青い炎 Ⅱ
次の日の朝、俺が朝食の前に少し散歩をしようと思ったのは本当にたまたまだった。
朝起こしに来たのがアセリアではなくウィロットで、すこし話をしようと思ったというのはある。あの日、イタヤカエデの樹液を集めるために森の中を走り回ったのが楽しかったという思い出のせいもあっただろう。
逆に言えば、深い理由は何もなかったのだ。
2人で服を厚く着込んで、雪が解けかけている屋敷の周りを、雪を踏みしめるように歩く。
深く息を吸うと、喉の奥まで冷たい空気が流れ込んでくるのが分かる。
一歩ごとに小気味良いキュッ、キュッという足音を聞いて、そういえば俺はこんな環境の場所で生活しているのに、雪遊びを一切していなかったことに思い至った。
「こうしてると……、メープルシロップを作った……、時のことを……、思い出すな」
「ふふふ……。思い出すって、まだあれから何日も経ってないじゃないですか」
ウィロットは足元の雪をギュギュッと踏み固めながら答えた。
雪で遊ぶ彼女は、どう見てもただの女の子だ。
「そういえば、ユケイ様は人魂の噂を聞いたことありますか?」
「人魂?」
「はい。冬ごろから、何人も屋敷の中で人魂を見たっていう人がいるんです。昨日も誰かが青く光る人魂を見たって」
「あおい……、はぁ、はぁ、ひか……り……、」
青い光を放つ自然現象はいくつか思い浮かぶが、数カ月の間に何回も発生するというのは信じがたい。強いて言うなら燐の発火現象くらいだろうか?
思いの外ハイペースな散歩に、息が上がってしまい考えが纏まらない。
「ユケイ様はもうちょっと体を鍛えた方がいいと思います」
「うーん、まあ、確かにそうかも……」
あの日雪が残る森の中を駆け回る彼女に、俺はついて行くのがやっとだった。
山育ちといっても過言ではない彼女から見ればそう思われても仕方がないのかもしれないのだが……。
「わたしきっと、ユケイ様と相撲を取っても勝てますよ!」
「そ、そんなことないよ。俺だって男だし、城にいた頃は少しだけど剣の稽古もしてたんだ」
「じゃあやってみます?アセリア様が見てたら絶対に怒られちゃうから、見つからないうちに」
「あ、ああ、いいとも。けど相撲なんてやったことないから……」
この感覚はなんて言えばいいんだろうか。
もしかしたら彼女は、俺がこの世界に来て初めての友人と呼べるのかもしれない。
俺たちの立場の間には、とてつもなく大きな溝があるのは間違いがない。しかし、貴族の生活とは無縁な彼女だからこそ、全てのしがらみとは無関係にただ友人となりえるのではないだろうか。
「じゃ、じゃあやってみようか。ルールを教えてくれよ」
「相撲にルールなんてありませんよ。相手を投げ飛ばしたら勝ちです」
なんとなく俺が知っている相撲と比べると、ずいぶん野趣あふれる内容な気もするが、ここは威厳を保つためにも負ける訳にはいかない。
「よし!じゃあ俺も手加減しないから……」
「だ!だれか!誰か来てくれ!」
俺の言葉を遮って突然耳に飛び込んだ叫び声。それはここからでは見えない建物の影の方だった。
声の様子から、恐らく何らかの助けを求める声だろう。俺は反射的に駆け寄ろうとする。
「ダメです!危ない!わたしが先に行きます!」
ウィロットの言葉にハッとする。確かに彼女の言う通りだ。山も近いこの屋敷、もしかしたらゴブリン等の危険な妖魔が出たとかいう可能性もゼロではない。その場合、この8才児コンビが駆けつけてもなんの役にも立たないのだ。
彼女は建物の角までたどり着くと、そっと向こう側の様子を窺った。
「どうしましたか!?」
向こうを見た瞬間、ウィロットが声をあげた。彼女の様子を見て俺も駆け寄る。
「井戸の中に!人が!」
俺たちが駆け寄ると同時に、屋敷の中からも人が現れる。
どうやら井戸の中に人が落ちているようだ。
「誰かロープを持ってきてくれ!引き上げるんだ!」
「誰だ!?息をしていないぞ!」
男が体にロープを縛り付け、滑車に通して井戸の中へ降りていく。
男は井戸の中の人にロープを括り付けると、合図をだして引き上げた。
騒ぎを聞きつけたアセリアも屋敷の中から現われる。
「どうしたのですか?」
「アセリア様、誰かが井戸に落ちたようです!」
「ええっ!?」
