138.女神の涙
全てが終わったあと、まず桜がしたのは娘たちの涙を受け止めることだった。
雪兎は、まるで桜から手を放せば何もかもを失ってしまうかのように懸命に抱き着いて離れなかった。完全に桜を失ったと思った彼女の心の傷は途方もなく大きく、口を開けば「ごめんなさい」と「もういなくならないで」ばかり。
その姿は、皆の記憶の中にあるどの雪兎より懸命で感情的だった。
女神として永遠の世界を築こうとした面影はどこにもなく、そこにはただ親に無償の愛を求めて縋りつく幼子がいるだけだった。
雪兎がまた以前のように笑うまでには、もっと沢山の時間が必要だ。桜は彼女を寝かしつけ、背中に背負い直し、そしてもう一人の娘と向かい合うことにした。
「おと……ユーザー」
無表情。
しかし、その裏に溢れ出る感情を抑え込んだ顔。
アイドル――天の川が遺した最後の子供。
天の川は最後の最後に辿り着いた惑星で唯一の会話相手だった補助システムのハイメレを、心のどこかで我が子のように思っていたのかもしれない。だから、これほどまでに人に近い姿のバックアップユニットを残したのだろう。彼女を見れば見る程、あのどこかズレた大天才がどれほど端正にユニットを設計したか想像できる。
厳密には、ここにいる桜は天の川の伴侶として過ごした桜ではない。もう一人の桜としてその道を辿ったが、自分で選んだ訳ではない。それでも彼女の事はずっと放っておけなかったし、勝手ながら娘だと思っている。
「どうした、アイドル?」
「私は……私には、この星の管理者たりうる適性がありません」
「そうなのか」
「私は人類がより正しき道を辿れるようその道を補助する装置。その為に現人類に過度な干渉はするべきではない。危険な要因は排除しなければいけない。ハイ・アイテールの暴挙を、この身に変えても防がなければいけない。それが私の存在意義です」
それは端的な事実だ。
彼女はこれまでそうしてきたし、きっと雪兎相手に本気で自爆する気だったに違いない。桜は自分が消えた後にアイドルが自爆していないと聞いて心底ほっとした。
しかし、それは同時に彼女が使命を果たせなかったことを意味する。
「私は雪兎をもっと早く排除しなければいけなかった。ユーザーが有無を言う前にそれを成すべきだった。ユーザーが消えた後、隙だらけだった雪兎と共に神秘の光と消えるべきだった。雪兎の力が暴走を開始したあの瞬間、最後の抵抗にそうすべきだった。何度も、何度も、その機会はあった。なのに私は、できなかった。私は壊れています。私は欠陥品です。女神と呼ばれる資格も、魔将に母と呼ばれる資格も、ユーザーを守る資格もありません。人類を導く為の適格も失われました。私は――」
「アイドル……」
「わたしは、わたしは、わたしはわたしはわたしはわたしは――」
「アイドル、おいで」
「いやです、ユーザー。触らないで。優しくしないで……」
彼女の背中に手を回すと、アイドルはその手を押しのけようとした。しかし、常人を遥かに凌駕する膂力を秘めている筈の彼女の抵抗は、子供のそれと同等に弱々しい。押しのけようとした彼女の手から、震えが伝わって来た。
「だって――メインユニットに居た頃は何の躊躇いもなく、判断基準と使命に従って自爆が出来たんです。今回のこの躯体だって、簡易化したものながらバックアップデータは用意してあった。同じように、躊躇いなく出来た筈なんです。なのに……なのに……っ!!」
アイドルの表情が歪み、込み上げる感情を堪えるように歯を食いしばる。しかし、彼女の完全に制御されている筈の躯体は、涙をそれ以上塞き止めなかった。
「この躯体で経験した僅かな世界との触れ合いが、子供たちとの会話が、目の前で生きる人々の記録が、星の見せる景色がっ、ユーザーと共に食卓を囲んだ経験が――それが、自爆したら、もう主観的事実として認識できなくなると気付いた……私はぁ……っ」
アイドルの小さな手が、桜に縋りつく。
「怖かった……怖かったよぉっ!! 死ぬってそういうことなんだって、怖くなって死ねなかったよぉっ!! うぅ、あぁぁ、うああぁぁぁぁぁーーーっ!!」
アイドルの感情の堰は、完全に決壊した。
彼女は己の判断が唾棄すべき失態であったかのように語る。
だが、誰がそれを責められようかと桜は思う。
「……いいんだよアイドル。それでいいんだ」
「よくっ、ないっ!! こんな、おかしいです!! もしユーザーが戻ってこなかったら、星は……世界は、人は、子供たちはっ!! なのに私は自分のことなんか考えて、替えの利く自分に拘って!! 判断を、女神のぉ!!」
