マ モ ル
崩れ落ちる。
『お前は――重戦士とでも名乗ったらどうだ』
崩れ落ちる。
『自分が何者か分からないんなら、自分を探してみたらどうですか?』
崩れ落ちる。
『鉄血、なのですね……!! 本当に!!』
崩れ落ち、沈んでいく。
俺が俺であるという記憶がパズルのように崩れ落ちていく。
拾おうと手を伸ばすのに、パズルのピースは血溜まりにずぶずぶと沈んでいき、必死に掴もうともがくうちに手は血でべったりと染まっていた。
これは、俺の手に血が付着しているのか?
それとも俺の手などというものはなく、血が手の形になっているだけか?
分からない。何も。分かっていた筈の事さえ零れ落ちていく。
血溜まりの奥に、人型。
その声は確かに、古傷のもの。
「お前は自分が何者か聞いたな。それが答えだ。お前は、何者でもないんだよ」
「ち、違う……俺は、重戦士……」
「鉄血って周りに呼ばれてなかったか?」
「鉄血……俺の記憶は、鉄血の……」
「ネイアンは、吸い取った血から相手の記憶を覗くことが出来た。鉄血の血を吸い尽くしたことで断片的に鉄血の要素を取り込んだんだろう。なぁ、新たなネイアン」
「ネイアン……違う、でも、俺は……」
銀刀と初めて出会った日の夜、俺は「確かめる」という言葉と共に彼の刃で首を削ぎ落され、意識が飛んだ。しかし目が覚めれば首は何事もなかったかのように繋がり、俺は生きていた。
自分の体は根本的に何かおかしいのだと実感したのは、その時だった。
答えは簡単。元々は形のない魔物だから、だ。
「ならお前は、なぜ俺を拾ったんだ!!」
「化け物だとは思ってたが、隊長の面影があり過ぎた。俺が一番尊敬した人間だぞ。どうするにしても、他の誰かに任せられるかよ」
「どうして何も言ってくれなかったッ!! そこまで知っていたんなら!!」
「お前が自分の存在に疑問を抱かず生きていくなら、それでいいと思った。知ってどうする? 現に今、お前は自分を誰と定義することも出来なくなっている」
「俺? オレ……おれ……自分……個、体……」
思考が蚕食され、希釈されていく。
自分が自分であるという意識の喪失。
探していた自分が存在しないという事実が心の壁を砕き、意識と無意識が混在していく。気が付けば俺の全身から傷もないのに血が流れ落ちていた。この血は現実か、幻かさえ判断もつかぬまま。
「俺は迷った。お前が事実を知れば何が起きるか分からんが、お前を突き放すことも出来ない。だから考えて、考えて、考え抜いた末に――俺はお前を殺すと決めた」
視線の先に、血と見分けのつかない赤黒い刀身が見えた。
「呪剣イータ……成程、見つからないのは貴様が回収していたからか」
姿が見えない、銀刀の声。
銀刀の声を、聞いたことがある。
今か、或いは遠い昔か、判別がつかない。
「あの戦いで砕けた。だから打ち直した。いつかこの日が来るであろうと思って、一人で神秘術の教本と睨めっこして、鍛冶を始めてから延々と修復した」
やがて、女性の声。
――何を馬鹿な事を言っているんですか!?
――重戦士さんを殺すなんて、どこにそんな理由があるんです!?
――古傷さんは、重戦士さんを応援してたじゃないですか!!
誰の声だったか。いつの声だったか。
そもそも、知っている声なのか、分からない。
これは本当に連続した会話なのだろうか。
古傷が冷酷なまでの無表情でその声を突っぱねる。
「では、どうする。こいつは鉄血の心を受け継いでいるとは感じたが、それでも魔物だ。それも魔将だ。これまで上手く誤魔化してきたようだが、異端宗派も魔将も活発化してきた今、どこまで周囲に知られず生きていけるか分からん。俺達がよくてもギルドは、各国は、決してその存在を許そうとはしないだろう」
「……そもそも、こいつがいつまでこいつでいられるのか。魔将である以上、その命は永遠に近しい。周囲は全員先に年老いて死んでいく。今は良くともこれから先、コイツが人間の精神性を持って人間社会を生きていけるのか?」
――ッ、それでも、ここで殺すだなんてことを認める訳にはいきません!
――私は受付嬢です!! 彼の担当受付嬢なんです!!
――それに、約束しました!!
約束。
ヤクソク。
や、く、そ、く?
『あ――』
血に沈んだ手が何かを掴み、掬い上げる。
生 き て 帰 っ て き て 。
戻 っ て き ま す よ ね ?
捩じれ曲がり、薄れていく自意識の中で、その言葉は、その約束は、決して自分が手放してはいけないものなのだと――それだけは確信が出来る。
彼女を守らなければ。
彼女が向かいあっているのは誰だ。
誰でもいい、今度こそ守るんだ。
今度とはいつだ、今か昔か、或いはまだ知らないのか。
ヤクソク た相手ノ さエ掠れテ行 中で。
そ も、俺 彼女 守る。
ま も る。
「うぅぅぅああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」
―― マ モ ル 。
銀刀が気付いた時には、それは、音もなく周囲全体に広がっていた。
古傷はそれに気付いて剣を振り翳した。
ポニーはそんなことは気付きもせず、ただ古傷と重戦士の間に割り込んだ。
結論から言えば、全ては手遅れであり、発生する事象は回避不可避。
嘗て明瞭に人間の形状をしていた重戦士は、服や鎧さえもどろどろの真っ赤な血となって崩れ去り、次の瞬間、大地に広がった血からポニー以外の全てを殺傷せしめん巨大な刃が夥しい物量となって噴出した。
銀刀はそれを飛び上がって回避した。
古傷は刃の中に呑まれ、姿が見えなくなった。
そしてポニーは――。
『マモル……マモル……マモル、マモルゥゥゥ……!!』
何が起きたのか理解する暇もなく、血の海の中にどぷん、と沈んだ。
「成程な……確定した事象ってのは、こういうことか。鉄血のアイデンティティの喪失と、それに伴う『ネイアン』の変生体としての覚醒……しかし、希望は潰えずという訳だ」
腰に差した銀色の刀を指で触った銀刀は、その直後に爆発的に広がる膨大な血液の濁流を竜巻すら消し飛ぶ風の神秘術によって押さえつけた。恐らくは超古代迷宮という殺戮の空間に長く居すぎたのだろう、冗談のように膨れ上がる血液の塊は、戦艦を凌駕する質量となって尚膨張を続けている。
下を見れば異変を察知した連中が集まったり、非戦闘員を守るために桜と翠魔女が結界を張り直したり慌てふためいている。
「ポニーは取り込まれたが、感知した限りでは体に異常はない。文字通り守られているか。そしてネイアンの特性、発生事由、ポニーがいる意味……」
凡その事態とこれからすべき行動を一通り理解した銀刀は、風による閉じ込めさえ強引に突き破ろうとする剣と血の集合体を押さえながら下の連中に合流する。
「全く……つい懐かしさに鉄血鉄血と呼んだ俺もバカだったかもしれんな。数学賢者に子供扱いされ、よく鉄血の奴に何か言い返せと視線で促したもんだ……」
嘗ての旧友が正しい意味でもうどこにもいないことを今更噛み締めながら、銀刀は最善の行動をとる。どちらにしろ、目指す場所に変化などないのだから。




