桃白竜の歌う丘
二段ベッドが二台と二つの机が並ぶ狭い部屋。曇りガラスが暖房の蒸気で曇っている。机の上にある時計の泡が少しずつ赤味を帯びていった。もうすぐ昼前だ。
俺はベッドの間に立っていて、机に座っているのは従兄のドルムンドだ。肘をつきながらこちらに流し目をくれる。
「君の合格は予想外ではなかったからね。あれだけ魔力が強ければ……ま、おめでとう、ジン」
ドルムンドが友好的な態度を取っていることが意外だった。入れ違いになるよう、すでにシューレを出て帰郷していると思った。背中で組んだ手に力が入る。
しかしドルムンドは背筋を伸ばして向き直ると、真摯な態度で語り始めた。いつになく親切な態度が怪しい。
「僕も、栄えある卒業生七名の一人になれた。侯爵領に戻る前に、縁ある君に教科書くらいは譲っておこうと思ってね」
事実、机の上に教科書が山を作っていた。機嫌良さそうなドルの茶色の目は、珍しくまっすぐに俺の目を見ていた。直視されて戸惑っていると、薄く笑いを浮かべたドルムンドが言った。
「シューレの生活で、少しは大人になったつもりだよ。そんな僕からの激励と忠告だ。侯爵家に君の居場所はないかも知れない。だが、成長した君が居られる場所が、これから出会う世界には必ずある。だから、侯爵家の狭い世界は忘れて、やりたいことをするんだ。僕だってそうしたから卒業できたんだ」
侯爵領の生活はよく覚えている。貴族としての対面を保つため、最低限に施された養育。侯爵家の後継者たちの身代わりになるために育てられた自分。魔力が多くなければ、ここまで来ることはなかっただろう。
王立魔力訓練所。通称、シューレ。王都から竜で半日はかかる場所にある、俺の人生で最初の流刑地だ。
「そうもいかないでしょう。俺は存在するだけで侯爵家にとって迷惑なのですから」
「だから、」
呆れた風の声で、上目遣いの視線が俺を刺す。
「そういうことはもう、気にしなくていいんだ。ここにいる間はただのジンだ。とにかく卒業を目指せ。それと、絆を結ぶ相手を見つけろ。魔術師は一人では生きられないのだから」
魔術師も何も、シューレに入ったばかりだ。輝かしい未来など考えられなかった。だから返事はしなかったし、ドルムンドも別に期待していなかったようだ。すくっと立ち上がるとついでに思い出したようなふりをして話し始める。
「ところで、君はどの子に乗ってきた?」
「メルダです」
「そうか、ちょうどいい。メルンがここを離れたがらなくてね、騎竜を交換してもらえまいか」
これが本題か。舌打ちしそうになるが、止めておく。
「どうぞ」
にっこりと笑って差し出される手を、仕方なく握る。思ったよりも強い力で握り替えされる。
「助かるよ、従弟どの、また王都で会おう。あ、見送りはいいから」
晴れて魔術師見習いの資格を得た従兄は、颯爽と部屋を出て行った。
もらった教科書を確認したり、荷物をほどいたり、寮監に挨拶に行ったりしているうちにすっかり午後だ。コートを着込んで、寮監にもらった歯触りのよい果物を囓りながら竜舎に向かう。肌寒いが風は強くない。竜が好きな曇天だ。
侯爵家に、つまり貴族社会に居場所のない自分が、シューレを出てもどんな仕事に就けばよいのか、見当もつかない。結局、領地に飼い殺しにされるか、宮廷のつまらない仕事をさせられるだけではないのだろうか。軍人にならないのであれば。
今のところ、どの選択肢も心躍るものではなかった。魔力が莫大にあっても制御できない自分に、訓練する意味があるのか。これからの生活も幸先が良いとは思えない。
シューレにはいくつもの建物がある。それらを結ぶ渡り廊下の一つに、大きな袋を運ぶ男がいた。あちこちで見かける用務員の一人だろう。癖の強い栗色の髪を押し込むように帽子を深く被り、表情を隠している。片脚を引きずるように歩いている。特に挨拶もせず、すれ違った。
建物から離れた所に、だだっ広い草原が広がっていた。その端に、竜舎が三棟あった。
当然だが、メルダはもういなかった。竜舎の一つに入り、メルンの仕切りを探した。メルンは侯爵家で育てている灰色竜で、メルダの姉だ。二頭は仲が良い。真ん中ほどの仕切りに見覚えのある灰色の首が見えた。
灰色竜は気性が穏やかで持久力がある。長距離移動に向いている竜だ。高めに据え付けられた台に長い首を入れてゆっくりと飼料を食べている。固形飼料と野菜と果物だ。隣には大きな桶に水が入っている。
「メルン、しばらくよろしくな」
音を立てて飼料を咀嚼しながら、大きな赤い目がぐるりと動いた。メルダとメルンは子どもの頃から知っているから、メルンの返事もフンと鼻息をこぼすだけだった。食事を邪魔しないように頭を少しだけ撫でる。顔を上げて、薄暗い竜舎の中を見た。
