第37話 開いた傘を閉じる時
6月9日 水の日 12時08分 マテリア寮前
アメノミカミの追撃を退け、門の向こうへと消えたアンナとサリアンの二人は王都に並ぶ木組みの街の屋根を足場にして文字通りの最短距離で中央へ向かって駆け抜けた。
「とうちゃくっ!!」
寮に繋がる舗装路を滑るように足を着き、水溜まりを波立たせ門の前で停止する。
「師匠っ! お使いおねがいしていいですか!?」
「遠慮なく言いなさい!」
「温室から水生植物を取って来てください! できれば多めに!」
「分かったわ。どこに届ければいい?」
「マテリアの調合室で! わたしは助けてくれる友達を呼んできます」
師弟の縦社会は今この場において無意味。もはや互いにできることを正しく理解して目標に向かって進む同志。
遠慮や礼儀はこの状況において全てが無駄、残った者に託された想いを裏切ることになると理解している。
大きな音を立てて扉を開き寮に帰宅。誰もが奇異の目で音の方に首を向け、一人が安堵した顔で駆け付ける。
「アンナちゃ――大主人!? よかった無事で! 主人は?」
「まだ続いてる! それよりもルティとナーシャは?」
「およびかね?」
「ご用件はなんでしょう? ってそんな濡れた体で……」
玄関近くのテーブルでティーカップか本を片手にチェスに勤しんでいた二人。それとは正反対に服やサイドテールから水滴を滴り落すほどずぶ濡れのアンナ。
ルティは言葉を淡々と吐いたが、思わず二度見して動きが止まる。セクリとナーシャは急いで駆け寄りハンカチやタオルで顔を拭く。
「よかった……! 2人とも部屋にもどってなくて! 詳しい話は後! アメノミカミを倒すための道具を作る手伝いをしてほしい! その時間をテツが命がけで作ってる! だからおねがい!!」
「突然すぎて飲み込みきれないが、策ありと見たね」
「ええ、友として力を貸しますわ!」
悩む素振りは無く。笑みを浮かべてノータイムで快諾する。
「お待ちなさい! そんな空想染みた道具なんて作れるわけありませんわよ! それよりも私達に与えられた職務を全うすべきですわ――」
動き出そうとする二人を言葉で止めるは錬金科カースト上位のアリスィート。彼女も10年前の惨劇を知る一人。壁内を管理する錬金公爵の家系故に人的被害、住宅被害は免れているがアメノミカミの実力は嫌と言う程理解している。
「彼のおかげで避難は滞りなく、怪我人なく済んでいるじゃあないか? 仕事を奪ってくれた張本人だよ? なら錬金術士として別のことをすべきだとぼくは思うがね」
レインの心が折れ、ゴッズの足掻きも道端の石を蹴るかの如く退け、アメノミカミの侵攻が本格化する直前に鉄雄が間に合った。
王都に響いた二名の会話、鉄雄の「信じる」という言葉は国民の心を落ち着かせた。王都は混乱に陥ることなく人は小川のように穏やかに流れて移動し。王都内西区に人はおらず建物はもぬけの殻。殆どが王城やマテリア、東のヴィント地区に避難し安堵している。
加えて王都内、北東南の区にも人はほぼいない。哨戒する防衛・討伐部隊の騎士達がいる程度。
鉄雄の戦いは意図せずとも国民の避難の時間稼ぎの役に立っていた。
「ぼく達を退屈さしてくれた彼には礼をしなければならないからね!」
ナーシャとルティはサボってチェスをしていた訳では無い。
学校や寮に残ったマテリアの若き錬金術士達は必要物資の調合や怪我人の治療に充てられていた。が、あくまで彼等は人手が足りなくなった時の保険的人員。怪我人も焦って転んだ子供が数人程度。現時点で治療は終えている。手持ち無沙汰に陥った。
暴動する者も火事場泥棒する者もいない。破魔斧の力にアメノミカミが夢中になったおかげで王都に飛び火。いや、飛び水することがなかった。騎士達は避難誘導と哨戒に力を入れることができた。
「作るのは『オールプランター』! セクリッ! あなたは部屋の倉庫から巨大花の素材を持ってきて! マテリアの調合室で作るから!」
「了解しました」
「私達も急ぎますわね」
「時期錬金公爵候補の君はどうするんだい? まっ、天才たるぼくがいれば君程度ならいても変わらないだろうけどね。安心して行儀よくお留守番しているといいさ」
三人は寮の扉を越えて雨を受けながらマテリアへと向かう。
「なっ――! 捨て台詞も良い所ですわねっ……! できる訳がない……!」
捻くれて「できない」と言ったわけではない。被害が出れば次は繰り返さない為の対策が立てられる。王の命により錬金貴族とマテリア卒業生の知恵を集結して。
