114.正義の鉄拳
いつも正義正義と笑う、不気味なまでに明るい男。
なんでもかんでも正義に例え、不思議と悪という言葉をそれほど使わない。
そんな聖騎士が、怒りの余り眉間に深い皺が寄るほどの憤怒の形相を見せるのは、少なくとも銛漁師の経験上では初めてのことだった。
「どうしてだッ!! どうしてぇッ!!」
『来ましたね! 迎撃を――うッ!?』
聖騎士の拳の周囲に物質化する程に濃密なアイテールが纏わりつき、まるで巨人の拳のような破砕力が容赦なくヘイムダールを殴る。その力はヘイムダールの防御力を貫通し、初めて機体の装甲がひしゃげる。
聖騎士はそれでも止まらず、拳、足、膝、裏拳と連撃を叩き込む。
その顔にあるのは、怒りと哀しみだった。
「都合が悪いからって、一度過ちを口にしたからって、人の心をどうして消せるッ!! これでは別人ではないかッ!! これではもはやあの男の魂の叫びを聞けないではないかッ!! これでは、これでは……殺して片を付けた事と何が違うッ!?」
『何を訳の分からないことをッ!! 理由なんて、今なら納得できませんが理解なら出来ますよ!! 自分に価値がないという自己評価の低さから目を逸らす為の――!!』
「それをお前が簡単に言えるのは、お前が別人だからだッ!! 先ほどまでのあの男はきっと自分でも自分の本質を口に出せない、そういう男だったッ!!」
『何がそれほど貴方を怒らせるのですか!? 会話が通じるようになり、平均的な感覚を持ち、論理的に説明できるようになったじゃないですか!! それとも変化する前の私が良かったというのですか!?』
当たり屋の言わんとすることは、銛漁師にも理解は出来る。
確かに少し前の当たり屋は、とてもではないがこの世にとって害悪な存在にしか見えなかった。しかし、これは。ハイ・アイテールとは、一度自らが祝福した人間の人格をこうも容易く書き換えるのか。例えば自分であれば、今の自分と言うパーソナリティを一瞬で別の情報に書き換え、社交的な人間にしてしまえるということだ。
銛漁師はその意味が分かる。
女神と呼んだアイドルは、自分を捨てたいと願う人にそれを施していた。彼らは自分は『そう』であったという苦から解放されたかった――自分という存在を一度殺してほしいと懇願するような目に遭ってきたからこそ、アイドルは慈悲を以てそれを行ってきた。
今のこれは、違う。
完成した絵を見て、気に入らないからと上から別の絵の具で無理やり違う絵に描き替えたのだ。それを完成させた人間の想いも、その絵に価値を見出した人間の想いも土足で踏みにじって、取り返しのつかないことをしたのだ。
もう、表面の絵の具を剥がしても元の綺麗な絵には戻らないのに。
そのことに、ひどく無頓着で無理解なまま。
故に、聖騎士は怒っているのだ。
正義の怒りなのか、唯の怒りなのかは分からない。
ただ、銛漁師は彼の瞳から零れ落ちた雫が瞬いたのを、確かに見た。
当たり屋――だった男は、ヘイムダールを操って抵抗を試みながら、理解できないとばかりに叫ぶ。
『これから何人もの人々に寄生し、不快な気分をばらまき、矯正が決して不可能だった人格が善良な存在に替わった!! これは人間の社会にとって正しいことですッ!! 正の出来事です!! 私はもうナネムの民に謂れのない暴言を吐くことはなく、止める側になる!! 良いことでしょう!? 女神の正義が示されたではないですか!!』
「そうだ!! そうだろうとも!! しかし、しかしお前になる前のお前は――俺という正義に助けを求めていたんだッ!! その始まりを雪兎とやらは捻りつぶしたッ!!」
涙と怒りを振り撒く聖騎士の両拳を幾重もの光の輪が覆い、その輪を中心に膨大な密度の神秘数列が回転し、周囲の物質を根こそぎ取り込みながら収束する。莫大な地が重なり、地と地の相乗、加重属性へと変貌する。
それは、ハイ・アイテールの支配すら破壊し、正義を貫き通す力の顕現。
更に拳は偏在し、虚空から無数の拳が同時に出現した。
回避不可能、防御不可能。
下されるは哀しみを湛えた正義の鉄拳。
