第8話 絶望するほど望んだ景色
長いようで短いような一日。けれど確実に最も濃い一日が終わろうとしていた。
ようやく、ようやく……。この閉じ込められた空間から脱出できる! 別世界に来たっていうのに石の壁や床しか見てないなんて頭がおかしくなる。空気も澱んでたり埃っぽかったりして、碌なモノを感じてない。
「もう少しで出口だよ」
アンナの後に大人しく付いて長い階段を上っていくと出口の扉に差し掛かる。
ようやく地下から解放されることに高揚感が湧いてくる。
開かれる扉に肌に届く風。この世界に来て初めて屋外に出られた! 最初の一歩を踏みしめた! ……しかしまあ、路地裏とは風情はまるでない、風が吹き抜ける音と物が転がる音。ただ建物の隙間から見える空には山の上かと思えるぐらいはっきりと星空が見えていた。
「無事に終わったようですわね」
「あっ、ナーシャ! 待っててくれたの?」
薄暗い中でランプを点けて立っていた女性。知り合いみたいだけど随分と大人びた雰囲気をしている。保護者か? いや角が無いな。それと同じ感じの服装?
そんな俺の視線に気づいたのか。奥ゆかしい柔和な笑顔で一礼してくれた。
一瞬見惚れてしまい、頭を下げるのを忘れてしまいそうになってしまう。
「初めまして私はナーシャ・アロマリエ・フラワージュと申します。アンナさんの学友なのでどうぞよろしくお願いしますわ」
「あ、えっと、俺は神野鉄雄です。よろしくお願いします」
何というか気持ち悪い返答になってしまった。丁寧な挨拶には丁寧な挨拶で返す。年下だろうと関係は無い。
それと学友……ということは。
「この世界にも学校はあるのか。それにこれからどこに向かうんだ?」
「あせらない。色々な話は1度帰ってからするから。こんな場所にいつまでもいられないでしょ?」
「すまん、あまりにも気になることが多すぎて」
確かにこんな暗くて怪しい人間が屯するような場所じゃ落ち着いて話はできそうにない。ただ、どうしても心がはやる。
知りたい、安心したい。今の俺は見た目が大人の中身が赤ん坊なぐらいにこの世界について何も知らない。こんな路地裏から出て色々見てみたい。そんな欲求が渦巻いている。
「心配はいりませんわ。あの場所が特別なだけで他は安全ですから。ほら――」
暗く細い道を抜けて大きな通りを出ると。
「わぁ……」
童心に帰ってしまう程純粋に言葉を失った。真っ暗なトンネルから抜け出したような解放感と共に待ち受けていたのは、外国の木組みの街を思わせる外観が広がっていた。
電気とは違う街灯、明るすぎず優しい光で街を照らす。
車や電車の音一つない、人の歩く音が唯一の音源かと思ってしまう程静か。
それに夜歩いている人も酔っぱらってる訳でも無く仕事に追われている訳でも無く、悪事で逃げているわけで無く穏やかに、談笑しながら歩いていた。
人の装いも何かが違う、俺が着ているのとは
進む道もコンクリートで塗り固められていない石畳の道路。歪みがあるわけでも無い職人技を感じさせる平坦な道。
空気の質も田舎と比べられない程爽やかで肺が欲しがっている気さえした。
星空に月。こうして広々と見ると今まで当たり前に見えていたものが改めて美しいと実感できて心の老廃物や凝り固まった価値観が解れていくようだった。
「どうしたの?」
その言葉を聞くまで足を止めていたことに気付けなかった。見惚れていた、聞き惚れていた。求めていた色々な何かが満ちていくようだった。
「……こんな景色を感じたかった。本当に違う世界に来たんだなぁ」
画面越しではない自分の目で見た景色。
奥行も輝きも揺らめきも何もかもが画像では得ることができない感動を目にすることができた。
「そんな感動した顔を見せなくても、これからいくらでも見られるじゃない」
「風情が無くなるようなことを言わないでくれ……」
感動が薄れるような言葉を受け、街並みをキョロキョロとお上りさん丸出しで見ていると、街の形が少し分かってきた。
背面方向の先にはどの建物よりも巨大な壁。建物ごと通れそうな大きな門。見た所城郭都市と言われる街並みなのだろう。これが全体的にぐるっと円を描いているとするならば、このまま進めば目的地は街の中心。
このまま中心を通り抜ける可能性も考えたけど杞憂に終わり。
花園がある広場を抜け、立派な城を見上げ、その隣の横に長い建物に沿って進むと、城に負けず劣らず塔を思わせる立派な建物に到着する。
「ここがマテリア寮。わたし達はここに住んでいて使い魔となったテツもここで住むことになるの」
