【短編版】僕の妻は、エルフでした。
最初に彼女に出逢ったのは、森の中でした。
僕はその日、狩りの最中に帰り道を見失い、森を彷徨っていたのです。
冒険者としてはそれなりの腕前だという自負がありましたが、迷子になってはどうしようもありません。
暗く生い茂った森の中、さてどうしたものかと背の高い植物を掻き分けつつ、遅い足取りで進んでいたのですが……そんなとき、前方に開けた場所が見えてきました。
どうやら泉のようです。しかし不思議なのは、その小さな泉の水が白く発光していることでした。
光る泉など目にしたのは初めてのことだったので、僕は驚きつつ、這って進んでいきました。
というのも、いつどこから魔物が襲ってくるか分かりません。ここに辿り着くまでの道中でも散々襲われて、僕はすっかり疲労困憊でした。
そうして警戒しながら、泉にほど近い茂みに身体を隠して、息を潜めてその周辺の様子を観察します。
そしてすぐに気がつきました。夜風に乗って、小さな鼻歌がきこえてくるのです。
年若い少女のもののようでした。陽気で、危なっかしいくらい無邪気で、可憐な……何だか僕は拍子抜けするような気持ちで、片目だけを茂みの間から覗かせてみました。
その瞬間の僕の衝撃を言葉で表すのは、非常に難しいのですが……一言で言うなら、僕はこう思いました。
――なんて美しいのだろう。
年の頃は十六、七歳くらいでしょうか。
金糸を編んだような繊細な髪の毛に、夜の帳の中でも底知れぬ光を放つエメラルドの瞳。
白磁の肌はその下の血管さえも透き通るようで、頬は甘く蕩けそうな薔薇色をしていて。
岩の上に座り込んだ彼女は、細く長い足先を泉にぶらんと投げ出して……ちゃぷちゃぷと水音を立てて、楽しげに肩を揺らしていました。
正直に白状すると、僕は彼女以上に美しい人を今までに見たことがありませんでしたので、胸の高鳴りを抑えるのは並大抵の苦労ではありませんでした。
先ほどまで大仰に大合唱していた虫も、蝙蝠か夜鷹の羽ばたきの音もいつの間にかきこえなくなっていましたが、それもそのはずです。
きっと森中の生き物が僕と同じように息を潜め、耳を澄ませて、その愛らしい鼻歌に夢中になっている最中だったのでしょう。それほどに彼女の姿は、神聖で……何者にも侵しがたい魅力に溢れていたのですから。
しかしそのときでした。
「――誰!?」
甲高いその声に、僕はびくりとして身体を震わせました。
彼女は、茂みに隠れる僕の方向をジッと睨みつけるように見ています。
夢から覚めたような思いで、僕はこみ上げてきた唾を呑み込みます。
ようやく、彼女の金糸の間から尖った耳が生えているのに気がついたのです。
彼女はエルフ。
それも森人と呼ばれる、神代から存在する純血種に違いありません。
距離はあったのに気配を察知したのか、エルフにしか使えない探知の魔法でもあるのか……明確な答えは分かりませんでしたが、このまま隠れていることは出来そうにありませんでした。
「早く正体を現さないと、矢を撃ち込むわ」
というのも、そんな物騒な発言と共に彼女が岩に立てかけてあった上等な弓を掴んだものですから、僕は慌てて立ち上がるしかなかったのです。
「すまない、悪気はなかったんだ。森を彷徨っていたら綺麗な泉を見つけたものだから」
敵意がないのを示すため、両手を挙げたまま素直に事情を打ち明けます。
しかし彼女は僕の声など聞こえていない様子で「人間……」と呟き、目を見張りました。
「人間がどうしてこんなところまで……」
僕はその言葉の意味がよく分からず、首を傾げました。
しかし彼女はハァと溜め息を吐くと、僕の存在など無かったようにして濡れた素足をタオルで拭い出します。
太ももまで長い靴下を履くと、僕の方を一瞥してから、弓を胸に抱いて器用に片足で靴を履き始めます。どうやらかなり警戒されている様子でした。
それもそのはず。
エルフは高潔なる種族。その多くは人間嫌いで、人間を始めとする他種族との交流を拒むというのは有名な話です。
ただ近年では、そんなエルフも少なくない人数が森を下り、人間の国で生活をしています。冒険者の中にも、ちらほらとエルフの姿を見かけることがありました。
