132.彼方からの呼び声
全ての始まり、ロータ・ロバリー転移。
それはハイ・アイテール――すなわち雪兎の侵略行為の最初の一手だと、桜達は思い込んでいた。全てを招いたのはあの子なのだと。桜自身はそのことを責める気はなかったが、他の全員がそうではないだろう。
しかし、事実はもっと奇なるものだった。
『俺は……相転移弾を受けた後、ここに辿り着いた……唯の人間であれば今頃既に、エインフィレモスの言う『クラゲの死骸』にでも、なっていたところだろうな……』
「肉体は……ないのか」
当人の言う通り、光の塊は風が吹けばゆっくりと砂のように崩壊しそうな不安定さを感じさせる。遥かなる時空の彼方に居続けるとはこういうことなのだ、と桜は実感する。
『元が、肉の身体では……ない。だからこそ、形を失っても、今まで自我を残せた。少しだけ……運命に干渉することも出来た。俺の話……聞いてくれ。そこに、俺の知りたい真実もある』
そこから始まったのは、長い、長い独白だった。
こちらの世界に流れ着いた俺は、すぐに形を失い始めた。
だから、最大の気がかりである雪兎のことだけを考えて、記憶と自我を補強した。天の川のことも心配だったけど、襲撃者は元々抵抗さえしなければ俺達を殺す気はなかった。それに、遅かれ早かれあんな動きがあればキャプテン――軍の俺の友達が動く。
雪兎は天の川にとっても最後の希望だった。
雪兎を失った天の川がどんな気持ちになるか、考えたくもなかった。
だが、因果地平の彼方から世界を観測するのは困難を極めた。
文字通り気が遠くなるほどの精神時間を経てやっと地球の雪兎の無事を確認できた頃には、誤差でとんでもない時間が経過した後だった。
あの子は、そんなにも長い間、泣いていた。
人として育てた精神性まで退行していた。
救うしかないと思った。
だが、俺は彼女に干渉できなかった。
その時代に向かう身体が既にないのでは意味がない。
ならば過去を改変しようと思ったが、それも上手く行かなかった。
タイムパラドックス……同じ存在は同じ時代にいられない。
この運命は余りにも強く、修正力も強大だった。
でも、抜け道があったんだ。
俺はハイ・アイテール生成実験によって人としての肉体を失った。
失った後の俺と失った前の俺は、精神的には同一人物だが肉体的には別のモノだ。そこに、パラドックスの目を欺く隙間が残っていた。
ただ、過去を変えることは出来なかった。
隙間に介入する方法がなかったからだ。
因果地平の彼方はどうやら『縦軸』の世界であり、『横軸』――つまり平行世界への分岐を可能とする世界ではなかった。雪兎が未来の地球で泣く光景を観測した時点で、そこに至るまでの運命に決定力が生じた。
俺がそれを観測した以上、そこまでの運命は変えられない。
だが、世界の曖昧さはそこから先の運命を明言しない。
未来を変えることだけは、理論上可能だった。
雪兎を辿った時の反省を踏まえて、俺は現在から過去へと手がかりになる情報を調べた。そして天の川がロータ・ロバリーに新人類を誕生させたことや、多くの布石を残して逝ったことを知った。唯でさえ身を擦り減らす観測なのに、その事実を知った時は……いや、これは感傷だな。キャプテンも後悔はなかったろうよ。
俺は、二つの策を考えた。
一つは雪兎を助ける術。
もう一つは、タイムパラドックスを、世界を騙す術。
もう分かるだろう。
雪兎を助ける為に、俺は過去の何も知らない俺をロータ・ロバリーに送り込んだ。
恨んでるか?
恨みとまではいかずとも、お小言くらいは言いたいか。
別に恨み嫌ってくれていい。
俺は分不相応な望みでアイテールを生み出し、結果的に人類を滅ぼした大罪人だ。むしろ気が楽になるなら幾らでも恨め。俺とお前は同じかもしれんが、やらかしたのは俺だ。俺が選んだ結末だ。お前は別の道を歩めるんだから、もう別人だ。
……え? 娘は渡さない?
