あと94日 後半
2分割の後半です。
雨の中を正はとぼとぼと歩く。濡れた髪が額に張り付き気持ち悪い。もともと人通りが少なかった裏路地はすっかり人気が無くなっていた。
ふと視線を感じて横を見る。そこあるのは無機質なビルだけで誰もいるはずがない。誰も自分を見てなんていない。そう思っていた。底意地の悪い視線がじっと正を見ていた。ビルの磨き上げられた黒い外壁の中でそこに映りこんだ正が自分を見ている。
お前に逃げ場などない。人間というものは最期の最期に気付くのだ、周りのどんな視線よりも鏡に映った自分の視線こそが取り繕った自分を醜くて弱くて悲しい自分の本性を見透かしてしまうのだと。
下を向いて歩く。もう何も見たくない。自分を取り巻くすべての人間が僕を傷つけようと、弱みを抉り出そうと、その瞬間を虎視眈々と狙っている。ならただ下を向いていればいい、そこには地面しかない。僕を傷つけるものも、やさしくするものも、裏切るものもない。そうやって歩いていればいづれ、何かの偶然が自分の命を奪ってくれる。
「ははっ。」
名案だ。
正は走り出した。無我夢中で、自分を取り巻くすべてから逃げるように。白い何かを踏む。視線は地面に向けたまま。白い太い線が折れ曲がるのを見ながらそれ以外のすべてを拒絶しながら正は走り続ける。そうしてふっと突然その白い無機質な模様が脳裏で像を結ぶ。そのイメージに引っ張られるように前に出かけた右足が止まった。正の目の前を猛スピードで車が走り抜けた。目と鼻の先、前髪が弄ばれなびくほど近くを通ったその車のことなどすでに意識になかった。ただその頭に浮かんだイメージを確認するためだけに振り返る。地面にはただ簡素にこう書かれていた。
止マレ
人はきっと地面を見ていてもどこかで希望を探してしまう生き物なのだ。そんな悲しい性が言い訳を一つ見つけてしまった。裏切られたと、そう思っても僅かな希望にすがってしまう醜くて弱くて悲しい自分。遠くまで走ってきたつもりだったがあそこからまだ二十歩も離れてはいない。あのビルの外壁にへばりついた自分が自分だけがそんな本性を見透かしている。
もう、どうにでもなれ。正は自暴自棄になって、余計なことを考えるのをやめた。ただのやけっぱちで決断する。
うじうじと、もう悩まない。ただ一番大切なもののことだけを、それだけを目的に動けばいい。
自然と口がほころぶ。目の奥に火がともり呼吸をするたびに心臓のエンジンが回転数を上げる。
最高のやけっぱちをお見舞いしてやる。
歩きながら鈴と最後に楽しく話した時の記憶が甦る。そうだ、ブリキのバケツ。思わぬところにヒントがあった。ためられた水、黄褐色ということは3価のイオンの状態で鉄が溶けているはず。それにあそこには写真屋があった。ならあれがあるはずだ写真の定着剤、チオシアン酸カリウムが。
正はあの店に戻ると最低限の細工をし裏の従業員用の出入り口に回った。予想通りろくに施錠もされていない扉の中は人もおらず、従業員は店内のあの部屋で客と一緒に飲んだくれているようだ。両手に持った2つのブリキのバケツ、そのうちの片方を頭からかぶる。店内の音楽を操作しているのはこの機材か、タイマー設定をいじればできる準備はすべて終わりだ。あとはでたとこ勝負のアドリブだけ。うまくいかなければ頭のおかしい奴と笑われるか警察を呼ばれるか。だが心臓は落ち着いている、やけっぱちになった人間にとってはそんなこと、もう引き返す言い訳にはならない。ドアノブをひねると小さく開けた隙間から中へと滑り込んだ。
相変わらずの薄暗い店内、客たちはそれぞれが勝手気ままに遊びに興じ横を通り過ぎる人間になど興味はない。それが突然、音楽が止まる。次第にざわつきが広がり従業員らしき男がバックヤードへと向かう。だが無駄だ。防犯上お金の管理をするバックヤードは店内側からはカギをかければ入れない。そしてカギは正のポケットの中にある。異常の気配が十分に店内にいきわたったところで、正面の入り口から悲鳴が鳴り響く。スマートフォンにスピーカーを付けただけの代物でも反響しやすいコンクリート構造の建物内なら不気味さが際立ち笑い飛ばせない程度には迫力が出る。