しかし目の前の彼女のような、奥深い聖なる森に住むとされる森人のエルフを目にしたのは初めてのことです。
「……水浴びをしてなくて良かったわね」
よくよく考えればそれは独り言だったのですが、僕はつい話しかけられたのだと勘違いして返事をしました。
「もし君が水浴びをしていたら、さすがに背を向けていたよ」
身支度を整えた彼女は、眉間に皺を寄せて素っ気なく言います。
「……サヨナラ」
「えっ。待って」
慌てて声を掛けますが、聞く耳持たずで彼女は泉の奥へと向かってしまいます。
この森は彼女が定住している場所のようですから、僕は彼女に見捨てられた場合、野垂れ死ぬ可能性が高そうでした。
となると僕に残された選択肢は、ただその小さな背中についていくことだけです。
僕は突き進んでいく彼女に追いすがり、どうにか追いついたのですが……すぐに彼女はぴたりと立ち止まりました。
振り返った表情は露骨に歪んでいます。
「ちょっと。ついてこないでくれる?」
「ごめん。でも、道が分からなくて」
「そんなの知らないわよ」
「僕はイヴァンというんだ。君の名前は?」
「何でアナタに名乗らなきゃいけないの? あたしはエルフよ。人間となんて仲良くなるつもりはないわ」
そう言って彼女は、つっけんどんとした態度で腕を組みました。
ただ、怒った顔もとても魅力的だったので、僕は黙り込むことしかできませんでした。さすがにこの状況で「怒った顔も可愛いね」なんて口走ったら、彼女が僕に向かって今度こそ容赦なく矢を放つだろうことは分かりきっていたので。
「本当に申し訳ないと思うんだけど……でも僕、このままだと森の中で死ぬと思う」
「それこそ知ったこっちゃないわよ」
「君の住む森で、人間が死んでもいいの?」
彼女はそのとき、唖然とした顔で固まっていました。
舌打ち混じりに「ほとんど脅しじゃ無いの」と呟きます。僕は頭を掻きました。
「ごめん。方向感覚さえ掴めれば、あとは勝手に森から出ていくから……」
「…………」
どうやら彼女は僕が諦めが悪い人間だということに、早々に気がついたようでした。
ハァ、とそれはもう深い溜め息と共に、先ほどまでとは別の方向に歩き出します。先ほどよりはほんの少しだけ遅いスピードで。
僕はすっかり喜色満面で、そんな彼女についていくことにしました。
「それで、君の名前は?」
自分で言うのも何ですが、僕は図々しい人間なので、つい数分前に躱された質問であっても諦めずに再度繰り出しました。
僕が笑顔で答えを待ち続けていると、やがて彼女は渋々とですが答えてくれました。
「……エルティーリア」
「素敵な名前だね」
前方から、何かが僕の顔に投げつけられてきました。
引っぺがして確認してみると、それは乾パンでした。
僕はありがたさを噛み締めながら、固い乾パンをガリガリと歯で削って食べました。お腹が空いてヘトヘトだったので、呑み込みにくいその乾パンですら、僕には過ぎたご馳走のように思えました。
そう、初めて出逢ったときから、エルティーリアはとても優しい女の子だったのです。
それからも僕は、仕事の合間を縫って彼女と出逢った森へと出かけていきました。
この森――"ヌアリスの森"は中級の冒険者向けと言われていて、見通しは悪いのですが強い魔物は生息していませんし、一時間ほど歩けば麓の街に出ることが出来るので、それなりに人気のある狩り場でした。
ただ不思議なのは、僕がこの森に足を踏み入れると、数時間歩き回っても元の場所に出ることができず……代わりに、あの泉の近くに必ず辿り着くということでした。
それも実は不可思議なことで、僕以外の冒険者から、この森に泉があったという話は一切聞いたことがありません。
「またアナタ? どうして人間が何度もここに入り込めるのよ?」
彼女……エルティーリアも、いつも驚いた様子で僕を迎えました。
といっても毎回、運良く彼女に会えるわけではなく、週に一度か二度くらい、神様の与えたほんの気まぐれによって僕は彼女に逢うことができました。
僕が見かける度に彼女は、最初の日のように水と戯れていたり、おいしそうに泉の水を手ですくって飲んでいたり、弓の手入れをしていたりしていました。
