憐憫と喪失の狂演(ジルバ)
「ぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
およそこの世で一番聞きなれた声で、絶叫が耳を響かせる。
心臓が信じられないくらいに激しく自己主張を繰り返し、脚が地面を後ろに蹴り飛ばす。
目じりから零れる涙の雫が後方の彼方へ消えていく。
背後から感じる喜悦に近いプレッシャーに気づかないふりを決め込みつつ、俺は叫ぶ。
「畜生っ! ダヤッカの糞婆め! なぁにが『そこが危険だったのは昔の話で今は脅威なんぞなにもない』だ! ばっちり現存して此処に居るじゃねえぇぇぇかぁぁぁぁぁ!!!!」
「ええい、煩わしいぞ童! 全く、だから儂はやめておけと云うたんじゃ。本当に騙されやすいことじゃのぅ。最早怒りを通り越して呆れ、さらに通り越した結果一周廻って怒りが再燃するほどじゃ」
脳内に響き渡る、鈴を鳴らすようなきれいな声。寝起きだろうか、すこし気怠げだ。
初めて聞いたときは脳が蕩ける錯覚すら感じたものだが、慣れとは恐ろしいものだ。すっかり平然と聞き流せるようになっているのだから。
いや、慣れと言えば脳内に直接響く声に発音して返答するという、傍から見れば、正面から向かい合って見たとしても、完全に狂人の類いな行動を平然と行っちゃえているところが恐ろしいんだけれど。
その声が、はぁ、とため息を吐いた。きっと額を抑えているだろう、そう思わせる程自然に。
「あの小娘の顔をみておらなんだか? 『しめしめまた鴨が葱背負って鍋に入って蓋までしめおったわ』と言わんばかりのほくそえみじゃったぞ」
「それを教えろよせめて! 俺が死にかけてるじゃねえか例の如く!」
「いや例に至る前に反省せいというに、自業自得じゃろ。そも、静止は促したじゃろうが。行ける行けると、聞き流したのはぬしじゃろ? いや真、ぬしなんでそんなに騙されやすいのじゃ? 儂、正直今回のはあんまりにも嘘じゃとわかりやすいのにやすやすと引き受けるもんじゃから路線を博愛主義者にでも変更したのかと思っておったぞ。それをぬし、儂のせいにするのは自分の株を下げるだけじゃぞ」
死ぬほど正論だ。いや、死にそうなのは今の状況なんだが。寧ろ恥ずかしさで今すぐ死にたいまである。
死なないけど。訂正、死ねないけど。
「まあ、そんな馬鹿で愚かで手の施しようもないところが気に入っておる部分もある。こちらも例の如く、死なぬようにしてやるから安心するがいい」
「っ!! ばっか野郎! お前のそれは死なねえようにじゃなくて──!!」
言う間もなく。背後から追いついてきた巨大な蛇の化け物が、そのままの勢いで俺を引きつぶした。
その光景はさながらトラックに挽かれる蛙か。
みしみしと骨が軋み、ばきりと折れ、肺がぐいいと押し潰される。
「ぴぎゅ」
全身に文字通り死ぬほどの激痛を感じつつ、俺はなんとも最期の言葉にはそぐわない声を漏らして、一度死んだ。
☆★☆★☆★☆★☆★
くらり、と立ち眩みのような感覚がして。
づきり、と体が終わる痛みが走る。
酩酊しているような、夢のような、意識のくらやみの中、不意にぱちりと目が醒める。
ああ、くそ。
相変わらず最悪の心地だ。
どれだけ寝つきが悪くたって、こんな気持ち悪い思いを経験することは生きているうちは絶対に無い──。
「かか。ほれ、起きよ。日に何度も寝ていては、身体を悪くしよう」
戯言が聞こえる。
全く……死にたい訳じゃないけど。断じてそんなことはないけれど。生きていることは素晴らしいけれど。
この瞬間は、いっそ死んでしまいたい程に気怠い……身投げする人間の気持ちすら、わかる気がする。尤も、もう死んでいる俺のこれを自殺願望と言うのかは、甚だ怪しい所だけれど。
じわじわと皮膚が溶ける感覚がする。
急がなければ、また死ぬ事になりそうだ……蛇の胃の中、俺は瞼を引き絞った。
否──俺のような何か、が。
「いやはや全く、寝坊助には手を焼くものじゃ。どれ。少しだけ、手助けをしてくれよう──!!」
俺の意思とも意志とも乖離して、ひとりでに細い腕が持ち上がる。
ずぬりと柔らかい皮を裂くような音。
不意に眼球に光が飛び込んだ。
これにて、御死舞。
そんな鈴の鳴るような幻聴が、聞こえた気がした。
☆★☆★☆★☆★☆★
そんなこんなで、俺は蛇の亡骸の尻尾を脇に抱えてその大半を引きずりつつ、出来るだけ人目に付かない道を縫うように歩いていた。
──いや、こんなバカでかい蛇を持ってる時点で人目も何もあったもんじゃないんだが。寧ろ狭い道を選んでいるせいでたまにどころではなく蛇が詰まる。何せ、人間一人挽きつぶせる大きさだ。まあ蛇の体はやわらかいんで、その度に機転を利かせて進んではいるのだが、しかしどうしてもその足取りは遅々としたものにならざるを得ない。
彼女が俺の内側から、欠伸混じりに苦言を呈する。
「いっそ開き直って通りを堂々と歩けばよいものを……余計な苦労をしておるぞ、ぬし」
「う、うるせえな。俺はまだそこまで肝が太くねえんですよ」
「逆効果じゃと思うがの……途轍もなく周りの家に迷惑掛かっておるし。知らんぞ、あとで苦情が殺到しても」
「ええい、どのみちダヤッカの家は路地の入り組んだとこだろ! 多少早く路地に入ってても変わらねえよ」
「いや変わるじゃろそれは」
ごもっともだった。
いや、俺が出来るだけ人目を集めたくないのは、蛇に挽かれた後ぱっくりと呑まれたときに服が溶かされちまって、ついでに着替えも忘れたのがあるんだが……うん、確かにどう考えても逆効果だ。数十分前の自分を、時を遡って詰ってやりたい。詰り殺すという新たな殺人方法を開拓すらしてやりたい。
どうして数十分前の自分はこんな修羅の道を選択してしまったのか?
