魔獣
飛び始めてから半刻ほど。
眼下に『母なる大地』の巨大な大陸が見えてきた。
こうして上空から人間界を見下ろすのもいつぶりのことになるだろうか。
大戦時は各所に配備された騎士団の機能を削ぐために、大陸中を縦横無尽に飛び回ったものだ。
感覚的には昨日のことのように思い出せるも、見下ろす街並みは以前のそれと様変わりしていた。
「随分と街が増えたな」
千年前よりも街の数や、それらを繋ぐ陸路が増えている。点在している村も多く、人の往来も活発だ。
「は、はい。人口は千年前に比べて、約十倍ほどに、増えて、ます」
苦しそうだな。少しペースを落としてやるか。
「十倍というと、五億から六億人といったところか」
「はい。これも四女神が打ち出した施策のようです。三人以上子供を産んだ家には、税の免除や、場合によっては支援金を出すようにと各国に働きかけたようで」
あいつらの考えそうなことだな。
信心深い人間の絶対数を増やすことで、天使たちの力を強化しようというのが大きな目的だろう。
対魔族、対悪魔戦においては、なるほど。確かにそれなりの成果は得られよう。方針としては間違っていないが、しかし、それが吉と出るかは微妙なところだ。
人口が増えるということは、考え方の異なる人間も多く出てくるということだ。
天界の教えに異を唱えるものだって現れるだろう。
その異分子を前にして、対応を誤れば自分たちの首を絞めかねないことを連中は理解しているのだろうか。
まあいい。
穴が多いほどオレも動きやすくなる。
少なくとも、人の身であるオレにとってはメリットの方が大きいだろうからな。
◇
大陸中央部に差し掛かったところで、遥か前方に巨大な山脈が見えてきた。
ヴラド山脈。
あれこそが、魔界と人間界とを隔てる境界となる山脈だ。
千年前と比べてみても、その威容さは少しも損なわれていない。
このまま山を越えて魔界へと足を運ぶのも一興だが――
ふと目を落とすと、地上が何やら騒がしいことに気付いた。
見晴らしのよい丘陵地帯。
昇り勾配となったそこを、土煙を上げながら一台の馬車が走っていた。
御者が鞭を打ち、車体を上下に激しく揺らしながら全速で駆け抜けている。
御者の男と、荷台には二人の年若い女。
いずれも必死な形相だが、この者らが慌てているのも無理はない。
馬車の後方から無数の魔物が迫ってきていたからだ。
ボウウルフ。
集団で獲物を追い詰め、狩りをする四足型の魔獣だ。
知能は低く、言語を用いてのコミュニケーションは取れない。
所詮は獣だ。
躾けることはできても、こちらの言うことを理解できるわけではない。
野生の魔獣ともなれば尚更だろう。
魔力を持たない人間からすれば一匹相手でも脅威だ。
それは、こいつらが犬や狼と同列に扱われない、いわゆる『魔獣』と呼ばれる所以にある。
先頭を走っていた一匹のボウウルフの口から、握りこぶし大の水弾が発射された。
唾ではない。
魔法によって生み出された水の弾丸だ。
飛沫を撒き散らしながら、高速で迫る水弾。
元は水とはいえ、石壁に孔を穿つほどの威力がある。
まともに食らえば人間の骨などたやすくへし折れるだろう。
高速で迫ってくる水弾を、荷台にいた一人の女が迎え撃った。
「風よ!」
剣を横凪ぎに払うと同時に、風が吹きすさぶ。
軌道を逸らされた水弾は、そのまま馬車の横を抜けていった。
初歩的な風魔法だな。
人の身でありながら魔法を使うということは、サユリのように学院の出身者か、あるいは生まれもって魔力をその身に宿している者だろう。『才児』といって、ごくまれにだが力を持って生まれてくる人間もいると聞く。
しかし、魔法を使えるのはいいが、今のが全力だとしたらこの事態を切り抜けるのは少々厳しいかもしれんぞ。
今度は、後方のボウウルフから十を越える水弾が発射された。
同様に風魔法を発動させるが、風が吹き荒れる合間を縫って、いくつかの水弾が馬車に直撃。
車軸が折れた馬車は、そのまま大きく右に傾いて転倒した。
