第26話 黒に成る
何が起きた? 何をしてもらった? 内臓にまで響く衝撃に頭が空っぽになっていた。それに床に転がっているこの状況。何がどうなったんだ?
視界が定まらない、頭が回らない、でも分かる俺はまだ生きている。何故か──
「……アンナ──!?」
思い出した刹那の記憶、最悪の想像が頭に浮かび全身の血の気が引いてくのが嫌な程感じてしまう。あの時見たのは穏やかなアンナの表情。そうだ、俺はアンナに突き飛ばされた! アンナが突き飛ばしてくれたから命拾いした。そう、命を拾わせて貰った!
床に身を任せている場合じゃない! 動かなきゃいけない。のに、立てと動けと願っても凍り付いたかのように動いてくれない。
鼻に付く焼けた匂い。体にかかった熱。知るのが怖い。真実を知ってしまったら。俺は──
(こっち……)
弱々しく囁くのように頭に届く言葉。「もしも」に期待できれば幻聴でも何でも良かった。それは福音、体を跳ね上がらせる起爆剤。根を張りそうな体を引きちぎって、揺れる頭で前を向く。
「あっ……!」
泣きそうなぐらい安堵してしまった。俺よりも巨木から離れて倒れていたアンナ。俺を突き飛ばしても勢いが落ちずに助かったのか? 何でも良い、五体満足で生きていてくれた。よかった……!
歪む視界と高鳴る心臓。はっきりと存在する彼女の元へ焦り駆け寄り、そっと頭を支える。
「アンナ。大丈夫か?」
「すこし……しっぱいしちゃった」
目が合う。声も聞こえる。触れた箇所が揺れる熱を感じる。生きてる!
消えたと思った絆が残っていた……本当によかった! 生きている温もりがここまで安心できるなんて知らなかった。
でも、今は戦いの途中。情緒に触れるような感情は植物に無い。荒らし回った俺達を見逃してくる訳もない。黒い痕が残された塔のような巨大ツルが床を削る音と共に再び屹立する。弱々しく倒れていようが、救いを求める表情を浮かべようが、決められた行動を当たり前にこなす。意味がない。
(……どうする? どうすればいい!? アンナを抱えて逃げられるのか!?)
「わたしはいいから、はやくにげて……」
なんでこんな時までそんな言葉を言うんだ!? 違うだろ!?
この温もりを手放す? 命を助けてもらった相手を見捨てて?
できるわけが無いだろ!? 本当ならそのセリフは俺が言わなきゃいけない。倒れているのは俺じゃないといけない。代わりたい。俺は死んでも構わないから俺を救ってくれたアンナを助けてほしい。
力がっ……! 力が欲しい! 俺なんかを庇って死ぬなんてあっちゃいけないんだ! この子には未来がある! 輝かしい未来が! それを守れるだけの力があれば!
退けない退きたくない。でも、心構えがどれだけ立派でも、それを叶えるだけの力が無いっ……!! 何度も何度も何度も経験した! 自分だけ逃げればいい状況じゃない! 今を全て捨てて逃げ出したあの日とは違うんだ!
こんな結末は認めない! 変えたい。いや、変える! 覆す! 力が欲しい! この子をアンナを助けられる力が!
魔力を奪う力だけじゃ足りない! もっとだ、斧らしく樹木を伐採する力ぐらいあるだろ!? 全身全霊で使いこなしてみせるから!
アンナに「助けて」と言われる男じゃないんだ俺は。「逃げて」と言われる男で終われる訳がないだろ!!
(……ようやく本気で願ったな)
「あんたは──!」
頭に響くのは斧に眠る霊魂の言葉。待ち望んでいたと言わんばかりの期待感溢れる表情で語りかけてきた。むしろこちらも待ち望んでいた。
(今こそ契約の時! 本当のわらわの力を――)
「御託はいい! この子を守れるなら何だって良い! お前にはそれだけの力があるのか!? あるなら寄越せ!!」
(いい欲望じゃ。決めたかいがあったものよ。ならば奴に立ち向かう心を構えよ!)
「心なんて……とっくに決まってるんだよ!」
俺はアンナの使い魔、ならば盾とならん。恐怖は無く溢れるは怒り。理不尽を覆したい、情けない自分を捨てたい。今を変えたい純粋な怒り。
黒刃を主に迫る脅威へと向ける。
こんな結末は望んでいない。俺が欲しいのは共に歩む未来への渇望。
戦って手にしなければならない。何を対価としても──
(描け! お主の最強を! 伸ばせ!! 理想と欲した夢の姿を!! 叫べ!!! 願った力がここにある!!!)
「こんな! クソみてえな俺は卒業だ!!!」
(さあ、昇格の時が来た!)