「お前の誕生を俺は否定しないッ!! だが、雪兎……これ以上彼に何かするのなら、そこから出ていけッ!! ジャスティスぅ……パニッシャァァァァァァーーーーーーッッ!!!」
殴打。
殴打、殴打、殴打の嵐。
絶えることなく、止まることのない魂の拳が容赦なくヘイムダールに降り注ぎ、砲台が吹き飛び、マニュピレータがバラバラに撒き散らされ、膝の関節が反対方向に曲がる。白狼女帝の氷を溶かした超高熱をも纏っているが、それすらも聖騎士の拳の前には無力だった。完成された人造巨人の造形が、拳の形に砕けてスクラップへと変貌させていく。
「絶対輝光ッ!! 俺の正義を受け取れぇぇぇぇーーーーーッッ!!!」
最後の一撃を振り抜いた瞬間、空間が爆ぜて閃光がヘイムダールを貫通した。
ヘイムダールの防御機構を貫いて尚余りあるその衝撃は、閉ざされた部屋の奥の壁を抉り抜いて扉を粉微塵に粉砕した。
割れ、ひしゃげ、めくれ、破壊され尽くした壁の先に横たわるヘイムダールは、聖騎士の猛撃によって無残な形状に成り果てた。しかし、聖騎士の手心によってコクピットだけはその形状をほぼ留めていた。最早何の戦力にもならない鉄の塊――本来のヘイムダールに搭載されたナノマシンによる自己再生機能でも、これほどまでに破損すれば動けるようになるまで半日は掛かる。
だが、地球アイテールを込められたヘイムダールがそのまま黙っている筈もなく、次の瞬間には捩じれた装甲が異音を立てて巻き戻し映像のように復元し始め、機体の駆動音が獣の咆哮の如く響く。
そして、地球アイテールの存在を認識していた聖騎士と銛漁師がそれを黙って見過ごす筈もない。
「ストリーム・リッパーッ!!」
傍観者に徹していた銛漁師の『ポセイドルの渦鉾』から超圧縮された水が無数に発射される。それまでならば易々とダメージの通るものではないが、一度防御機構が完全に破壊され再生中の今ならば素材以上の強度を発揮できない。水の刃は瞬く間にヘイムダールの四肢を削ぎ落した。
その水の刃の隙間を駆け抜ける、光を纏った鎧。
「巨体を破壊できずとも、中身はッ!!」
掌を開いて突き出す態勢のまま一気にコクピット零距離にまで到達した聖騎士は、そのまま装甲を貫いて中から当たり屋を引っ張り出し、即座に神秘を流し込んで地球アイテールを排除して、意識を飛ばすと間髪入れず転送する。
操縦者を失ったヘイムダールは起動停止に陥り――しかし、がくがく振動しながら即座に動き出す。
『カ、エ、シ、テ――カ、ゾ、クゥゥゥ!』
「こやつめ、まだ動くか!?」
ヘイムダールの切り落とされた腕が浮かび上がり、コクピットを抉ったばかりの聖騎士に向けて凶爪を振り翳す。だが、爪が到達するより早く、ヘイムダールの全身を神秘の淡い光を放つ水が覆った。
「遅いッ!! 浄化されなさいッ!!」
銛漁師が先ほどの水を媒介に更に発動させた拘束の神秘術だ。
彼女はそのまま鉾を水に突き刺し、荒れ狂うアイテールの波濤が地球アイテールを強制的にヘイムダールから排除する。一瞬はそれに抵抗した地球アイテールだが、銛漁師が出力を上げた瞬間に虚しく消し飛んだ。
『カ、エ、シテ……カ、ヱ……シ……』
雪兎操る地球アイテールは一度侵蝕した存在にしつこく寄生するのは得意でも、何らかの手段で排除されてしまえば二度と復活することはない。ハイ・アイテールに再度の侵食を受けるまで、ヘイムダールは今度こそ唯の鉄屑だ。
役割を終えた膨大な水がヘイムダールの残骸と共に雨のように降り注ぎ、古の巨人はそれ以上動くことも、喋ることもなかった。オペレートしていたギャルも計器によってそれを確認する。
『反応消失! 敵はそれ以上動かねーぜ!!』
「確認どうも。……救出くらいは別に手伝ってもよかったでしょ、聖騎士? 救出後まで手出ししない理由なかったし」
「ああ……ありがとう、手伝ってくれて」
「女神様の頼みだからやっただけだし。それより時間食っちゃった。決戦仕様は解除して、このまま進むわよ!」
「応さ!!」