そこに向かって、ここぞとばかりにボウウルフが襲いかかる。
「大丈夫ですか!? 早く出てください!」
風魔法を使った女が二人を救出している。
三人とも息はあるようだが、このままでは時間の問題だ。
「敗者は強者の糧になるのがこの世界の掟。ささ、セン様。あんな連中放っておいて先を急ぎましょう」
関わるのはゴメンだと言わんばかりにクラリスが急かしてくるが、
「フ、そう意地の悪いことを言うな。物はついでだ。行くぞ」
「あ、セン様!?」
地上へと急降下を開始。
少しばかり勢いがついてしまったせいか、着地した衝撃で地面がえぐれ、大量の砂塵が宙を舞う。
ボウウルフは砂煙の向こうで足を止めた。警戒しているのだろう。慎重な足取りでオレたちを扇状に取り囲み始める。
「なっ!? なにが起きたんですか!?」
「主よ、どうか我々に神の御加護を」
「うへぇ、なんだ!? なんだってんだ、一体!」
咳き込みながら馬車から三人が這い出てくる。
一人は直剣を携えた赤髪の女。
一人は白い修道服を着た茶髪の女。
一人は腹の肥えた中年の男だ。
「お前たち、そこで静かにしていろ。すぐに終わる」
言い終わるやいなや、遠方から魔力の波動を感知。
「あ、危ない!」
赤髪の女が指差した方角から、一際大きな水弾がこちらに向かってきた。
だが、
高速で飛来してきた水弾は、そのまま勢いを失うと、大気に溶けるように消えてなくなった。
魔眼。
この体になっても問題なく発現できたのは僥倖であったといえよう。
なおも、次々と飛来する水弾を打ち消していく。
埒が明かないと感じたか、ボウウルフたちは距離を詰めて一気呵成に襲いかかってきた。
さて、どう調理してやるか。
殺すことは容易いが、それでは味気ない。
しばし逡巡した末に、右手を突きだして魔法を発動させた。
【突風】。
風が吹き荒れるとか、そういったレベルではない。
言うなれば大気の壁だ。
押し寄せる爆風に当てられたボウウルフは、折れた木々や大きな岩、抉れた地面の土と一緒くたになりながら吹き飛ばされていった。
「な、なんなんですか、今の……」
唖然とした顔で赤髪の女がつぶやく。
お前が使っていた風魔法と同じものだが、少し手加減しすぎたか。
あれだけ派手に吹き飛ばされながらも、死骸となったものは一匹もいない。体にすり傷を負った程度で済んでいる。
肉体の頑強さは魔獣ならではのものだろう。この辺りが一般の獣とは違うところだ。
肉体的には大した損傷はないものの、それでも何匹かは逃げ腰になっている。このまま立ち去ってくれるなら深追いするつもりはなかったのだが、どうやら連中のリーダー格がまだ諦めがついていないらしい。
一吼えで味方に発破をかけると、再びこちらに向かって突撃してきた。
致命傷を与えずに追い払うというのも、実に難儀なものだな。
仕方ない。
ボウウルフたちが目前まで迫ってきたところで、
「『止まれ』」
魔力を波動に換え、言葉に乗せて発する。
すると、ボウウルフたちは急に怯えたように身をすくませた。
圧倒的な魔力の『圧』を受けて、自分たちの敵う相手ではないと悟らされたのだ。
今こいつらは、自身の体が何倍にも重くなったように感じられているだろう。
「ク、クゥゥン」
先ほどまで犬歯を剥き出しにしていたボウウルフたちが、今では弱々しく鳴いて頭を垂れている。
完全に服従の姿勢だ。
「行け」
『圧』を解いてやると、逃げるようにボウウルフたちは去っていった。
クラリスはむっつりとした顔でため息をつくと、
「あそこまでやらねば力の差を感じられないところが、いかにも獣といったところですね。まったく、セン様のお手をわずらわせるとは、実に愚かしい生き物です」
なかなかに辛辣だが、それも仕方あるまい。
「犬嫌いだからってそこまで言ってやる必要はないぞ」
「ち、違いますっ! 別にそんなつもりで言ったわけではありません!」
幼少の頃、犬に手を噛まれてトラウマになっているのだ。
「あのぉ……」
ここで恐る恐るといった様子で茶髪の女が尋ねてきた。