お前の彼女、NTRてね?
「は?」
目の前にいる友人が発した言葉は、まるで聞き馴染みがないものであった。
僕は思わず相手を見返す。お互い睨めっこのような時間が少しの間続いた。
「……なんだよ」
「いや、ネトラレって……何?」
「お前、マジか」
「わからん。寝床を取られた、とか?」
「いや、違うし……」
本当にその言葉の意味を知らないと悟った友人は、呆れたように小さく溜息を吐くと、机に置いていたスマホの画面をコツコツと指で叩いた。
どうやら“自分で調べろ”という意味らしい。友人の口から伝える気はなさそうだ。
「んだよ、もう」
僕はしぶしぶスマホを手に取り、早速検索をかけてみる。
「えーと、なになに。“NTRとは、自分の恋人や妻が他の男と大人の関係になり、略奪されてしまう事”……って、おい!?」
「……声デカいから」
「冗談はよしてくれよ、笑わせる気だな?」
僕は言いつつ笑い声を響かせた――だが、友人は一向に神妙な面持ちを崩さないでいる。
「え……嘘、マジなやつ?」
「ああ」
「いやいや、それはないだろ……」
僕は言葉で否定しつつも、心の中では一抹の不安がよぎっていた。一つ“思い当たる節”があった為だ。
「……詳しく、聞こうじゃないか」
ついに僕の心も折れた。ここは一旦、友人の話に耳を傾けてみる。
相手は「落ち着いて聞けよ」と前置き、ポツポツと呟き始めた。
「お前の彼女……茜さんだけど、先日見かけたんだ。……知らない男と歩いていたぞ」
「え゛っ」
「しかも、仲良さそうに腕絡ませてた」
「ええ゛っ!?」
友人の衝撃的な目撃情報は、その後も続いていく。
その男の方は見るからにヤンチャな感じで、茜ちゃんもそれに近しい格好……露出が多い服を纏い、髪も明るく染め上げていたとの事であった。
「そんな……まさか……」
僕は友人の話を元に、当時の様子を脳内で再現しようと試みるも……あまりに茜ちゃんのイメージから逸脱している為か、一向に想像力が膨らまない。
――結局、僕は早々に“人違い”との判断を下した。
「いやぁ、流石に別人でしょ。茜ちゃんがそんな事すると思えるか?」
「うん、それはまぁ……あり得ないな」
そう、茜ちゃんはどう考えても浮気をするような子ではなかった。
高校時代に縁あってお付き合いを始めた茜ちゃん。
彼女を一言で表すのであれば――“理想の女性”である。
真面目で責任感の強い茜ちゃんは、クラスの風紀委員を率先して務め、成績は学年トップクラス、運動神経も抜群。しかも超可愛い。
清楚、可憐、純潔……まさに“理想のテンプレ”を揃えたような存在であった。
そんな茜ちゃんが……僕という存在がいながら、チャラ男とつるむだなんて到底考えられない。
「やっぱただの見間違いだよ、それ」
「いや、でも……うーん。あれは確かに茜さんだったと思うんだけどなぁ」
「ははは、違うって。あり得ないから!」
未だ納得いかないと首を傾げる友人を前に、僕は何度も念を押して否定し続ける。
――“実は三ヶ月もの間、茜ちゃんと会えていない”などと、口が裂けても言えるような状況ではなかった。
あえて言い訳をするとすれば――お互い違う大学に進学した上、僕は部活で忙しい毎日を過ごしていた。
特に大会期間中のここ数ヶ月はスマホに触れる暇すらないほどで、連絡したくとも手が付けられない状況であったのだ。
勿論、僕は茜ちゃんを好きな気持ちは変わらない……だが、相手はどうだろうか?
