83.神はいた。ただ、それだけだった。
肉眼で確認できない戦場の趨勢は、息つく間もなく傾いていく。
『侵蝕階層12、13、14……なおも加速!! 電子的対抗手段……拒絶!! アイテールを用いた物理的な侵蝕と判断、時空間閉鎖実行!! ――空間侵蝕を確認、効果なし!! 物理破壊による分断実行!! ――信号途絶!! アイテール・ジャミングによりメインフレームの52%が占拠!! 機能維持困難!!』
次々に膨大な数式と術式がモニターに広がっては途切れ、処理速度を上回る速度で粘性の液体が伝うように数字が呑み込まれ、モニタが白く染まっていく。辛うじて外からの干渉に抵抗しようとしていることだけは理解できたが、時間稼ぎにすらなっていない。
「何が……なんでもいい!! ハイメレ、お前ここの構造体から逃げ出して別の場所に移るとか出来ないのか!? このままじゃまずいんだろ!?」
『バックアップユニット起動!! 当該システムのデータ消去を開始!! ユーザーの端末に緊急脱出術式を送信しました!! 総員速やかに脱出をッ!!』
「お前は、どうする!?」
『バックアップユニットに後を託し、自爆を決行します!! 当該機は――ハイ・アイテールにデータを渡す訳にはいかない!!』
「ハイ・アイテールだとぉ……ッ!!」
何を確認する暇もなかった。
ポケットのスマホが突如として発光し、その場にいる全員の足元に紫色の光が収束する。これは確か――紫術士が使用していた空間転移と同じ代物だ。抵抗する暇もなく全員がその空間に引き摺り込まれる。
「ちょっ、これ入って大丈夫な奴なんですよねぇ重戦士さん!!」
「脱出術式と言った以上、脱出のためのものなんだろうが……!!」
「王宮の隠し通路に侵入者……まさか?」
「白狼女帝様!?」
「……よい、お主ら動くな」
今度こそ手が届くと思って手を伸ばす度、それは遠のく。
届かないと理解しつつも必死にハイメレに手を伸ばす桜の慟哭が響いた。
「畜生、畜生ぉッ!! そのハイ・アイテールの事を聞きたくてこんなところまでやってきて、最後にこれかよッ!? 何で俺の望みはどいつもこいつも踏みにじられて……おい、ハイメレぇぇぇーーーーーッ!!」
桜の叫びは届くことなく、全員の視界が光に染まった。
最後に、バクンッ、と大きな何かの口が開く音と、体への衝撃があった。
『全員の退去を確認。後は頼みましたよ……コード033起動ッ!! 貴方の支配など、『わたし』は受けないッ!!』
その言葉と共に、ハイメレ本体は影すら消え失せる極光に包まれ――。
= =
「――いでッ!? くそ、どこだここ……!!」
緊急脱出させられた桜は尻餅をつきながら空を見上げる。灰色の薄暗い雲が絶えず雪を降らせている様子から、屋外らしい。起き上がろうとして、自分の上に誰か乗っている事に気付いた桜はそれを手で起こそうとする。
「誰だ!? 軽いな、小麦さんじゃない」
「くぉらぁぁぁ!! 乙女に対して何という判断基準!!」
「お前、常人の数倍重いだろうが」
「ふむ。無事脱出か。ここは――おお! スルトルの頭頂部か!! 観光地化して足場を作っておいてよかったのう!!」
「白狼女帝様、ご無事で!! 近衛の皆さんも大丈夫ですか!?」
「はっ!! 問題ありませんっ!!」
あの場にいた全員分の返事が返ってきて少しほっとするが、同時にその全ての声が目の前の誰かから発されていない事に気付いた桜は疑問符を浮かべる。
「じゃあ、これは誰だ……?」
身体を完全に起こすことでやっと相手の全容を見ることが出来た桜は、絶句した。
