ある日、目が覚めて。そこに世界がある筈で。
意識が浮上する。
安っぽいベッドを軋ませて体を起こせば、薄いカーテンから漏れる朝日の木漏れ日が部屋を横断している。目覚ましが鳴るにはあと数分を要し、いつも寝巻きに使っているダサいポリウレタンのシャツとパンツはよれよれだ。
漠然と、ベッドから起きて壁のスイッチを押すと、チカチカと音を立てて最近調子の悪い蛍光灯の恩寵が部屋に降り注ぐ。テレビのリモコンを操れば、見覚えのあるようなないようなキャスターがつらつらと朝のニュースを読み上げていた。
内容は頭に入ってこない。
ただ、普段の生活の延長である実感が湧いた。
視界を横にずらすと、両親から仕送りされてきた段ボールが無造作に置かれている。仕事を失いふらふらとしていた事を思い出し、伝えるのが気まずいな、と思った。
仕事を辞めたのはいつだったろう。
もうずいぶん前のように思える。
ふと手が寂しくなり、条件反射のようにベッドの上のスマホを手に取った。
メッセージが一件。学校時代の友達からの、合コンの誘いだ。
嫌いな相手でもないし顔を見たいが、今は気まずくて会う気になれなかった。
ふと、音声機能にここはどこだ、と問う。
『ここは貴方の自宅です』
妙齢の女性を思わせる音声。続けざまに質問する。
『今は西暦2020年、7月3日です』
『質問の内容がうまく聞き取れませんでした』
『明日の〇〇市の天気は――』
そりゃそうだ、とスマホを置き、ベッドに倒れ込む。
スマホが何でもやってくれる魔法の道具になる?
馬鹿馬鹿しい。物理的に魔法なんて使えない。
ある日目が覚めたら異世界に?
そんな妄言を憧れと言えるほど現実に盲目じゃない。
現代の料理や芸が異世界ではバカウケ?
異世界には異世界の感覚や価値観があるのに、未開文明と勘違いしてないか。
これが現実だろう。
目が覚めれば夢も希望も大してないが、絶望という程でもない半端な世界が転がってて、そこを人はふらふらと歩き続ける。コンクリートジャングルと雑踏の孤独が群れを成す社会に生きる。政治を知らない人間が我が物顔で政治を語り、自分たちの文明が優れていると言い張りながら発展の努力を怠り、民心は娯楽よりサンドバッグを求める。
そんな現実でも、いいじゃないか。
身の丈にあった現実で、いいじゃないか。
朝ご飯を食べたい。
冷蔵庫に何もないからコンビニに行こう。
久しぶりにたまごサンドと、野菜ジュースがいいだろうか。
昼ごはんに肉うどんと鮭のおにぎりも買いたい。
俺は財布を持ってないと思いながら、それを意識せずに玄関を飛び出し――。
「桜……大丈夫?」
――また、意識が浮上する。
そこにはアルビノの少女が逆さまの顔で心配そうに俺を見下ろしている。
漫画かラノベから抜け出してきたような、俺の義娘が。
地下の部屋、カーテンで区切られた一角。
ベッドは質だけはよく、視界の端には狼の耳を生やした美女や鉱物のように固い女、外見と内部の体積が合わない男が気遣うような顔でこちらを見ていた。その奥にあるポットの培養液が、こぽりと気泡を吐き出した。
「受け入れたくない気持ちが強まり過ぎると、夢と現実って逆転するんだな」
「桜……まだ気分悪い?」
「ごめんな、お前の事調べてもらおうって話だったのにさ……」
「無理しないで、白狼女帝が明日でも明後日でもいいって言ってたから。今は寝ても大丈夫だから……」
「うん……すまない、少し横にならせてくれ」
カーテンが閉じ、無機質な天井と雪兎だけの空間になる。
俺は雪兎を抱き寄せる。
雪兎は抵抗することもなく俺に体を預けた。
柔らかく、細く暖かい体。
それがこの認識を現実のものだと告げる。
「一緒に寝れば、怖くないよ。私はずっと桜の傍にいるから。ね?」
今だけはそれを素直に喜べなくて――でも、他に縋るものもなかった。
= =
「作りかけの少女が衝撃だった……という風ではないの。我等の知り得ぬ何かに、恐らく気付いてしまったのだろう。弱ったな、この遺跡の真実を暴くのに適任かと欲を出して早く入れすぎたか?」
「今はそっとしておいてやろう。知らない事実を突きつけられた時、人には受け入れる時間が必要だ……」