どう連絡を取ろうか悩んでいた中で、この情報……もう、恐怖しかない。
「……よし。ならばこの場で茜ちゃんに電話してやろう」
「お、おお……」
ここはあえて強気に出てみる。今後ずっと不安を抱え込むくらいなら、ここですっぱりと解決したい。
「しっかり聞いとけよ……!」
僕は友人の前で、これ見よがしにスマホを耳に当てる。
とはいえ、内心はもうバクバクだった。ちゃんと電話に出てくれるのだろうか……仮に出たところで、罵倒されないだろうか。
ごめん、茜ちゃん。ホントごめん……心の中で念仏のように唱えながら、コール音を耳に刻み込む。
『――もしもし』
「っ!?」
数コールしたところで、反応があった。懐かしい声……茜ちゃんのものである。
「茜ちゃん……!」
危うく涙が込み上げてきたが、事情を知らない友人の前だ……ぐっと堪える。
でも……単純に、嬉しい。声を聞けただけでこんなにも感動してしまうとは。
『どうしたの?』
「あ、いや……何でもないよ。ちょっと、ほら……会いたいなって……思って」
『あー……うん、いいよ。明日とか、どう?』
「明日!? 全然余裕っ! うん、うん……オッケー! じゃあ、また……!」
僕は通話を終えると、スマホを天に掲げる。
そのまま友人に向かって、これ以上ないドヤ顔を披露してやった。
「良かったな。あと、爆ぜろ」
「ぐへへ……後でたっぷり惚気話を聞かせてやろう」
友人は笑いながら「いらねえよ」と手で追い払うような仕草を見せた。
◆
翌日。
僕は予定よりかなり早く、集合場所へと到着していた。
この時、もはや僕には昨日の友人とのやり取りは微塵も残っていなかった。ただ茜ちゃんに会える事に対する喜びだけが胸の中を支配していたのだ。
僕は少しカッコつけるように柱に寄りかかり、彼女の到着を待つ。
今日はどんな格好で来るのだろうか。前回は白のワンピースだった、凄く可愛かったなぁ……そんな事を考えながら待つ事、約十分。
遅いな……と、何気なく顔を上げたその時、一人の女性が視界に飛び込んできた。
「……っ!?」
こんがりとムラなく焼かれた人工的な黒肌。
カラフルに染め上げられた、ヤシの木を彷彿とさせるドレッドヘア。
ガングロの肌に対をなすかのように、これでもかと施されたケバメイク塗れの顔面。
ピアスだらけの耳、鼻、唇周り。棘のように伸びた付け爪。太ももに見え隠れする、漆黒のタトゥー。
そんな状態で身に纏った露出度の高いセーラー服は、酷く安っぽいコスプレのように見てとれる。いや……それを狙い、あえて着用しているのかもしれない。
「な、なんだこいつ……!?」
そう、それはどこからどう見ても、十年以上前に流行ったとされる“マンバギャル”であった。
「♪」
彼女と、目が合った。相手は僕を視界に捉えると、ニンマリと口角を上げる。
そしてそのまま……何を思ったのか、こちらへ向かって歩み始めたではないか。
「うぐっ……!?」
次の瞬間、とてつもない異臭が僕の鼻腔を強襲した。
それは“甘み”という名の、悪臭。
香水を幾度も重ねたであろう度を越えた強烈な香りは、即座に脳が警笛を鳴らしてくるレベルだ。
実際、彼女とすれ違う全ての人々は、口元を手で押さえて振り返り、目を丸くしている。
「んふっ♪」
そんな“歩く公害”は、周囲を一切気にすることなく、僕の目の前で歩みを止めた。
「んふふ、久しぶり~っ♪」
「――っ!?」
彼女は僕に向けて、軽いノリで挨拶をしてきた。
何故だ。何故こいつは、僕を知っている――?
「あれ、ウチの事忘れちゃった感じぃ? マジ酷いんですけどぉ♪」
「だ、誰だよ……?」
「うっわ、ちょー傷つくんですけどぉ、カノジョの顔忘れるなんてくっそサイテーだしぃ☆」
「か、かの、じょ……!?」
彼女? こいつは、“彼女”と言ったのか……!?
だって、僕の彼女は――
「……っ!?」
“違う、別人だ”――脳が反射的に訴えかけてくる。
しかし、その姿をよく見ると……濃いメイクの下に眠る素顔や、全身の至る所から、“彼女”の片鱗を感じ取ることができた。
「嘘……だろ……」
信じられない、認めたくない。
「茜ちゃん……なのか……?」僕は一縷の望みを託し、恐る恐る問うてみる。
「んふっ、そーだよぉ♪」相手はニタリといやらしく笑んだ。「――ちょっとイメチェンしてみたんだぁ♡ ね、マジ似合うっしょ☆」
「そんな……」
絶望が、僕の全身を支配していく――
あれだけ透き通るような美しさを持ち合わせていた彼女が、こんなにも堕ちきった存在に成り果てるなんて、考えられない……。
「くっそヤバくね、この見た目ぇ♡ 今までのつまんねー真面目ちゃんから、めっちゃイケイケに生まれ変わった感じで、ちょーはっぴぃ♪ なんてっ☆」
ケバメイクによって巨大なタレ目となった彼女のウインクに、危うく意識が途切れそうになる。
――こいつが、茜ちゃん?
真面目で、清楚で可憐だった、あの茜ちゃん?
嘘だ。
嘘だ、嘘だ……!
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……っ!!
「んふっ、嘘じゃねーしぃ♡」
「っ!?」
「会えなかったこの間にぃ、ウチもイロイロあったからさぁ♪」
「い、色々って……」
そう返事したところで、僕の脳裏に昨日のやり取りが蘇る。
“チャラ男と仲睦まじく、腕を組んで歩いていたぞ”――友人が放った言葉だ。
見間違いでは、なかったというのか――!?
「あはっ♪ まだ信じられないって顔してるね♡」
僕の思考に割り込むように彼女は顔を覗かせると、一歩一歩互いの距離を詰めてくる。
「やめろ……近づくな……!」
僕が二、三歩後退した所――明確な記憶は、ここで途切れた。何かを叫び、彼女も何か応えた気がするが、思い出せない。
次の瞬間、僕の視界はぐちゃぐちゃに塗り潰されたのだから――