「こんな立派なところが寮なのか……羨むレベルで格が全然違う……」
寮と言われたそこは壁には植物が張っているが汚らしさはまるでなく、整えられてむしろガーデニングと呼べる風格。壁も年季は経ってそうだが壊れそうなんて不安を感じさせない重厚感。
格式高い厚い扉を開くと、月明りだけが入る薄闇の空間が広がっていた。
「注意して歩いてくださいね。この時間になるとエントランスは消灯されますので」
「あ、ああ……」
ホラーハウスを彷彿させる耳鳴りがしそうなほど静かな空間。歩いても軋む音はせず滑らかな石の上を歩いているかのようで、それに何かを焚いているのか心地良い香りも鼻に届く。どこの豪邸かと頭が混乱する。
静かな空間に広がるランプの光。それを頼りに進むと何やら扉の前で足を止めた。
「わたしの部屋は10階だから」
上向き三角のボタンを押すと、駆動音が聞こえ「チーン」と呼び鈴の音が響くと扉が開いた。何なのか理解しているけど、別世界に来た感覚が消えてしまいそうで理解したくない気持ちも湧いてしまう。そう、俺が良く知るアレが目の前にある。
「……なんでエレベーターがっ!?」
「なんでと言われても困るって。来たときからあるんだから……!」
「世界が違えども同じ物は存在するようですわね。不思議と言わざるを得ませんわ」
完全に当たり前に俺の知っているものがそのままの形で目の前に存在している。誰もが自然と思いついて積み重ねる家屋とかランプとかの道具とかとはこれは違う。
滑車と人力でどうこうしているのとはレベルが違う。
10人以上は入れそうな部屋。金属製の壁と床、俺の知識と同じ「1」「2」「3」と描かれた算用数字のボタンで階数を指定し、読めない文字のボタンを押すと扉が閉じて上に進む。
電気で動いているのか? 動力も気になるけど、どうやらこの世界の技術は想像以上に高いと考えて良さそうだ。
百貨店とかでしか昇らないぐらい高い階層まで到着すると、再び年代を感じさせるが高級感のある廊下が目の前に広がる。
本当にどうなってるんだここ? タワーマンションもびっくりな内装だぞこれ。
「ここよ、1020号室」
学生寮は狭くて寝て起きたり、勉強ぐらいしかできないという先入観と偏見を持っていたが、そんなちっぽけな俺の常識なんて吹き飛ばすぐらいドアとドアの間隔が広い。一辺の外側方向に二部屋、寮の形からして六部屋、いや。内側にも二部屋で一つの階に八部屋か?
呆気に取られて喋ることを忘れていると。
到着点であるアンナの部屋の扉が開かれる。
家に帰ったら当たり前の動きで壁にあるスイッチを入れると部屋に光が灯る。
そして、部屋の中が露わになった。
「広っ!」
開口一番その言葉が漏れてしまう、なにせ一人で暮らすにはあまりにも広い。
少し廊下を進むと十人ぐらいでパーティできそうなリビングと食材置き場に困らない対面キッチン。広いリビングだけじゃなく他の部屋に繋がる扉が1、2、3……廊下にも扉があるな。
だが冷静に見ればリビングというより、作業場みたいな雰囲気がある。大きな釜が床にドンと主張するかのように置いてあり、理科で使うフラスコや試験管が収められた大きな棚。床も頑強さを思わせる石造り。
「そういえば錬金術士って言ってたな。ということは所謂アトリエなのかここは?」
「錬金術をする時はだいたいここでやってるから。うん、そういうことになるかな」
「何はともあれこれでアンナさんの課題も達成。一段落ですわね。お茶でもいれましょうか」
どこに物が置いてあるのか分かっている動きで棚からポットを取り出し、ガスコンロのような台から火を発生させた。
「あれ? 二人は一緒の部屋なのか?」
「ううん、ナーシャの部屋は7階。こっちに来てから色々とお節介されてるの」
「お茶やお菓子をお裾分けしていますわ。一人で食べるのも寂しいですからね」
この広さで一人部屋か……何が正しいのかまるで分からん。錬金術士にとってはこれは広いのか? それとも狭いのか?
テーブル一つに椅子二つ、離れた位置にソファーが一つ。リビング兼アトリエに目立つ家具はそれぐらい。
先程は「広い」と口にしたが、ここはもっと使いやすくなる。なにせ適当に棚や床に並べられた本や器具、一国一城の主の如く自分が分かっていればいいような乱雑具合だ。
「もう夜も遅いですから、お茶だけにしましょう。心が落ち着きますよ」
ふと目に付いた時計の針が示すのは10時5分。思わず二度見をしてしまう。この世界には時計もあった。基本的な文化や技術はそう変わらないのか?