「阿呆だからじゃろ」
心を読むな。
……いや、それは或いは彼女にとって、耳をふさいで声を聞くなと言っているのに等しいのかもしれないけれど──。
「かか、儂がぬしに気を遣ってもらうことなどなにもないぞ。儂は見たいものを見たいように視るし、聞きたいものを聞きたいように聴く。ぬしに何を言われるまでもなくな」
「俺が被害を被ってるんですけど」
「そこはそれ、儂は何も困らんのでな」
なんて傍若無人な奴だ。何処かに訴えれば勝てるに違いない。
まぁ、勝訴したからなんだと言う話でもあるけどな……精々同情を勝って、それで終いだろう。何の得もない。無いといえば、この異世界にはロクな司法機関もないわけで、こういうのを取らぬ狸の皮算用と言うのだろうか。
……いや、間違いなく違う。
「全く、しかしぬし、仮にも命の恩人たる儂になんたる態度じゃ? 先ほどの戦闘ひとつ取っても、儂がおらなんだら轢殺死体が出来上がるばかりじゃったろ。もっと感謝の念を持ち、崇め敬い、日に百のお供え物を捧げて然るべきじゃろ?」
「現実的に無理なことを言うな。っていうか、多すぎるだろ強欲ロリめ」
「儂をロリと呼ぶな。これでもぬしの億倍は生きておる」
見た目ロリじゃん。
嫌ならもっと威厳のある格好をしてくれ。
そう心の中で呟くと、感覚共有で、俺の精神にいる彼女の額に青筋が立ったのがわかった。
「お、自殺志願なら受けて立つがの。しかし儂がおるとぬし、死ねぬしなー。かーっ、これは困ったのう。半殺し程度に留めるしかないかのー」
「やめろ馬鹿洒落にならねぇ! 第一お前のそれは死なないんじゃねぇ! 死んでも生き返るだけじゃねぇか!」
死ねないけど。訂正、死ねないけど。
否、さらに訂正。死んでも生き返るけど──といった感じだ。
死なないのならまだマシだったかもしれないが、俺の場合、一度完膚なきまでに死んで、それから生き返っているのである。
一度止まった心臓が再度動き出し、温もりを失った人肌はもう一度再燃する訳で。
不快でない、わけがない。
俺の苦情に、彼女は呆れたように溜息を吐いた。
「仕方ないじゃろ。発端がぬしの死亡なんじゃから……儂とて好きで、死んでは生き返らせしとる訳ではないわ。そりゃ、最初から死なぬように出来ていれば、儂としても話は楽じゃったけれども」
「それこそ今からでも路線変更出来ないのかよ……俺の博愛主義より、よっぽど重要だぞ」
「出来たらしておる……とも、言い切れんかもしれんな」
不意に、胸の奥がポカポカとした暖かさに包まれた。
え、何で? と俺が混乱していると。
彼女が、苦笑して珍しく恥ずかしそうに笑ったのがわかった。
「そうじゃな……儂はぬしとこうして、富とも名誉とも関係のない場所で、七転八倒しながら、喜怒哀楽を共有して、共にのんべんだらりと過ごすのが、そんなに嫌いではないのじゃよ。だから、そんな路線変更をして、ぬしと共に居られる口実を失うような真似を、儂は選ばぬかもしれぬなぁ」
──不意に、言葉に詰まった。
嬉しさと、罪悪感と──良いも悪いもごちゃ混ぜになった感情の濁流が、俺の思考を彼方へと流していくようだった。
「……俺もだよ」
そんな言葉を──本心から言ったのかもわからない曖昧な言葉を、返すのが精一杯の有様で、俺は思いに馳せる。
全ての発端に、思いを馳せる。
俺の全てが終わり、そして始まった。
たった数ヶ月前の誕生日に。
あの日俺は。
初めて、死んだ。