ちゃんと親権移譲してけ?
……久々にジョークを耳にしたよ。
え、ジョークじゃない?
まぁ、俺は託すしかないからな。
話を続けよう。俺が俺で居られる時間も少なくなってきた。
この世界は『縦軸』の世界だ。
過去の俺が消えれば、そこから現在までの世界に矛盾が生じ、消失そのものが修正されて未来転移は無効になる。そうなるともう手詰まりだ。だが俺はその問題を解決する手段も情報も持たなかった。
そんな時だ。時空を超えてエインフィレモスが接触してきたのは。
彼は未来を見通す存在だった。俺は過去ならいくらでも遡れるが、未来を変えたいのに未来を観測できないジレンマを抱えていた。エインフィレモスはそこに足りないピースを持ち込んでくれた。
彼の齎した情報により、俺は未来転移が矛盾なく成立する確信を得た。
なぜなら、因果地平の彼方は運命の手が届かない場所。
俺が二人存在できるここからであれば、未来に指向性を持たせられる。
桜。きみは傍から過去の物語を眺めていたのではない。
俺とエインフィレモスの助力で、君は実際に過去の世界で俺になりきって歴史を辿ったんだ。姿かたち、精神は今の桜のまま、完璧に過去の俺を再現したアバターの中で君は俺の最後までの道を辿った。魂の欠けたアバターに魂を入れることで矛盾の矛先は消える。
今の君は、俺の経験を吸った君だ。
尤も、俺と君は元はと言えば同一の存在。
無意識下に俺の心理と君の心理が同調した部分もあったかもしれない。
それについては俺にもどうしようもないことなので勘弁してくれ。
悪くはなかったろ? 子供を持つ喜びはさ。
さあ、桜。
過ちを犯した俺を知った、未だ過ちのない男よ。
君は何も躊躇う必要はない。
タイムパラドックスは補完された。
世界にはもう矛盾はない。
あとは君が戻るだけだ。
雪兎は二度の喪失を味わい、世界や人間の可能性や希望を信じられなくなってしまっている。君のそばで人間を再び学習したようだが、まだ足りない。
ロータ・ロバリーで彼女にもっとも長く無償の愛を注いだ、俺の目の前にいる君にしか出来ないことだ、桜。
それに白雪、君にも頼みたい。
確定しない未来の為に、俺とエインフィレモスとで出来る限りのことはした。
俺の娘と、そしてもう一人。
俺の妻が遺したあの子も救ってあげてくれ。
それが、俺の、最期の――嗚呼……天の川、俺……出来ること、やれた……よ……な……。
全てを語り終えた光は、桜が何かを言う前に桜花の如く舞い散っていく。
マーブル模様が無限に広がる因果地平の彼方を、風花が舞った。
桜が翳した手に触れた桜の花びらは、静かにアイテールへと解けていく。
彼に未練はない。
桜が絶対に成功すると勝手に確信して、そして口では妻へ、心中では雪兎への愛を囁いて因果地平の彼方から消失した。そういうことを考える奴だと確信できる。何故なら、桜はもう一人の彼となったからだ。
「……やりたい放題やって、言いたい放題言って、勝手に逝きやがった」
「そうっきゅね。でも、父親だったっきゅ」
「腹立つなぁ。俺の癖に……かっこつけすぎなんだよ」
桜の瞳から零れ落ちる涙を揶揄う者は、この場にはいなかった。
= =
全ての準備は整った。
行きはよいよい帰りは怖いとはよく言ったものだ、と桜は思う。
『稀人よ。ここから先は、ひたすらに気の遠くなるような宇宙の記憶から帰るべき場所を辿るだけです。それだけが、果てしない苦行となるでしょう。ガイドは数列でつけましたが、経過する精神時間だけはどうにもならない。しかし、悲観しないでください。きっと貴方を呼ぶ声が道を助けてくれます』