一度、裸で水浴びをしているところに出くわしてしまったときは、一目散にその場から去りましたが……後日会ったときに赤い顔をしていたので、もしかすると僕の存在に気づいていたのかもしれません。
ただしその件についてはお互い口にしない、という暗黙のルールが出来上がっていたので、僕も彼女もその話題を口にすることはありませんでしたが。
「"ヌアリスの森"の最奥には、結界が張ってあるの。異種族はたどり着けないようになっているはずなのに」
彼女によるとどうやらエルフ達は、自分たちの住む場所を守るために森に何かの仕掛けを施しているようでした。
僕相手では何故か仕掛けがうまく作動しないために、エルフの領域である泉の近くにも運良くやってこられるようです。
「よく分からないけど、足を進めてると自然とここまで来られるというか……」
「全く意味が分からないわ。いいから早く帰って」
「君と話がしたいと思ってさ。ちょっとだけ。……駄目かな?」
僕が首を傾げると、彼女は最初はまごついていましたが、
「……ちょ、ちょっとならいいわよ」
やがて唇を尖らせてそんな風にボソッと返事をしてくれました。
そんな彼女が可愛くて、僕は思わず微笑みます。そんな僕の脇を、「何よ」と彼女が小突きました。
僕たちの仲は次第に深まりつつありました。それを僕は薄々とじゃなく、明確に感じていましたし、どうやら彼女も同じのようでした。
それから――出逢って一年が経った頃でしょうか。
僕はいつものように森の奥の泉へと到着しました。
そこで手持ち無沙汰にキョロキョロして、髪の毛をいじっていた彼女は、ハッと僕に気がついて笑みを浮かべかけ……それを慌てて引っ込めました。
「きょ、今日はずいぶんと遅かったじゃない。……と言っても、もちろん、その、何の約束もしていないけれど」
後半は尻窄みに、どこか悲しげな様子です。
僕は彼女の頭を優しく撫でました。その頃にはそんな風に親しげに触れても、彼女はいやがったりはしませんでした。
「街を発つことにしたんだ」
「…………え?」
最初、彼女は何を言われたか分からない様子でした。
「僕が毎日のように森に通っているものだから、周りの人に変に思われているようで。そろそろ別の場所に移動しようと思っていてね」
僕は彼女と共に在る時間を大切にしていたので、森に入ると狩りも行わずに過ごしていました。
そのせいか次第に冒険者たちの間では、僕が魔女に囚われて森に通っているだとか、花の香りで気が狂っただとか、そんな噂が流れ出していたようです。
事実は僕が勝手にエルフの少女に見惚れて、付きまとっているだけなのですが……もちろん、この森に密かにエルフが住むことを知らない彼らに、正直に事情を説明するわけにはいきません。
となると僕は、街を出て行く他ありません。
冒険者は信用が第一の仕事なので、このままでは僕は仕事をもらえず飢えて死ぬしかないからです。
「そ……そう、なの。じゃあ……これでお別れね」
彼女はくるりと後ろを向いて、そんな風に言いました。
その声も、むき出しの肩も震えています。
決して寒いわけではないでしょう。彼女と居るときだけは不思議と一年中、鬱蒼とした森には陽光が柔らかく降り注いでいましたから。
僕は意を決して、そんな彼女に伝えました。
「それで、君に一緒に来てもらえたら嬉しいなって」
「……えっ?」
「もう、君の居ない人生は考えられないから……」
言いかけている最中に、彼女が僕を振り返りました。
「……私を、連れていってくれるの?」
その輝かしい瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていました。
僕は彼女の華奢な身体を抱きしめました。
嗚咽を漏らしながら、そんな僕の背中に両手で縋りつくその子が、誰よりも愛おしくてたまりませんでした。
僕たちはすぐに森を下り、遠くの街へと行くことに決めました。
森の奥には、彼女の家族や友人知人が住むエルフだけの国があります。
しかし彼女は、そこに荷物を取りに行こうともしませんでした。愛用の弓さえあれば平気だと、胸を張ってみせるだけでした。
その決断が、どれほどの覚悟をはらんでいたものだったのか――。