ロープが引っ張られると、井戸の中から次第に姿が露わになる。最初に顔が見えた時、誰かが叫ぶ声がした。
「ビス!」
井戸から引き揚げられた男、それは間違いなく昨日言葉を交わした男、下働きのビスだ。
数人が駆け寄り、心臓と呼吸を確認する。頬を叩き何度も名前を呼ぶが、それは一切何の反応も返さない。辺りに重い空気が広がる。
1人の男が口元に顔を近づけると、何かを言っている。どうやらお酒の匂いがするらしい。ビスはなぜか上半身の服を着ておらず、彼の服は井戸の中で発見されたらしい。
「酒を飲んで、酔っぱらって井戸に落ちたのか?あいつはよく酒を飲みすぎてふらふらになってたから……」
ビスの体を調べたところ、目立った外傷は無いらしい。体についたいくつかの擦り傷は、おそらく井戸に落ちた時のものだろう。酔っぱらって寒空の中上半身裸になり、酩酊状態で井戸に落ちたため、冷たい水にさらされ心臓が止まったか、溺死したのではないだろうかと話している。
「ユケイ様、ウィロット!どうして二人が此処へ?」
「アセリア様……」
駆け寄ってきたアセリアに、ウィロットが状況を説明する。
「とりあえず屋敷にお戻り下さい。ユケイ様がかかわるようなことではありません……」
アセリアは俺を屋敷に返そうとする。しかし、俺はこの残された状況に、とてつもない違和感を見出していた。
「ウィロット……」
俺はウィロットに耳打ちをすると、彼女に屋敷からあるものを取ってくるように伝えた。
「ユケイ様、どうされたのですか?」
「……多分ビスは、殺されてから井戸に投げ込まれたんだと思う」
「えっ!?」
俺はアセリアにだけ聞こえるように、そっと話す。
「もし酔って井戸に落ちたのなら、井戸には頭から落ちるはずだ。けどさっき引き上げられた時、ビスの頭は上を向いていた」
「……確かにそうですけど。井戸に落ちた時はまだ息があって、落ちてから向きを変えたのでは?」
「井戸はそんなに広くないから、彼の体型だと井戸の中で上下を入れ替えるのは厳しいんじゃないかな?それに、彼が服を着ていないのは井戸に落ちる時、井戸の壁面が抵抗になって彼の服を脱がしたんだと思う。頭から落ちたのであればズボンが脱げているはずだ」
「そ、そんな……」
アセリアは言葉を失う。それは当然だろう。冬に入って数か月、この屋敷には外から入った者も出ていった者もいない。もし本当にビスが殺されたのであれば、その人間はまだこの屋敷の中にいることになるのだ。
「あの、ユケイ様。言われたものを取ってきました」
「あ、うん、ありがとう。アセリア、ちょっとついてきて」
「は、はい」
俺はウィロットからある物を預かると、2人を引き連れ、ビスの元に赴いた。
いくつかの視線が不審そうに俺を見る。
俺は前世ではそこそこ生きていたため、人の死に直面したことはあった。だから死んだ人の肉体を何度か見たことがあるのだが、それは全て整理された後の「遺体」である。
だから、目の前にあるような「死体」と呼ぶべき状態のものを見るのは初めてかもしれない。
目の前に横たわる「肉体」の存在感に思わず萎縮しそうになるが、俺にはそれをどうしても確認しなければいけない理由があるのだ。
俺はビスの顔の横に位置取ると、膝を下ろした。
確かに見える範囲に外傷らしいものはなく、
「アセリア、ビスの口を開けてくれないか?」
「えっ?」
アセリアの動きが止まる。
「……」
「アセリア?」
アセリアに目を向けると、彼女はウィロットに視線で何かを必死に語りかけていた。
「ユケイ様、わたしがやります。口ですね?」
アセリアの視線を読み取ったのか、ウィロットは両手を組んで小さく祈りを捧げると、ビスの首を持ち上げ顎を大きく開いた。
辺りからどよめきが起こる。
「ビス……、すいません、失礼します」
俺は彼に小さく断りを入れると、彼の喉にウィロットから受け取った物を差し込んだ。
突然の俺の奇行に、辺りはしんと静まり返る。
俺はたっぷり頭の中で100を数えると、ビスの喉に差し込んだものを取り出す。
俺の手に握られたもの、それは俺が食事の時に使う銀製のスプーンだ。最初鏡のように磨かれて銀色に光を放っていたそれは、誰の目にも明らかなほど黒く変色していた。
硫化反応、つまりビスは毒殺されたということだ……。