました!えっと、『悠久に続く火の連なり、産みて焦がす炎の王よ、炎に仕えし四枝の精霊よ、我が命の力をもって汝の力を分け与えたまえ……』」
ウィロットが何の前触れもなく魔法の詠唱を始める。
アセリアとネヴィルが少し気まずそうに顔を見合わせるが、それは魔法の使えない俺を気遣ってのことだろう。
大層な呪文の詠唱ではあるが、ウィロットが使った魔法は「発火」の魔法だ。
魔法としては極初歩的な魔法で、「炎」を召喚する魔法ではなく、燃える物に火をつけるといった程度のものである。
ちなみに俺は、魔法で召喚された炎を見ることは出来ないが、発火で点けられた炎であれば見ることも熱を感じることもできる。
ウィロットが10秒ほど手をかざし続けた後だろうか、「パチッ、パチッ……」と小さく弾けるような音がし、どうやら香炉の炭に火が付いたようだ。
俺は炭の上に鉄製の受け皿を乗せ、黄色の粉末を小さじ一杯程度乗せる。
「ユケイ様、これはいったい……?」
何も起こらないそれを見て、アセリアが不思議そうにのぞき込んだ。
「あまり近づいちゃだめだよ。これは硫黄といって、温めると亜硫酸ガスという毒を出すんだ。亜硫酸ガスは濃い濃度で吸えばすぐに命を落とすし、逆に薄い濃度で吸わせ続ければ病気のように徐々に体力を奪うことができる。そしてこのガスは、一定の濃度以下であれば空気の中では臭いもしないんだ……」
俺が話しているうちに皿の上の硫黄はみるみる溶けて液体になり、一瞬ブクブクと沸騰したかと思うと真っ青な炎を上げ燃え始めた。
「青い炎……!」
そう、これが人魂の正体だ。