彼女は自分のことをあまり話してくれませんでしたし、家族がなく、故郷とする場所のない僕には想像することしかできません。
母や父、兄妹や友人達に別れを告げずに。
子供の頃からの宝物や、大切な衣服や、気に入っている小物を取りに帰らずに……。
僕は、そんな彼女の手を握りました。
彼女は森から離れがたかったのでしょう。
きっと一度でも振り返れば、もう、離れることなどできなかったのでしょう。
だから僕は、彼女の手を握ったのです。
彼女に恋した人間として、身勝手さに突き動かされた行動でした。
それでも初めて繋いだ手の温かさだけが、僕の胸を温めていました。
乗合馬車を何度も乗り換えながら、僕たちは少しずつ変わっていく景色と共に旅を楽しみました。
彼女は森を出るのも初めてだったので、目に入るもの全てが新鮮な様子です。子供のように瞳を輝かせて、はしゃいだ声を上げる彼女に、僕もつられて微笑みます。
「あれは何?」
「あれは市場。たくさんの露店が出て面白いよ。今度機会があったら行ってみよう」
「あっちは? あっちは?」
「あっちは港だ。毎日たくさんの船が出航して、漁に出るんだよ」
「すごいわ。人間っていろんなことを考えるのね」
ころころと楽しげに笑ってみせながら、ふとした瞬間に「あっ」と、自分の幼げな振る舞いを恥じるように赤い顔を伏せるものですから、僕はそれが他にたくさんの乗客を乗せた馬車でなければ、何度彼女を抱きしめていたものか分かりません。
彼女は目立つ金髪や、尖った耳を隠したがらなかったので、僕たちの姿はきっと目立っていたことだろうと思います。しかし誰もがそんな僕たちのことを温かく……どちらかというと、生温かい目で見守っていてくれました。
「ここにしましょう」と彼女が言ったので、僕たちは前の街から十一離れた町で馬車を降りました。
そこは小さな町でしたが子供が多く、商店街は活気があって、僕もすぐにその町を気に入りました。
最初は、町の人達からは何となく煙たがられているというか、距離を置かれているようでした。でも冒険者として働くうちに、いつしか彼らは笑顔で僕たちに手を振ってくれるようになっていました。
当初、僕たちは宿屋に住み、狩りや採集をして必死にお金を稼ぎました。
彼女は抜群の腕を持つ弓の使い手だったので、狩りに向かう僕を毎日のように手伝ってくれました。
むしろ狩った獣の数は、僕よりも彼女の方がずっと多かったかもしれません。
五年ほどで貯金は目標額に達し、僕がそれまでに貯めていた貯金も全て放出して、ほんの小さなものですが、町の外れに可愛らしいレンガ造りの一軒家を建てることができました。
その時の彼女の喜びようといったら! 手を叩いて跳ねて、僕に抱きついては「ありがとう」なんて言って笑うのです。お礼を言いたいのはこちらの方なのに。
僕たちは町の人をたくさん呼んで、ホームパーティを開きました。
彼女の手料理をみんなで食べ、語り合い、楽器をつまびき歌を歌っての大団円です。
あの日は本当に、すばらしく楽しかった。
彼女がずっとニコニコ笑っている姿があんまり可愛くて、町の男たちがこぞって見惚れているものだから……僕は大人げなく、彼女の肩を抱き寄せたりしたものでした。
彼女の左手の薬指には、僕が贈った銀色の指輪が光っていました。五年で貯めた資金には、一軒家の建設代金と、ふたりの結婚資金も含まれていましたが、この贈り物だけはもちろん、僕がひとりで密かに貯めた貯金で買ったものでした。
――ところで生き物には必ず、寿命というものがあります。
人間の定命というのは、おおよそ六十から七十歳ほどと言われています。
もちろん、病気か何かでそれより短い場合もあれば、長い場合もあります。突然の事故で命を失うことだって、当然考えられます。
しかしエルフは異なります。エルフは人間より遥かに長命の種族です。
僕とエルティーリアは同い年ですが、僕たちが命を失うタイミングには、大きなズレが生じるのは間違いないことでした。
時折、酒が入ると何とはなしに、彼女ともそんな話をするようになりました。
そうすると決まって彼女はこんなことを言い出しました。
「イヴァン。ねぇイヴァン、アナタの寿命をもっと長く延ばす方法は無いかしら?」
……今だから分かります。