「怖くて当たり前なんだよアイドル。誰しもがそうだ。お前の娘の流体だって死ぬのが怖くて判断を間違えたって言ってたぞ。お前、それを責めるか?」
「そんな筈ありませんっ!! 人造生命であろうと道具のように死んでいい訳じゃありませんっ!!」
「じゃあ、なんで自分にはそれは当てはめられない?」
「私は装置です!! 決められた役割を全うする為の機械です!! 生命ではない、人ではない!!」
「いいや人だ。女神失格、管理者失格。だったら俺の娘だ。娘は、生命だ」
「論理的正当性がっ、発見できない理論ですっ!!」
アイドルは否定する――己が個人であることを。
しかし、俺にとっても周囲にとっても、アイドルはとうの昔に個人だった。認めていないのは彼女本人だけだ。
桜は泣きじゃくるアイドルを、ただただ抱きしめ続けた。
「誰もお前のことを嫌いになったりしてないよ」
「嘘です……! こんなに……情けないのに、失望されない訳がないっ!」
「俺は気にしない。戦いに参加した皆も気にしちゃいないさ。嘘だと思うならポニーにでも聞いてみろ」
「公平性に欠く、人選ですっ!」
「じゃあ誰ならいい? ゴールドか? 赤槍士か? 大砲王にでも聞いてみるか? アイドルを知ってる人は、誰も死を恐れた君を蔑んだりしない。何故なら、自分たちもそうだから……同じようにみんな生きてるからだっ」
「……きらいです、ユーザー! いけないことをしたのに、唾棄すべき愚行をしたのにっ、ユーザーは私を誑かしてぇっ……うっ、ぅえぇぇ……っ!!」
桜はただひたすら、雪兎とアイドルの涙で服がずぶ濡れになるまで二人を受け止め続けた。二人とも犯した過ちと心の傷が深く、以前のような姿に戻るには少々の時間を有するだろう。
そんな風に考えていた桜は、ふと、自分の身体が段々と傾いていくことに気付く。暫く不思議に思っていたが、やがて桜は何故こうなっているのかに気付いた。
(ああ……そういや、俺も……割と、限界だった、な――)
雪兎がいなくなる前から無茶な精神抑制を繰り返し、人一人分の長さには長すぎる記録の上書きを手伝わされ、因果地平の彼方からここに戻ってくるまで極限まで神経を擦り減らせた桜の心の疲労が、肉体に影響を及ぼした。
「おとう、さん……?」
「おと……ユーザー!」
「ごめん、ちょっと……寝る……」
桜はせめて二人を巻き込まないよう体の向きをずらしつつ、ぱたり、と床に倒れた。遠くに愛娘たちの慌てふためく声を聞きながら。
――桜は、暫く養生することになった。
雪兎とアイドルは、疲れ切った俺を甲斐甲斐しく世話してくれた。彼女たちにとってそれは贖罪であり、愛であり、そして人の命の重みを再確認する経験となったようだった。
更に碧射手や復活した白雪(白雪も消耗が激しかったのか、生まれた当時のミニサイズになっている)、そして雪兎の補助としてタレ耳も桜の養生に付き合った。他の皆もちょこちょこ見舞いに来てくれた。
ただ、その際にゴールドに「気に入った女の子を侍らせるロリコンの金持ちみたい」と、そしてポニーに「一日そこを退いて私と代わって下さい」と言われたことだけは、やけに桜の耳に残っている言葉である。
養生はおよそ一か月続き、その間に世界は桜たちを置き去りに動く。
まず、西大陸からは魔物の数が激減した。
これによって日雇い冒険者たちの大半が職に困り、ギルドは慌てて『崩壊した歴王国の復興支援』という名目で彼らに労働を提供している。ただ、これは一時的なものになるだろう。というのも、女神大戦でありったけの魔物を連れ出し、それが犠牲になったのが魔物激減の理由だからだ。
いくら魔物が半ば必要悪だとしても、流石に当分地上の魔物を増やすことはないだろう。女神大戦による社会混乱は相当なもので、今でも世界中で情報が錯綜したり、デマの拡散やどさくさにまぎれた新興宗教や詐欺組織の活発化が確認されている。社会秩序たるギルドの頑張りどころだろう。
特に戦場の中心となった場所では大地が山ごと抉れ、落ちたら助からない奈落のような地割れが発生している。これについては全面立ち入り禁止にすると同時に、アイドル陣営がこっそり修復中だそうだ。異空間に切り取った膨大な瓦礫を少しずつ大地に戻し馴染ませるこの作業は、早くとも大方の地盤が安定するまで100年はかかる大工事になるという。
戦いに参加した人々もそれぞれの道を歩み出し、増えた顔もあれば減った顔もある。一つだけ確かなのは、皆が皆、思い思いの未来を描いて前へ進みだしたということだろう。
桜も、そろそろ歩みを再開しなければいけないと思う。
「無職の父親は流石になぁ……」
庶民的なプライドを持ち出してため息をつく自分が、やっと日常に戻って来たことを実感させた。