それはアリスィートの家族も含まれ、仮想アメノミカミを相手に日々有効手段を考案し失敗し頭を悩まさせている姿を何度も間近で見ている。錬金公爵という王に次ぐ爵位に泥を塗ってはならないという重責。才能に恵まれなかった兄達の肩身の狭さ。アメノミカミに向けていた国民の怨嗟は簡単にガイアに向けられた。成果が無ければ次は自分達に向けられるかもしれない焦りと恐怖に家の空気は澱んでいた。
結局、アメノミカミに対しての最善手は貴族でもないソレイユ作の『人工太陽ソル』以外に見つからず、誰も完成させることができていない。できたことはレインが使った『次元爆弾』、これは移動停止状況に持ちこめなければ意味を成さないが効果は絶大と証明済み。そして、被害を最小に抑える為の修繕具や治療薬、水道施設の改修しかなかった。
そんな10年を知恵と知識で殴り合い、技術で研磨し合った成果にぽっと出の半亜人のアンナが貴族達が追い付ける理由が無い。もしも超えてしまえば貴族達だけではなくマテリア卒業生を追い越す偉業に繋がり、彼等の名誉に泥を塗る。無駄に時を過ごした愚者として。
「言うだけは簡単よねえ」「結局なんとかなるだろうって」「ここは安全だって」
このやり取りを見ていて呆れの溜息を吐く者、夢見がちだと嘲笑する者もいた。
だが、付いて行きたくてもいけない者も存在する。
「お兄ちゃん……テツって人って……」
「僕は……僕はっ……!」
10年前の悲劇を心の奥底で刻み込まれたジョニー。今も尚、錨のように心を恐怖で繋ぎ止め雨恐怖症という形で蝕んでいる。窓に当たる雨を見るだけでも呼吸が荒れそうになる、小雨の音は慣れてきても豪雨の音を聞くと身がすくみ動けなくなる。雨の日はカーテンのかかった部屋から出られない。妹に手助けされる情けない兄。
「お兄ちゃん……?」
家屋が崩れた、目の前に息絶えた人が流れて来た、正気を失った大人達の怒号が頭から消えない。温かった妹が背中で冷たくなっていく焦り。何もできなかった無力な自分。
外に出られない理由はいくらでも出てくる。それでも、ゆっくりと重い足取りで玄関へと向かって行くジョニー。
「約束を守ろうとしてくれてる人がいて……おんぶにだっこじゃ元貴族として恥を晒すようなものだ……」
「お坊ちゃま!? 無理は御止めください!」
「じゃああの人は無理をしていないと言うのかっ!? 父も10年前命を賭して戦った! 僕だけが何時までも屋根の下で縮こまってる場合じゃないだろう……!」
妹と約束をしてくれた男。伸ばしてくれた手にただぶら下がる行為。それは貴族としてだけでなくジョニー個人の心情としても甘受できるものではなかった。紳士でも男じゃないと分かるから。
視線の先は開いたままの扉、吹き込む風と雨粒の音、無機質な浴場のシャワーとは違う生きた水滴。その一粒一粒が怖気を引き起こす呼び水。
そんな高尚な決意を口にしても肌に触れた瞬間に背筋を虫が這いずるような寒気に襲われ、覚悟の炎が消え足が止まってしまう。
「お兄ちゃん……」
「──ラミィ……」
振り向いた先に見える妹の不安一色の表情。
10年という月日は幼子を少女へ成長させた。それでも、今の顔は過去に見たものと同じ。
妹の目は心配するように「やめた方が良い」と語っている。記憶は薄くとも父を失った事実、心に深い傷を負った母は今も尚入院し、使用人のインディが母代わり。血が繋がり時を重ねた家族は兄のジョニーしかいない。兄も母のようになってしまえば孤独へ落ちると想像できていたから。
(これが……妹にさせていい表情なのか!?)
不安を拭うのは何が正しいのか。ここで部屋に戻っても誰も責めないだろう。アンナの策は無謀な賭けかもしれない。乗る事自体が間違っている可能性もある。
けれどジョニーはガイルッテ家の長兄である事実は不変、兄が妹を守らなけらばならない当たり前の使命。なのに、いつの間にか妹が自分の傘になっていて受け入れてしまった。兄の背中を見て妹の顔が不安で彩られるのは正しいことなのか?
妹が望む兄の姿、ジョニー自身が望む自分の姿。
雨粒が過去のトラウマを想起させると同時に、自身の起源と黒歴史と向き合う事になった。
「ふぅー……本当に情けない兄でごめん」
「お兄ちゃん?」
何も特別なことじゃない、無理して大人になった子供が休んでいた。その長い長い休憩が終わっただけ。
傘を閉じる時が今日この時だというだけ。
「もう、大丈夫だから──」
外へ駆け出す姿は軽やかで。ラミィは思わず──
「いってらっしゃい!」
と言葉にできていた。
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