76.それはきっと、似合わない感情
最初、この世界に来た時、途方に暮れて帰りたくなった。
慣れてきて、こっちの世界もいいかと思った。
少しして、お屠蘇気分が醒めた瞬間に、全てを投げ出してまた帰りたくなった。
幸運な出会いと力の使い方を覚え、ここで生きる決心が出来た。
今は、分からない。
同じ言葉が頭の中をぐるぐると堂々巡りして、何の答えにも辿り着けずにいる。
(14003年前……西暦換算だと、いつなんだろう)
最低でも16000年は超えるのだろう。西暦が永遠に続くと心のどこかで思っていた俺に、その事実は当然の理屈であるかのように突きつけられた。居住不能になった以上、今、地球に戻っても意味なく野垂れ死ぬのだろう。
地球から木星までの距離はおおよそ9億キロメートル。スペースシャトルくらいの速度の宇宙船であれば有人計算で数年かかるとどこかで聞いた。なんとはなしにスマホで検索をかけてみると、一光年は約9兆5000億キロメートルらしい。
(大体10億キロ5年くらいで計算して……ええと……5万年くらい。ロータ・ロバリーから180万光年離れてるから……)
真面目に計算しかけ、やめる。余りにも馬鹿馬鹿しすぎた。
地球はもう元に戻らない。
日本はもうない。
地球人は自分しかいない。
意味が理解しきれない。
この間まで電話を掛ければ応えてくれた知人、隣人、家族、公共機関。
そのどれもがこの世にいない。皆死んだ。
テレビ番組に出ていた芸能人、答弁する政治家、それら全てで使われる日本語という言語を培った国家と文明も、滅んだ。きっと個人という人間にとっては途方もない昔に。
桜からして14000年前と言えば、人類が稲作を始めただか何だかの時代だ。日本は縄文時代。もうどんな生活をしていたのかさえ想像できない。
何故人類は絶滅しているのか?
自分はどうやってここに来たのか?
そんなこと、もうどうでもよくないだろうか。
思えば桜は、いつか何とかすれば自分は日本に帰れると思っていたのかもしれない。そして日本に居ながらロータ・ロバリーとも行き来して、面倒事は多くとも面白おかしく人生を送れるのではないかと心のどこかで信じていたのだ。
零れたミルクはもう元には戻らないのだ。
仮に戻ったとして、人類は恐らく人類の起こした『事件』が原因で絶滅する。あと一万年少しで、桜の歩んだ人生も積み重ねた歴史も、仮に子孫を残したとしても、全て消えてなくなる。そんな世界で今更生きろと言われて、何を思って生きればいい。
桜は不死身ではない。普通に生きたとて100年にも満たない時間の間に死んで人生は終わる。それでも人は、自分の生が何か意味のあるものだと信じたいから考え、託し、重ねていく。
それが無意味だと言われ、神なき世を生きていけるほど、人の心は強くはない。
元の時代に戻り、自分で自分の頭から人類の未来を綺麗サッパリ術で切り取って、また死にもしなければ生きてもいない人生を続けたい。それは楽しい人生ではないだろうが、今よりましな気分で存在していられる。
でも、それすら最早空しい。
もう、何もかも手遅れなのだ。
地球は、地球人は、どこにも辿り着く事はなかった。
ゴールドが心配してきた時、俺は初めて親友に憎悪を感じた。
お前たちは、お前たちの文明はまだ先がある。魔物と争おうが何だろうが、生き延びて先に繋ぐことが出来る。厳しい道でも可能性は閉ざされていない。そんなロータ・ロバリー人に、地球人の最後の一人となった俺の気持ちなど分かってたまるか。
何で先に進む権利を持っているのはお前たちなんだ。
お前らが滅べよ。代わりに滅んで地球を生かせ。
不公平だ。俺は全部なくなって、お前らはまだ家族もいれば友達もいて、文化は発展して、ちゃっかり地球人の遺産の恩恵を受けてる連中までいる。
憎い、憎い、憎い、憎い。
同じくらい、醜い嫉妬を止められない自分が苦しい。
好意すら抱いていた筈のポニーにまでこの感情をぶつけようとしている自分の狭量さ、視野の狭さ、身勝手さが耐えがたく苦しい。自分という存在が世界で一番どうしようもなく邪悪に思える。
雪兎が隣にいるから辛うじて狂わずにいられるのに、それすらも、雪兎がいなければいっそ狂ってしまえたのにとどす黒い感情が腹の底に溜まっている。
胃液を吐き散らかしたい。
笑顔で出歩く親子を術で粉々にしたい。
この大地を焦土に変えたい。
死んでしまいたい。
「なんで」
気が付けば、雪兎と二人きりで歩く路地で、桜の口が開いていた。
「何で俺が、こんな目に……あわなきゃ、なんないのかなぁ……っ」
込み上げる感情を必死に抑え込んだ、途切れ途切れの声。
桜は歩く気力すら失ってその場に膝をつき、地面に倒れ込んだ。
地面に叩きつけられる直前、雪兎が慌てて俺を掴み、背後から今度は碧射手に渡した筈の白雪が術で桜を引っ張って転倒を防ぐ。
倒れてしまいたくても倒れさせてくれない優しさに、桜は行き場のない感情の捌け口を無くして泣いた。
「おぉ、あぁぁ……ひぐ、ぅああぁ……! あぁぁぁあああああーーーーッ!!」
涙も嗚咽も止まることはなかった。
次に気が付いたとき、桜は朝の木漏れ日が差す宿屋のベッドの上にいた。
寝転がっているベッドが安物の自室のベッドでないのが悔しくて、ベッドを何度も何度も殴り、そのまま再びベッドに倒れ込んで泣いた。
それから暫くして、桜はのそのそとベッドから降りて、顔を洗って着替えた。
鏡に映る死人のような酷い顔を見て、本当に自分はどうしようもない奴だと思って、後で雪兎と白雪、白雪をこっそり付けさせた碧射手に謝罪と感謝をしなければいけないと思い、また自分の嫉妬を思い出して吐き気を催す。
こんな愚図の愚かしい悩みに真剣に付き合ってくれる人がいるだろうか。
どうせロータ・ロバリーの人間には理解できない、この苦しみを。
「……俺のこの悩みを解決できる奴が、いるかよ」
それは、吐き捨てるような独り言だった。
『ユーザーの相談相手として最適な人物を検索――第一位適格者、ポニー』
「……このくそポンコツデバイス、今のは質問じゃねえって……」
『了解。このデータは以降のコミュニケートに反映します』
「……」
――わたしは桜さんにどんな過去があっても、貴方の担当冒険者です。
「……」
果たして縋りたかったのか、或いは失望されて切り捨てられたかったのか。
しかし、結果として桜はその道を選んだ。
「ポニー、相談がある」
――はい、いつでもいいですよ!
それは、大いなる運命の辿る道に介入する小さな蝶の羽ばたき。