心の奥底から鍵が開いた音が響く。自分を押さえつけていた鎖が砕け散る感触が広がった。
吠えた身体に流れる熱い血潮、斧より間欠泉のように溢れる漆黒の液体と霧。全身の熱情を無理矢理押し込めるように渦巻き、張り付き、重なって形と成していく。
英雄、勇者、空想と切り捨てた忘れた心。今再び積み重なり混ざり合い。今なら何にでも成れる理想最強の戦士の姿へだって。
この瞬間、変わった。俺が俺でなくなったような気がした。
ツルの巨塔が振り落ちる直前、力任せに振り抜いた斧より放たれた黒き一閃が音もなく抵抗も無くツルをすり抜けた。そして訪れる巨塔の分裂、連結が途切れ自由に動き出す先端部。
轟音と共に叩きつけられた巨塔の綺麗な断面を目の前で見せつけられる。あるべき先端は空を舞って背後へと落下した。
視界に収まる怪我一つなく休んでくれているアンナ。思わず安堵の息を漏れてしまった。
「……よかった、助けられた……本当に俺がやれたんだ! でもこの姿は……」
黒い液体や霧がが俺を纏って形作ったのは光を飲み込むような漆黒の西洋甲冑を纏った騎士だった。百戦錬磨を思わせる無駄を省いた戦う為の衣装。軽く触れれば確かな硬度がそこにあり、しかも服を一枚追加で着た程の重さも無い。
そんなことよりも俺はアンナを助けられた。目の前の巨大なツルはどうすることもできない密度と重量。それを切り裂いた。本当に俺がやった、この場には俺しかない。俺が、俺がやった! 激しく拍動する心臓、全身の血が湧き立つような高揚感に滾りに滾る。
(上出来じゃ……力の使い方を教えてやろう少し体を借りるぞ)
「そんなこと──」
「さて、何十年ぶりかの? 五感を堪能できるのは」
(なんだこれ!? 体が勝手に!?)
俺の体が、俺の意思とは別に動き出す。俺の声でも俺のじゃない。夢に落ちたかのように曖昧な世界に切り替わる。
「さて……お手本を見せてやろうかの」
神野鉄雄がしない慢心と傲慢に満ちた表情に余裕綽々の立ち振る舞い。完全に別人と成る。
たどたどしさの無い慣れた手付きで斧を軽く振るうと、壊れた間欠泉のように黒い霧が大量に溢れ床一面が薄黒色に満たされる。
人差し指を軽く跳ねさせると指揮棒の命令に従うように巨大花の真下から黒霧が蛇の動きでまとわりついて包み込む。
「やはり一個として生命を得た相手はこの程度では消えんか。いや、これは……また違う存在か?」
急激に奪い取られる魔力に反応し、排除するために床に開いた穴という穴より伸びる幾千ものツルが飛び出し、一瞬で樹海の景色に塗り替わる。ツルの一本一本がヘビのように蠢きうねり騒然たる光景が視界に広がり、その矛先は全て鉄雄とアンナに向けられている。
獲物を捕えんと伸びる全方位から襲い掛かるツルの津波。
「だが所詮は植物。無礼も甚だしい。国喰らいのわらわに届くと思うたか?」
焦る素振り一つ見せず、斧を一振りし墨汁のような黒い液体を溢れさせ、空間を流れ動かす。半紙の上で筆を走らせるように自在に描き、アンナと鉄雄を包み込む黒い繭を生み出した。
それに触れたツルは実体を手にしていながらも先端からバターのように溶け消滅する。
「この程度の相手では教えられるのもたかが知れとるの。だが最初の授業としては十分じゃろう、では終いとするか――」
爆ぜるように解けた繭が周囲を渦巻き波打ち、激流の如く部屋全体を荒々しく押し流し、追撃せんと迫るツルを全て消していく。燃えるでも溶けるでもない、無かったかのように消えていく。
黒の波が収まると樹海の光景が無かったことにされ、凪の空間へと移ろぎ残されたのは傷ついた巨大花と巨塔のツルだけ。
部屋全体を巻き込んだ攻撃であってもアンナと鉄雄には一切の傷は付かなかった。
「術式設定、座標固定、充填完了。テツオ、よく見ておくのじゃ。これがお主が手にした力だということを!!」
狙いを定め天へと大きく振りかぶる姿、音もなく静かに、だが激流の如く溢れ滾る巨大な力が斧に集まっていた。
「幕引きといこうか」
振り下ろすと同時に放たれる巨大な三日月型の黒刃。
床を削る音も空気を切る音も何も無い、静かにただ静かに進んでいく。
壁となった塔の如きツルも意味をなさず、花弁に触れると水面に刃を通すのかと如く抵抗も繊維が切れる音もなく通り抜け、巨大花の背面の壁に縦一文字の細い線を作りあげた。
ツル達は支えを失ったかのように最後の波を描き床を叩く。轟音の断末魔を放つと動きが止まり。中心で存在感を放っていた花が半分に割れて散っていく。
「…………ざっとこんなもんじゃな。さて、後はお主の仕事じゃ」
鉄雄を覆っていた黒い鎧が霧散し、元の姿を現す。
身に起こっていた不可思議な現象、画面は本人でも操作は上級者のVRゲームのような違和感と非現実感。
全ての感覚が引き戻されても心と体のズレを感じ困惑は隠せない。
「……何だったんだ今の? ってそうだ!」
己が理想を体現した圧倒的な強さに感動するよりも先に、足が向かう先は決まっていた。
「アンナ……大丈夫か?」
優しく頭を支え憂いの中に安堵の混じった声を掛ける。その表情は幾年も共に過ごした家族にも見せることも無かった、親愛の情を帯びていた。
「なんだ……やればできるじゃん……わたしはだいじょうぶだから、先にあの子たちをたすけにいって」
「いいや、先にアンナを安全な所に運んでからな」
「え? あっ、ちょっと……」
自由に体が動かない身。お姫様抱っこで荷物を置いた通路に向かって運び始めた。
「助けてくれてありがとな」
「……主人だから、気にしないで……」
抱えられた彼女は予想もしなかった行動にそっぽを向いてしまう。
以前までの鉄雄なら絶対に行わないだろう気遣い。
死の間際に経験した成功は憑き物が落ちるかのように彼に大きな変化を与えようとしていた。