『お疲れって言いたいとこだが、まだ踏ん張ってくれよ! 離元炉は未発見だし、外の戦況も有利とは言えねぇもんな!!』
このまま待っていれば何の増援が来るか分かったものではないし、なにより時間が惜しい。この後にヘイムダールを操っていた雪兎と一戦交える可能性もある以上、なるべく迅速に事を進める必要がある。
聖騎士がこじ開けた大穴を二人で即座に通り抜ける。
他の部隊に数が回されたのか、誘い込まれているのか、不気味なまでに敵の少ない通路を突破しながら――しかし、聖騎士は先ほどの戦いで抱いた感情を拭いきれないように念話をする。
『当たり屋と俺は、似ている……そう思った』
『はぁ? いきなり何を意味わかんないことを……って、やだ。あいつと同じセリフ言っちゃった』
『いや、すまん。でもな……俺は正義の為に戦い続けるが、逆を言えば正義しかない。この道を選んだのも、他に何も道を見つけられなかったからじゃないかと思うのだ。俺にとっては正義だったそれが、きっと当たり屋にとっては他者を見下し続ける事だった……奴と俺との違いは、きっとそれだけなんだ』
寂寥の籠った独白。
それが、聖騎士が当たり屋との対話に拘った理由なのだろうか。
『家族を排斥した存在たちと似た事を言う相手に、正義を伝えたい。その考えに嘘偽りはなかった。本質が似ているなら、何かのきっかけに変われる筈だと思ったし、諦める気もない。それでも目の前で助けを求めた当たり屋が別人に書き換えられたとき、俺は思ったのだ。女神の名の下に正義を執行してきた我と、雪兎の加護を得て力に溺れた奴では、本質的には――』
『や、全然違うだろ常識的に考えて』
バッサリと明け透けに、オペレータのギャルは聖騎士の言葉を両断した。
『アタシの勝手なイメージにはなるけど、当たり屋は環境に流されても自分を変えようとしねーからああいう所に行き付いた遭難者な訳で……聖騎士は何であれ目標に向けて船を漕いでる冒険者な訳』
『俺が……冒険者?』
『やっぱ遭難者は駄目なんだよなぁ。情報に鈍感だから儲け話にはいつも遅れるし、情報あげても全然活用しねぇで、最後には周りに当たって冒険辞めるんだよ。自分の生き方を定めてる冒険者はタフで、イキイキしてる! へこたれてもすぐに前向く! ほれ、念話なんてしてねーで腹の底からいつの叫んでみなよ! せーのっ――』
「……正義ぃぃぃぃぃぃーーーーーーーッ!!」
叫ぶと共に聖騎士の周囲の壁が術で変形し、数多の拳となって眼前の敵を薙ぎ払った。
『なっ、元気だろ?』
「し、しかしだなギャル……」
『元気だろ!?』
「うぅ、だが……!」
『ンだよシャキっとしろよなー!! 別に間違ったことしたと思ってねぇんだろ!? だったら何で縮こまることがあるんだよ!! 次はもっと悔いなく出来るように堂々胸張ってりゃいいんだよっ!! それともなに? アタシが間違ってるとでも言いたい訳!?』
「そ、そんなつもりは……うう、あい分かった! ギャルの言うそれも正義だ!」
(聖騎士が流された……!)
普段全くへこたれなさそうな聖騎士のナイーブな面も意外だったが、勢いだけで彼を立ち直らせたギャルにも、銛漁師は少し驚いた。女神が態々必要な人員だと確保を急がせた『オペレーター』……彼女は普段はギルドで受付嬢をしているらしいが、確かに只者ではないのかもしれない。
口下手な銛漁師では聖騎士を元気づける言葉を上手くかけられなかっただろうし、そこまで気も回せなかっただろう。彼女がどこまでそれを意識しているのかは分からないが、今の短いやりとりでギャルは聖騎士の余計な方向に飛んだ思考の不要部分を無神経なまでにてきぱき剪定してしまっていた。
案外、これくらいズケズケと物を言う方が聖騎士と相性がいいのかもしれない。
「すまん、うじうじと俺らしくなかった! 改めてポイントに全力疾走するぞ銛漁師!! 正義ぃぃぃぃぃぃーーーーーッ!!」
「はいはい正義正義。ま、そっちの方がさっきよりはマシか……」
地上の種族もマギムも、好きではない。
しかし、銛漁師はほんの少し、受付嬢という職業に興味を持ち始めていた。