全身にぴっちりと張り付くような黒い艶のある服と、それに付随する極めて薄く肌にフィットした鎧のようなパーツ。背丈は雪兎より数歳年上といった体躯のそれは、腰に届くほど長く青白く煌めく透明感ある頭髪を揺らし、耳には人のそれでなく小洒落たヘッドフォンのような人工的なパーツと細いブレードの伸びた――どう見ても、少女だった。
ヒスイのように煌めく眼球はよく見ればカメラレンズを何重にも重ねたような人工感こそあるが。その肌の触り心地や顔立ちは、美術品のように美しい人間だとしか言い様がない。
「ろ……ロボっ子……?」
「――初めまして、ユーザー。わたしは支援システム『ハイメレ』の本体が破損ないし侵蝕を受け、機能を維持できなくなった際の非常手段としてユニット内に格納された人型独立バックアップユニット――『エレミア』です」
「めっ――」
「女神、エレミア……!?」
「~~~~ッ!?」
周囲の視線が一斉に釘付けになる中、エレミアと名乗った少女の額を見た桜は思わず頭を掻きむしった。彼女の額に小さな逆三角の結晶のようなパーツがあり、その中央に『Elemiah』と掘られているのだ。ハイメレの英知を全て受け継ぐ人造の少女。
これではまるで、人造の神のようだ。
――しかし、それ以上思考を巡らす時間はなかった。
ズドォォォォォォォォォンッ!!! と。
氷漬けの巨人スルトルと真反対、皇都を挟んで向こうの大地から巨大な赤黒い火柱が昇り立つ。それは地獄の窯が吹き飛んだような恐ろしさと迫力を以て、天高く舞い上る――と、その中から一つの青白い光が飛び出した。
それは恐ろしい速度でこちらに接近する。
接近を感知したエレミアはすぐさまふわりと桜の手を離れて空に浮かび、全身を光らせて臨戦態勢に入る。
「この程度で撃退できるとは思っていませんでした。侵蝕によって一部のコードを奪取されたことも認識しています。それでも――この星の人類の未来を、貴方に渡す訳にはいきません」
「――じゃまするの?」
「……貴方に対話する余地があるとは初耳ですね。問答無用で地球の全人類を滅ぼした者――ハイ・アイテールッ!!」
「――じゃあ、あなたはいらない」
桜は、ハイ・アイテールと呼ばれた『それ』を見て、涙を流した。
「ほんとに、さぁ。神も仏もいやしねぇんだよなぁ……」
思い出されるのは先日、ポニーが口にした言葉。
――もしかしたらこの先、真実を追うのは辛いことかもしれません。
――目を背けたくなるような現実があるかもしれません。
理解したつもりだった。
呑み込んで、前に進むつもりだった。
なのに、今という瞬間を認めなくない。
だって。
「つれぇ……この世にこれ以上目を背けたい話なんてあるか……なぁポニー。こんなの……あんまりだろ?」
「これが、桜の故郷……地球を滅ぼした、者……?」
「嘘ですよね。そんなこと、だって、あれは……」
重戦士の声も、小麦の声も、もう耳に届かない。
ただ、『それ』に手を伸ばした俺は、自分でも分かるくらい情けなく震えた声で、話しかける。
「良い子だから……何かの間違いだから……だから、な。その光を引っ込めて、こっちにおいで……雪、兎」
お前の為に頑張ったんだ。
お前を、絶対に守らなければと自分に誓ったんだ。
何を捨てても、捨てられないと思ったんだ。
この世界で俺の他に孤独が存在がいるとしたら、それはお前だから、寂しい思いをさせちゃいけないって――そう思って今まで守ってきたんだ。
「なぁ、雪兎――」
――おれの、娘。
「わたし、わるい子だもん」
表情のない紅い瞳の白い少女が風をなぜるように手を振り、それに対抗するようにエレミアが手から夥しい濃度の術式を展開し、再びその場の全員の視界が白く染まった。




