88.受付嬢ちゃんも空気になる・後
子どもほど純粋で残酷な存在はいない――とは、誰の言葉だったか。
子供には命をむやみに奪ってはいけないという意識が希薄だ。それは命というものをまだ上手く理解できていないからであり、虫を潰して遊ぶのは虫の存在を心のどこかで命だと認識しきれていないからだ。
ハイ・アイテール――雪兎は、自分に対して好意的な「家族」という存在以外の人間の二種類しか認識していないのかもしれない。
「つまり」
応接間のドアを開き、これまでにないほど険しい顔をしたゴールドと、その後ろで不貞腐れたような顔をした赤槍士が入室した。
「俺は雪兎にさえ騙されてたって訳ですか……もう何も信じられなくなりそうだ」
「……戻りました」
その様子からして、赤槍士はゴールドに事情は説明したものの、人間関係の決着はまだのようだった。
ただ、アイドルはその言葉に即座に反応した。
「『アリナシサ』の分析結果はそれを否定しています。彼女はこの星に到達してから人間の価値観や文化などの情報を収集していただけであって、虚偽を用いたという感覚はないだろうとしています。彼女が貴方の傍にいたのは――彼女が『家族』の定義を完成させるためでしょう」
雪兎にとって、家族は精神的に必須な存在なのだろう。否、与えられたもののなかで最も価値を感じられたのがそれしかなかっただけなのかもしれない。少なくとも雪兎は両親となった科学者たちに好意を持っていた筈だ。
同時に雪兎は、家族ではない存在の残酷さや身勝手さを一度身を以て味わい、更に家族の喪失を経験している。そして彼女はどんなに桁外れの生命体だとしても、精神的にはまだ子供なのだ。
子供は欲望に忠実だ。
なんでも思い通りになって欲しいと心底願っている。
だから自分の要求が通らないとき、他に手段がなくて泣きわめく。
だが――雪兎には今や力がある。
この星で最高と言って過言ではない、無限に等しい力が。
「アイテールを手に入れ、地球文明の知識も持ち、ロータ・ロバリーでも学習を続け、ハイメレから一部のデータも奪取された今、雪兎には常人には不可能なあらゆる出来事を起こすことが出来ます。どのような計画を建てて行動しているのかは不明ですが、行き当たりばったりの行動をすることはないでしょう」
と、ゴールドがアイドルの前に跪いた。
「質問をお許しください。地球と同じく生物抹消に乗り出す可能性はないのですか?」
自分たちの国を見捨てたと言ってもいい女神が相手でも、やはり女神は女神だから礼節を弁えるべきと思ったのだろう。へりくだってはいるが、その表情は無条件に跪いていると思うには硬すぎた。
「敬語は結構です。エレミアとはわたしであってわたしではない。信仰と現実は別のもの……無理に混同させる必要はありません」
「……分かりました。では年長の者を敬う意味合いで敬語を使わせて頂きます」
「それであなたが納得するのならば……質問に答えましょう。彼女がそれを行うことは不可能ではありませんが、実行される可能性は限りなく低いでしょう。根拠は一つ……『効率が悪いから』です」
「効率が……ですか。雪兎に抵抗する者は当然出るでしょうが、星の生命を全て抹消した力があれば難しいことではないのでは? 彼女にとって時間などあってないようなものでしょう。一万年を超えて生きているのですから」
「確かにそれを行い、その後にリメインズで地球遺伝子を持つ人造生物を作り出すか、或いは新たなハイ・アイテールを作ることは可能でしょう。しかし、滅亡させた後ではそれに人間性や文化性を教える人間がいません。彼女に学習能力はありますが、現時点で人間の人格を育成する能力は皆無に等しい。彼女は『ままごと』を好まなかったでしょう?」
「それは、そういえば……」
桜もゴールドも、彼女の面倒を見ていた全員が思い当たる節がある。
普通の女の子なら喜ぶ人形を、雪兎は気に入りつつもそこまで執着を見せることはなかった。女の子が好む家族ごっこやままごとを、彼女は自分からしたいと要求した記憶がない。
白雪は可愛がっていたが、あれは同族意識に近かったのかもしれない。色も似ていたし、人造のアイテール生命という意味では共通している。