「おい、そっちはカギかかってないだろう、さっさと開けろ。」
「いやなんか引っかかってるみたいで。」
正面の入り口に最も近かった客が扉を開けようとすると外で通路にあったゴミに引っかかってろくに開かない。強引に隙間を広げようとすると外にあったバケツが倒れた。中にたっぷりとためられていた液体が床を伝って店内にまで広がる。その液体はまさに血の色をしていた。
「ひっ。」
パニック寸前だった客が短く悲鳴を上げる。頃合いだ。びしょびしょの靴が机を汚すのも気にせず上によじ登ると正は鬼塚たちに向けて叫び声をあげた。
「おまえぇぇ。お前がねぇちゃんに手を出すから悪いんだ。僕の邪魔をするからぁぁ。」
突然、奇声を上げる正。その右手にはナイフが握られ危なっかしくゆらゆらと切っ先が揺れている。焦点が合っていない目はせわしなく動き回りどこに向かって暴発するか分からない危うさがある。だが何より客たちが総毛だったのは血を全身に被ったその姿だった。正がナイフを振り回すたびにその血が飛び散り近くで棒立ちしていた客の頬に飛ぶ。思わずぬぐったその客は手に着いたぬめりの感触と鉄のにおいに、それが間違いなく血だと確信する。
当然だ。3価の鉄イオン(Fe3+)とチオシアン酸カリウム(KSCN)を反応させれば生まれる溶液の色は血赤色、まさに血の色に例えられる赤黒い溶液になる。逃げ場のない店内、血まみれの男が女の名前を叫びながらナイフを振り回す。パニックは溢れる寸前、表面張力でぎりぎり耐えているコップの中身と同じ。ちょっとした衝撃で一気にあふれ出す。
「うおっ、痛っ。」
後ずさった輝が足元のバケツにつまづく。思わず手をついた床に血赤色のシミが広がる。だが輝が見たものはそれどころではなかった。バケツからこぼれた血まみれの首が恨めし気に輝を見ていた。
「ひっ、死たっ、くびぃぃぃ。」
実物を見ていない大勢も、その声の悲痛な響きで何が起こったのかは十分に伝わった。コイツは殺ったのだ。コイツは本気だ。コイツは本気で狂ってる。まだわずかしか開いていない正面の入り口に客が殺到する。その重みに耐えかね、通路のゴミで押さえられていた扉は全開に開かれ我先にとそこから客たちが逃げ出す。幸いにも将棋倒しにならずに客たちは次々と消えていく。
机から飛び降りた正は血まみれのナイフを鬼塚に突き付ける。鬼気迫るその雰囲気に鬼塚は尻もちをつき、言葉にならなかったものが泡になって口元に残る。正は横目で入り口がきれいに空いたのを確認して鈴の手を取り走り出した。行きがけに蹴飛ばした血赤色の石膏像は中身の素材が違うのか意外にも軽い音を立てて店の隅にまで転がっていった。輝と鬼塚は仲良く床に尻をつけてそれを見送った。
すっかり雨が上がった町を息を切らせながら正と鈴が走っている。正の尋常ではない格好に人々が道を空ける。
夕方の赤い空で鈴の顔が真っ赤に高揚して見える。きっと自分の顔も同じように赤くなっているだろう。訳もなく大声で叫びだしたくなって、その気持ちを伝えたくて精いっぱい鈴の手を握る。少年と少女が手をつなぎ赤くなる街を駆け抜けるのを買い物途中の親子が交番前の警官が電柱にマーキングする犬が見ていた。
空の抜けるような青とその光を吸って反射する緑の大地が夏の色なら、暗い雨が全てを灰色にすることで夏を終わらせる。そしてその先には夕日が染め上げたような赤い紅葉が彩る秋が来る。明日は秋分の日。世界の色が変わる日だ。
本作の登場人物たちは特殊な訓練を受けています。本作に出てくる行為を真似しますと最悪重度の後遺症が残る可能性があります。
薬品を被る行為は絶対に真似しないでください。
また、寝取られはあなたの人生を破壊してしまうかもしれません。
以上の点に注意しつつ本作をお楽しみください。