アルコールに弱い僕と異なり、彼女は酒に酔った振りをしていただけだったのでしょう。
酩酊した状態であれば、彼女は僕の本音を――弱音を、少しでも引き出せるのではないかと期待したのです。
本当に、そんなところもいじらしく、可愛らしい人でした。
「そんなものは無いよ、エル。僕はあと十数年もすれば死んでしまうから」
「……そんなの、嫌よ。ねぇ……何か方法を探しましょうよ」
酔った振りをしてクスクス笑ってみせながら、彼女のエメラルドの瞳は全く笑ってなどいませんでした。
「何かあるんじゃないかしら。この世界には魔法があって、たくさんの種族が生きていて、いろんな国があるんだもの。そうよ、人間の寿命をエルフほどに延ばす方法だって……無いほうがおかしいわ」
「そんなもの、無いよ」
「あるわよ。絶対どこかに、あるはずだわ」
声には一点の曇りもありませんでした。
ただ切実な祈りのような、そんな響きが込められていました。
彼女は酒を浴びるように飲んで、そのたびに「どこかに……きっと」と呟くのでした。
そんな出来事から少しずつ、彼女は家を空けることが多くなりました。
どうやら本当に、僕の寿命を延ばす術はないかと探している様子です。
僕は驚きました。なぜならそんなものは、無いからです。
どこかの国の王や、名のある貴族や、力ある騎士がそれを追い求め探しましたが、とうとうそんなものはこの世界中のどこにも無かったからです。
それこそ、もしもこれがエルフと人間の種族をまたいだ恋物語を描くおとぎ話か何かであったなら――紆余曲折の末に不老不死の秘薬が見つかり、僕と彼女は永遠の時を共に過ごすことも許されたのでしょう。
しかし現実に、そんなものはありません。だから僕は、彼女がひとりでどこかを旅するくらいなら、少しでも長い時間を一緒に過ごしたいと思いました。
「ねえ、エル。またどこかに出かけるの?」
僕がそう声を掛けると、彼女は「すぐ戻るわ」と笑って手を振るのですが、出かけたその日のうちに彼女が帰ってくることは稀でした。
妊娠しているのが判明すると、それからは遠出をしなくなりましたが……ただ、聡い彼女はきっと全てを分かっていたのでしょう。
彼女はあまり子供を欲しがりませんでした。
でも、僕はどうしても彼女との間に子供を授かりたかったのです。
だって僕は彼女を、この広い世界にたった一人で残していくことになる。
だけど僕たちの間に、子供が出来たなら――その子はきっと、エルフと人間の血を継いだ存在として、永くエルティーリアの傍で笑っていてくれるはずだから。
僕が居なくなっても、その子が居るならば……僕はそんな身勝手な期待を、まだ産まれてもいない我が子に抱かずにいられなかったのです。
少しずつお腹が大きくなってくると、彼女は家を空けることもなくなり、子供のための編み物作りなどに没頭するようになりました。
僕はそんな姿を見て安堵し、彼女のお腹を撫でました。そんな僕のことを、彼女は微笑ましそうに見つめて訊いてきます。
「生まれてくる子は男の子かしら。女の子かしら」
「どちらがいい?」
「どちらでも。元気に産まれてくれるなら、それだけで」
僕も同じ思いでした。思いは確かに同じでした。
「産まれてくる子はアナタに似ているかしら。私に似ているかしら」
「どちらがいい?」
「……どちらでも」
そのとき、ふと違和感を覚えたのですが、僕にはその正体が分かりませんでした。
その頃には彼女はかなり落ち着いているように見えたので、変に刺激するような真似はしたくなかったというのもあります。
寿命の話になると、必ず彼女はひどく落ち込んでしまうので、僕は自分からは一切その話をしなくなりました。ただ毎日、産まれてくる子供の名前の候補について話したりなんかして、ふたりで陽気に笑い合っていました。
……今思い返せば、僕の言葉や行動は、彼女の不安を全て拭い去ったわけではありませんでした。
彼女が臨月を迎えたその日。
仕事を終えて家に帰ると、エルティーリアは蒼白な顔色をして木椅子に座っていました。
猫足のテーブルの上に、彼女が気に入っているカップが二人分置いてあったので、誰か客人が来ていたようです。
「どうしたの? 何かあった?」