「彼女は自分を庇護してくれる対象が欲しいのであって、子供が欲しい訳ではありません。彼女にとっては己を庇護する存在を一から作る方が大きな手間です。今ある存在を利用する方向で考えるでしょう」
あり得る話だ。雪兎は対人関係では加速度的な成長を見せたが、お絵かきなど創作の分野には、今になって思えばかなり消極的だった。人との会話や生活行動に支障が見られなかったことや仕事のこともあってそれを深く気にした者はいなかったし、同年代の子どもとはボール遊びなど身体を動かすものばかりで、他所の家に遊びに行ったりしたこともない。だから気付けなかったのだろう。
銀刀が納得したように鼻を鳴らす。
「その為の人間観察か。生かすべきか殺すべきか、選定基準となる情報を求めてずっと人に混ざっていたと。ところが自分の体の特異性を自ら出してしまい、調べられれば正体がばれることになって慌てて桜を襲い、逃走した訳か」
「彼女は間違いなく赤槍士に監視されていること、私が桜と接触したがっていたことを理解していたのでしょう。理解した上で止められなかった責は私にあります」
「それは……俺が勝手に飛び出したせいだろ。お前が勝手に責を負うな」
桜は思わず彼女の頭を撫で、そう言った。相手が遥か昔から星を管理していた存在だと分かってはいるが、彼女にそう言われると子供に庇われているようで素直に受け入れられなかった。
アイドルはその手の感触にきょとんとした顔をした。
「これは……愛撫と呼ばれる行動ですか?」
「えっ。うん……まぁそうとも言う、か?」
「わたしは機械です。生物のように愛撫する事に意味はありません」
もしや気を悪くしただろうか。機械だと言ってはいるが、一人称にわたしという言葉を用いる辺り、自我があって拒否反応が出ているのかもしれない。すっと手を退ける。
「……あっ、もう手を放してしまうのですか? それは愛撫としては短すぎると指摘します。いえ、愛撫を求めている訳ではありません……違いますよ……ただ、未体験の感覚であったためにデータ収集を行っていただけであってそのデータ収集度が……」
「……後で収集する時間を作るから、話進めようか」
「は、はい……!」
喜色に頬を染めて嬉しそうである。
断言するが、絶対欲しがってた。
ポニーが部屋の端から尊いものを見る目で彼女を見つめている。だからのんきか。
「……おほん。雪兎の追跡にはわたしとわたしの子供たちが全面的に協力します。ハイ・アイテールの支配は確実にこの星の数多の生物を滅ぼし、生き残った者を思考の停滞した奴隷と化すでしょう。こちらも最悪の事態に備えて準備が必要です」
気を取り直し、アイドルは立ち上がり周囲を見回した。
白狼女帝が呼応するように立ち上がり扇子を前に出す。
「雪兎の行動はわが国の独立性を侵害する。雪兎の目的阻止の為に協力しようではないか」
銀刀も鞘に納めた剣を持ち、扇子に重ねる。
「アサシンギルドは雪兎の心に鬼が潜むならこれを斬り、鬼がおらぬなら行動という悪鬼を斬る――頭領の名の下に鬼儺を発令する。特例だが、協力してやろう」
空間を捻じ曲げた穴から翠魔女が慌ててやってきて、杖を重ねた。
「天空都市の長に事情を説明して協力して貰います! 女神様がお困りとあらば断りはしないでしょう! 我等も共に!!」
小麦がアタッチメントで伸ばした銃身を重ねる。
「大砲王おじさんは私のハトコなので、連絡して協力して貰いますね!」
「おい初耳だぞ……」
「あれ? 言ってないんでしたっけ……?」
「お前……はぁー。とにかく俺も個人的に協力しよう。雪兎を捕まえて、『ゆびきりげんまん』でもさせるか」
重戦士の剣が重なる。続くようにマーセナリー組、冒険者の残り、軽業師、タレ耳ちゃんの包丁、一角娘ちゃんのお玉、様々なものが重なっていく。
しかしゴールドは、拒否した。
「すまないが、今はそんな気にはなれない」
「いいさ。いつまでも待ってるよ」
そう言いながら、桜はそこにいつもの煙管を重ねる。
と、その上にギルド製のペンが追加された。ポニーだ。
「……いいのか、ポニー。もう受付嬢とかそういう問題じゃないレベルの問題だぞ」
――だったら受付嬢が協力してもいいんじゃないですか?