竜の世話をする者たちが動き回っている。他の竜たちも食事をしている。居並ぶ竜の中でも、メルンは奥の仕切りを気にしていた。そちらに目を凝らすと、見たこともない竜がいた。
薄い桃色の細身の竜だ。数頭見える。小柄な少女が水をやったり、飼料を足したりしている。小動物が竜の間をちょこまかと動き回っているように見える。
「あなた、メルンの……?」
奥を覗き込んでいたときに背中から声をかけられて振り返った。メルンのような赤い目に茶色の髪が波打っている。作業服を来た、大柄な女性が立っていた。手を差し出す。温かい手が握り返してくれた。
「ジンです。今度、入所します。メルダとメルンがお世話になりまして……」
「私はバーサ。第一竜舎の調教師だ。メルンはいい灰色竜だね、ちゃんと手入れされて、気立てもいい」
やはり「飼い竜をほめられて怒る馬鹿はいない」。せっかくだからお礼ついでに訊ねてみた。
「奥の桃色の竜は何ですか?」
「桃白竜。もうここでした育てていないから見たことないだろう? 体も小さいし、病気にも弱いし、子どももなかなか作らないんだけど、一つだけいいところがあって。何だと思う?」
いたずらっぽく笑いかけてくるが、即答するしかなかった。
「わかりません」
気を悪くすることもなく、バーサはあっさりと教えてくれた。
「魔力が強い人間が乗っても恐がらない。うちみたいな所には必要な竜だから、細々と繁殖しているんだ。メルンあたりが今度、協力してくれると助かるんだけど」
「掛け合わせてもいいんですか」
「確率としては桃白竜も出るからね。その気になるかどうかが問題だけど」
竜と竜舎について話したあと、バーサは言った。
「この後、桃白竜を出して夕方の運動をさせるから、見ておいで。綺麗な歌が聞けるよ」
「歌?」
質問への返事は、含みのある笑みだけだ。
食事を終えた桃白竜が一頭ずつ、連れ出される。鞍は着けているが、手綱はない。飛行場へ出ると竜が順番に空に舞い上がった。
シューレを囲む丘が見えた。灰色の空を旋回しながら、桃白竜が歌っていた。笛のような高い声で、もの悲しい旋律を奏でている。よく響く鳴き声は、遠くまで聞こえそうだ。
飛行場の草原に突っ立ったまま、しばらく空を見上げて歌声を聞いていた。
ふと視線を目の前に戻すと、先ほど竜の世話をしていた黒髪の少女が手のひらに魔導石を持って立っていた。元は無色透明な魔導石だが、少女の石は夕焼けに照らされて真っ黒に見える。何かの術式が込められているのだろう。
石をぎゅっと握ると、少女は握りしめた手にふっと息を吹きかけた。
それとも何かの言葉か。
握った指の間から、星屑が散ったように見えた。少女が拳を開く。
そこには無色透明に戻った魔道石があった。
何が起こったんだ。
「今のは何だ? 魔導石を起動せずに術式を消し去るなんて見たことがない! 君はここの生徒なのか?!」
一息に近づいて詰問した。少女は弾かれたように顔を上げる。その直前、浮かんでいた微笑みがかわいいだなんて一瞬でも思ったことを、激しく後悔する。
「何でもない」
こわばった顔、震える声に、そっけない答え。
話しかけるまで俺のことなんかまったく気付いていなかった。そのことに、なぜか無性に腹が立つ。
「だってそれ、そんなの見たことない。おかしいだろう」
こちらをじっと見る瞳に映るのは恐怖と、混乱。黒い瞳が揺れるのを見て、ものすごく焦る。もっと詰め寄りたくなる。
ここまで誰かに詰め寄ったこともなかったから、心臓が早鐘を打っていた。
「そ、そんなこと言わなければ、この石あげてもよかったのに」
少女は作業服のポケットに魔導石をしまった。謙虚な従兄、桃白竜の歌、飛び散った星屑。シューレにたった一日いただけでこれだけのことがあった。そんな摩訶不思議よりも、目の前の少女から目が離せなかった。
その目、もっと見ていたいのに。
頭一つ分、小さな背丈。さらりと揺れる、肩まで伸びた黒髪。焦れば焦るほどいい言葉は思い付かなくて、変な言葉だけが口から飛び出ていく。
「くれるのか」
「ほしいの?」
「もらってやらなくもない」
口からこぼれ出るのは憎まれ口。気持ちが制御できない。
そんなことよりも知りたいことがあるのに。
「私を捕まえられたら、石をあげてもいい」
黒髪の少女は、戻ってきた桃白竜をやさしく撫でると、その鞍に軽々と跨がった。声をかける暇もなく、少女は飛び立った。数秒で高度を取ると、シューレの上空を大きく旋回している。
あほ面をさらしてそれを眺めていることしかできない。
君の名前を教えてくれ。
俺の名前はジン。