僕は木椅子の横に膝をつき、彼女の顔を覗き込みます。
彼女はしばらく僕の言葉に応えず、こちらを見向きもしませんでしたが……やがてぽつりと言いました。
「……アナタ老けたわ、イヴァン」
僕は思わず「ひどいよ」と笑いそうになりました。
しかし、笑いは形作る間に固まりました。
僕を力なく見下ろす彼女の顔が、出逢った頃から全く変わっていなかったからです。
艶めくような髪の毛も。
煌めく光を放つ眼差しも。
白く瑞々しい肌にも張りがあり、未だ少女そのものの姿形をしています。
十代の僕たちが出逢ってから、もう十年近い歳月が過ぎていました。
僕の外見は、その間にだいぶ変わりました。人間なのですから、過ごしてきた年月の分、人生の年輪が身体に刻まれてゆくのは当たり前のことでした。
変化するのは外見だけではありません、体力も徐々に衰えてきています。
怪我が治るにも時間がかかりますし、病気をすれば治るのにも時間と労力がかかります。
近頃は冒険者を続けるのも難しいように思い始め、近いうちに役所かどこかで就職できればと考えていました。
「もうどうすればいいのか分からない」
ガタガタと、彼女の身体は音が出るほど強く震えています。
「エル……」
僕は彼女が膝の上で固く握りしめている両手に触れようとしましたが、その手は彼女自身によって振り払われました。
「ごめんなさい。怖いの、怖くて仕方が無いの。……だってイヴァンはすぐに死んじゃうわ」
「そんなことはないよ」
僕は否定しましたが、彼女はとうとう涙を零し、ボロボロの表情で泣き崩れました。
「今日も明日も、明後日も、一年だって十年だって……そんなの、ほんの一瞬じゃない」
僕は絶句しました。
彼女はそう言いましたが……僕にとっては、そうではなかったからです。
一日は過ぎ去ってみると短いですが、思い出は花びらのように積み重なっていきます。
一年はとてつもなく長く感じるし、二年、三年、十年後ともなれば、それは果てしの無いほど長い時間にさえ感じます。
けれど彼女にとっては違ったのです。
一日も、一年も、十年だって、彼女の永く続いていく人生においては、等しく瞬きのような時間だったのです。
その瞳の中、何かの間違いのように映り込んだ僕の姿を、彼女はどこまでも懸命に留めようとしてくれていました。
しかし、何時までもそんなことは出来ないのだと……いつか、目を閉じないといけないと分かっているから……だからこそ、苦痛に顔を歪ませているのでした。
それを聞いた僕は動転しました。
彼女の剥き出しの部分に、初めて直に触れたような気がしました。
……どう伝えたら。
……どんな言葉で語ったら、僕の思いは正しく――彼女に届くのでしょうか?
「一緒にいたい。アナタともっとずっと一緒にいたい。お願いだからずっと私の傍に居てよ!」
考えようとするのに、戦慄く彼女の慟哭が心を穿つようで、とても平静ではいられませんでした。
息が荒くなり、視界が歪みました。目眩がしておかしくなりそうでした。
そんなことが。そんなことが叶うのなら僕だってずっと君と――いや、違います。僕はそんなことが言いたいんじゃありません。
激しい感情の奔流に胸を抑えながら、僕は口を開きました。
おそろしく、掠れた声が漏れ出ました。
「君にとってほんの一瞬だとして、その一瞬が光り輝いているなら、僕はそれで十分なんだよ」
「私は、十分なんかじゃない。ずっと、ずっとずっとずっと、アナタと一緒にいたい」
「そんなことは出来ない。僕は人間で、君はエルフなんだから」
「――――――――、」
息を呑んだ音がしました。
数秒が経ちようやく、これではまるで突き放したようだと気がつきましたが……遅かったようでした。
ぼんやりと見遣れば、彼女は傷ついた顔をしていました。泣いて怯えて、縋った子供が、親に手のひらを叩かれたような、そんな顔をしていました。
「……私にアナタの気持ちは分からないし、アナタにも私の気持ちは分からない」
彼女は静かに泣きながら、立ち上がりました。
その背中を引き留めようとしましたが、彼女を傷つけた僕には何の言葉も見つかりません。
沈黙する僕に、最後に彼女が言いました。
「どうか、同じ人間同士で結婚して……幸せになって」