――桜さん、これは子供の家出です。
――子供を心配して探すのに、ギルドもギルドじゃないもありません。
「……ブレないなぁ。そういうところ、好きだけどさ」
――そうですか! そうですか……えっ。
若干の処理落ちが発生したのちに言葉の意味を理解したポニーが慌てる前に、桜は久々に声を張った。
「雪兎を捕まえて叱って、家に連れて帰る!! 最優先にして最大の目的だ!! 文句はねえな、紳士淑女諸君!!」
「……桜。君はどうして……そんなに雪兎を信じられる?」
ゴールドが、迷い子のようなか細い声で桜の背中に問うた。
「皆もだ。相手は星を滅ぼした存在なのに、どうして異を唱えないでいられるんだよ……殺されかけたんだぞ、君は!! 骨の髄まで利用され尽くして、捨てられた!! 俺たちを置いて去ったってことは、俺達のことなんて眼中にもなく利用してたってことじゃないのか!! そんな彼女を叱って連れ帰る!? 雪兎が都合よくそんな話を理解して改心してくれるとでもッ!? そんな根拠がどこにあるんだッ!!」
その言葉に、雪兎をよく知る人間たちは少なからず不安を煽られた。彼女が危険な存在だなどと、万魔侵攻の一件まで誰も想像だにしなかったのは確かだ。彼女は親代わりである桜にさえ手をかけた。ポニーだけはそんなそぶりはなく、ただゴールドと自分の意見が割れてしまったことへの微かな悲しみがあった。
ゴールドだって分かっている。
今まで散々面倒を見てあげたのだ。
情が移らない訳がないし、改心させられるならそうしたい。
しかし、信じられるものが悉く覆ったゴールドには、彼らの希望に満ち溢れた態度や言葉が素直に受け入れられない。氷国連合に来てから赤槍士に問われた『戦いたくない奴と戦わないといけなくなった時、迷わないって言えるのかよ』という問いに自信をもって出した答えが、今はひどくかすんで空虚に見えてしまう。
しかし桜は――優柔不断で失敗と後悔を重ねてきたゴールドの友達は、迷っていなかった。
「記憶ほじくりかえした時にな……俺の腹を刺した後の雪兎の顔を見たんだ。あれは――」
一度言葉を切り、回顧するように目を閉じる。
「あれは自分のやったことに気付いて青褪めた顔だった」
――こんなひどいことをするつもりではなかった。
――わたしのやろうとしていることは、怖いことなのか。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう。
――桜に、みんなに、嫌われる。
――ここには、もうわたしの居場所がない。
震える目線、唇を噛む歯、わななく手、乱れた呼吸音。
その全てが、雪兎の心理を克明に表していた。
本当に悪い子は自分で「悪い子だもん」なんて言わない。
言い訳しないと自分の行動を正当化することが出来なかったのだ。
「雪兎自身、きっとこれでいいのか本当は分かってないんだ。俺を刺した後に早々に戦いを止めて姿を消したのは……自分のやったことが怖くて逃げ出したのさ。あの子はよぉ、ゴールド。やっぱり独りぼっちで寂しがってるあの雪兎なんだよ」
「桜……」
「今回は俺が先行するよ。準備が出来たらついてこい」
「……ッ」
それは、ゴールドに頼りがちだった桜が初めてゴールドより先に進んだ瞬間だった。
この世界には神も仏もいはしない。
勇者も魔王もあったものではない。
目の前に起きている山積みの問題こそが現実で、それに精一杯踏ん張って体当たりするのが、生きるという事だ。たとえそれが絶望的に重く大きく、突破するイメージが湧かなかったとしても、人は皆そうして生きているのだから。
「雪兎……親は子供を叱ってやるものだろ?」
指を見つめる。
この指で服のすそを掴み、食べ物を掴み、そして――ある人を貫いた。
温かく濡れた感触、手に纏わりついた鮮血。
それを急に思い出し、慌てて手を振る。
振った手には何も付着していない。
何の異常もない白い肌だ。
なのに、何度でもあの瞬間を幻視する。
「――」
微かに震える手をもう一つの手でぎゅっと握り、少女は震える。
この震えも、目的を達せば消える筈だと言い聞かせながら。