少し頭を掻く白狼女帝に、重戦士はそう答えた。
「経験則ですねー?」
「ああ。お前は平気か、小麦?」
「ガゾムは下半身なくなっても普通に生きられますし治りますからねー……岩と泥を混ぜて欠損部分にくっつけると段々馴染んで元の形に戻るんです。ただし配合率間違えると体の色が変わっちゃいますけどね」
(((うわぁ)))
近衛たちと侍女がゲテモノを見る視線だ。
世界一雑な治療で体の治る、というか直る種族である。
「しかし、ここの設備で何をする気だったんだ?」
「言ったであろう、『げのむ』を調べると。この部屋では人をデザインし作るだけでなく、人を分析する装置も存在する。それを使って雪兎のデータを取り、それを別種族と比較することで種族を割り出すことが出来る」
「……すまん、想像がつかない」
桜ならば的確に理解できたのかもしれない、と思う。
つくづく、彼がダウンしたのは痛手だ。
ただ、白狼女帝はある程度システムに理解があるらしく、説明してくれた。
「簡単に言えば、この装置は辞書だ。雪兎というキーワードで検索をかけ、一致する意味を探せる」
「あれ? 他種族のデータまで入っているんですか? でもロバリーの人種は現在進行形で増殖を続けているのに、未発見種族だったらどうするんで?」
「可能性は低い。何故ならこの端末には、この星に存在するすべての生物の情報が入っているからだ。ここには未発見種族や確認されたばかりの種族さえ、データが入っている。魔将は流石にないが、魔物もだ」
「……何故、発見前のデータが入ってるんです? 原理的におかしいですよ。発見した種族のデータを片っ端から取ったなら分かりますが、未発見種族が……違う? 原理が逆……?」
小麦が顎に手を当て、考え込む。
「どういうことだ、小麦?」
「すべて逆だとしたら?」
小麦は真剣な眼差しで作りかけの少女を見た。
「発見してからデータを入れたなら辻褄は合いません。でも――『作られたからデータがある』んだとしたら?」
「――ここでか?」
「いえ、もっと大規模な施設だとは思います……重戦士さんは実感がないかもしれませんが、リメインズからは遥か遠く離れた場所に声を届ける技術が発見されています。桜さんに至っては無理やり空間を捻じ曲げて接続まで出来ます。なにもここじゃなくとも、もしリメインズの最下層とかそういったところに同じ事ができる設備があるとしたら?」
「魔物がそこで生成されているというのか!?」
重戦士が思わず声を荒げる。
魔物は人類が知る人間の歴史の中で潰えたことはない、常に存在する敵だ。それら全てが元を辿ればどこかで人工的に生み出されたなど、想像だにしなかった。
しかし、もしそうであるならば、と思う節もまたある。
「魔物は常に進化を続けている……ではその進化とは、人類と魔物の戦いを参考に改良しているということか? それは……だが、待て。では人類の未発見種はどうなる!? 魔物を作る者が人間を増やす意味とは何だ!?」
「それは……」
「妾には心当たりがあるがのぉ」
白狼女帝の言葉に、二人が振り返る。
「妾は氷国連合の外に出て退魔戦役で様々な種族が入り乱れる様を見て、疑問に思うた。何故人はこれほど多様化しておるのか? 何故短命の種族と長寿の種族がおるのか? しかし何より、数多の命が失われる魔物の侵攻の中にあって、妾は疑問に思うたのじゃ」
それはきっと、世界の誰もがまだ辿り着いていない思想。
「そも、人類退廃の戦が繰り返されれば、人種というものは『増える』のではなく『絶える』筈ではないのか? 何故、戦争が終わった後も……いや、終わってから更に人種は増殖を続けておるのか? そして異種族間に子は産まれぬのに、我等人類はどんなに外見が違えど愛し合えば必ず子を為すことが可能なのはどうしてじゃ?」
気付いてしまえば至極単純で、単純すぎて見え辛い、真実。
「我らの始祖は、作られたのではないか? この水槽の中で命を得んとする子の如く、そして、魔物という憎むべき兄弟の隣で」
全ては、実験場のシャーレの上で。
顔の見えない何者かが、誰も知らない目的を掲げて。
積み重なる歪な生と死の螺旋を動力に、ロータ・ロバリーは今日も廻り続ける。