そうして翌日。
彼女は、僕の目の前から姿を消しました。
大きなお腹を抱えて、僕の元を去っていったのです。
――あれから、十年もの時間が経ちました。
僕は今、こうして君に手紙を書いています。
たくさんの町を巡り、足が動かなくなるまで歩きましたが、どこに行っても君の影も形もなく、見つけることはできませんでした。
君が戻っているかもしれないと何度も"ヌアリスの森"にも行きましたが、もう僕はあの泉に辿り着くこともままなりませんでした。
僕は今、重い病に侵されています。
医者によれば、そう長くはないだろうと言うことでした。
自分の死期を悟ったとき、思い出したのは君のことでした。
……いえ、その言い方は正しくありませんね。僕はいつでも、夢の中でさえ、君のことだけを考えていたのですから。
そう、これは最初から、君に読んでほしいがための手紙でした。
君が僕にとってどれほど眩しく、鮮烈で、美しい少女であったのか。
君と過ごした時間がどれほど優しく、温かく、愛に満ち足りた時間だったのか。
もしかしたら君に伝えきれなかったかもしれない想いを、この手紙に書き綴ることにしたのです。
たとえこの手紙が君の目に触れなかったとしても、それでも、どうしても書かなければと思ったのです。
君は今、元気でいるでしょうか?
お腹の子は無事に生まれたでしょうか?
その子は男の子でしょうか? 女の子でしょうか?
君に似ているでしょうか? 僕に似ているでしょうか?
ああ僕は、あの日……君が「どちらでも」と答えた理由すら、ちゃんと分かっていなかった。
思い返すと、僕は何度も君を傷つけ、そのたび君は、笑顔で傷ついた心に蓋をしていたのでしょう。
だから君は、他の人と幸せになってだなんて、僕に残酷なことを呟いて去って行ったのでしょう。
実はあれから――君が私の元を去ってから、知り合いの女性から告白をされたことがありました。
ずっと好きだった、この歳になってもまだ諦めきれない、と赤い顔で告白されて……心が全く動かなかったと言えば、嘘になるかもしれません。
こんなことまで書いたら、嫉妬深い君は怒り出してしまうかもしれませんね。
それでもその瞬間、僕が思い出したのは君の拗ねた横顔だったのですから、やはりどうしようもないくらい、僕は君に惚れ込んでしまっているようです。
それか君はとっくに新たな伴侶を得て、毎日を素敵に、楽しく過ごしているのかもしれません。
それならそれで、もちろん、喜ばしいことです。……いえ、それもやはり嘘かもしれません。
出来れば君に、僕のことを――時折思い出す程度には、考えていてほしい。僕は恥ずかしながら欲深く、我儘な男なので、どうしてもそう思わずにはいられないようです。
――別れの日、君が言ったとおり。
確かに僕には君の気持ちが分からないし、君にも僕の気持ちが分からないかもしれません。
でもそれは、エルフと人間でなくとも、きっとそうなんです。
他者と完全にわかり合うことなんて、どうしたって難しいことだから。
だから僕たちはあの日、傷つけ合って、君は僕の傍を離れていったのでしょう。
……でもね。
ねえ、可愛いエルティーリア。
本当はそれで良かったのかもしれないと、僕はそう思うんだよ。
分からなくても良かったのかもしれない。
分からないなら分からないなりに、想いが続く限りに君の気持ちのことを考えていたなら、それだけで良かったのかもしれない。
だって、そうやって君のことを考えているだけで……どうしようもなく、途方も無いほどに、僕は幸せな気持ちになるんだから。
だから改めて言わせてください。
面と向かって伝えられないのは、本当に悔しいんだけれど。
僕の妻は、エルフでした。
僕の妻は、エルティーリアという名の女性でした。
他の誰だって代わりにはなりません。君だけが、僕の愛する唯一の人でした。
それだけはどうか、君に
お読みいただきありがとうございます!
異類婚姻譚を書きたいなと思い執筆してみました。「寿命」を大きなテーマとして組み込んだので、ひたすら甘くて、でもちょっぴり切ないお話になったかなと思います。
面白いと感じていただけたら、ブクマやポイント評価などいただけたらとても励みになります。