「ああ。じゃ、先に行くよ白雪。お前は俺より存在を保ちやすいらしいから大丈夫だと思うが、碧射手を泣かせるようなことはすんなよ? お前が戻ってこないと雪兎も悲しむ」
白雪のふさふさの頭髪を撫でると、白雪は心地よさげに目を細めた。
可愛い人工生物だ。
それとも聡い人工生物なのか。
一通り桜の手を堪能した白雪は、優しく桜の手を押す。
「一番いいタイミングで戻ってあげるから楽しみに待っておくっきゅ」
「ああ。それじゃ、行ってくる」
エインフィレモスと白雪の姿が急速に縮んでいく。実際には遠のいているのだが、僅か数秒でのその姿は見えなくなった。何も起きていないようで、桜は今、時空の流れを激しく移動している。
声はない。
音もない。
暇つぶしは多少持ってきたが、さていつまで保つのか。
――。
――。
持ってきた地球の音楽を全部聞き尽くした気がするが、ゴールは見えない。
眠気は来ないが眠ることの出来ないこの世界の辛さを、少し実感する。
――。
――。
地球に残ったあらゆる物語を読破した気がするが、ゴールは見えない。
いや、殆ど内容を思い出せないので実は読んでいないのかもしれない。
しかし、再度読み返すと、不思議と何度も読んでいる気がした。
――。
――。
あらゆる映像、あらゆる記録、あらゆる娯楽に関心が薄れてきた。
こうなると、もう暇つぶしの意味がない。
過去を思い出すことにする。
くだらない些細な思い出が、いやに愛おしくなった。
――。
――。
出鱈目に叫び散らした。
普段絶対口にしない言葉を思いつく限りに言い続けた。
しかし山ならぬ世界に山彦はなく、声は響くことなく消えていく。
返事が聞こえた気がしたが、記憶を確認したら気のせいだった。
苛立ちから自傷行為を暫く繰り返し、流れる血に安堵を覚える。
しかし、次からはやめておこう。エネルギーの無駄だ。
――。
――。
誰でもいい、誰かに会いたい。
引き返したい。戻って白雪でもエインフィレモスでもいいからこの目で見たい。
道を間違えたんじゃないだろうか。
もう、手遅れなんじゃないだろうか。
自分は文字通り永遠にここを彷徨い続けるのではないだろうか。
確認できないという事実に、何度でも打ちひしがれては精神抑制を繰り返した。
――。
――。
意識が、あったのだろうか。
それともなかったのだろうか。
イヤリングから伝わるバックアップが機能して記憶が戻るが、その記憶が他人事のように感じられ始めた。
ああ、このまま続けていれば、自分は自分の姿と記憶を保った別人になるな、と思った。
今、知り合いに声をかけられても反応できそうにない。
その人物が自分の知り合いだと実感するのに、時間がかかるだろう。
――。
――?
聞 ら てく い
何かが、聞こえた気がする。
ここまでの旅路になかったことだ、と他人事のように思う。
さ……! こち……アラ……願いま……さく……!!
次第にそれは、言葉であることが認識できるレベルになってきた。
どこから聞こえ、誰に話しかけている何なのだろう。
次第に声は増え、沢山の声が響く。
とても熱のある声だが、誰の声なのか思い出せない。
そもそも、自分は何故こんな空間を漂っていたのか。
記憶のバックアップの精神に乖離が生まれ始める中、しかし、行き先だけはなんとか思い出す。
俺は、俺の娘を助けなければならない。
何を忘れても、それを忘れる訳にはいかない。
例え、他の全てを忘れても――。
……桜さんっ!! いい加減に返事しないと午前のカウンター業務終わりますよ!!




