異世界おとぎ話
昔々、霊峰の麓に一人の聖職者が住んでいた。
聖職者は小さな村の小さな教会で早朝に目覚めると神に祈りを捧げる。
そして、村に出向き怪我人や病人の治療をして夜遅くに教会に戻り、祈りを捧げ眠りにつく。
そんないつもと変わらぬ毎日が終わろうとしていた、ある夜のこと。
コンコンコン。
と年代物の教会の扉を叩く音がした。
「こんな夜遅くにどちら様でしょうか。もしや、病状が悪化したのでは」
今からかなり遅めの食事を取るつもりだった聖職者は、鍋を調理台に置いて足早に扉へ向かう。
「どうされましたか」
すぐに扉を開けたいところだったが、夜は魔物が活動的になるので迂闊に扉を開けてはならない。
「夜分遅くに申し訳ありません。ブホッ、ブヒィ」
女性の声と咳き込む音がしたので慌てて扉を開けると、そこにはフード付きのマントを着込んだ者がいた。
フードを目深に被り口元を布で覆っているので顔が分からず、マントで体が完全に覆われているので体の輪郭も不明だが、豊満な女性のようだ。
「どうしたのですか。もしや流行り病にでも?」
「いえ、健康そのものです。以前助けていただいたお礼をしに来ました」
と言われても彼女の声に聞き覚えはなかった。
この村は人口が百人程度だが、彼女の声とシルエットに覚えがない。
村はお世辞にも豊かとはいえず、こんなにもふくよかな人がいれば悪目立ちをして嫌でも印象に残るというのにだ。
不信感を覚えた聖職者だったが、悪意は一切感じなかったので穏便にお引き取り願うことにした。
「お気持ちだけで結構ですよ。当然の行いをしたまでです」
「そうおっしゃらずに。受けた恩を返さなければ女が廃ります、ブフォー」
速やかに扉を閉めようとしたが、そうはさせまいと足を入れてくる彼女。
その勢いと鼻息の荒さに聖職者は困惑の表情を浮かべる。
「夜に女性が独り暮らしの男性の家を訪ねるのは、如何なものかと」
「大丈夫です、問題ありません! 望むところです!」
彼女の迫力に聖職者が一歩後退ってしまった。
扉への圧力が消えると彼女は扉を押し開けて、教会の中へと踏み込む。
「ブフォ? もしや、食事がまだなのではありませんか?」
「そうですが、そんなことよりもお帰りに……」
「そうですわ! お礼に食事を作るというのはどうでしょうか!」
こちらの話に聞く耳を持たない強引な彼女を見て、何を言っても説得できないと悟った聖職者は小さく頷く。
「……ではお願いできますか」
ここは彼女のやりたいようにさせて、早くお帰り願うことにしたようだ。
「そこの扉の先が台所です。食材は好きに使ってください」
と言ってはみたものの、少量の野菜しか残されていないので具の少ないスープを作るのが精一杯だろうと、聖職者は達観していた。
「任せてくださいませ! ブフッブフォッ! あっ、調理中は決して覗かないでくださいね。私の一族では料理する姿を見られてはいけないという掟がありますので」
「わかりました」
「決して覗いてはいけませんよ。お願いします」
執拗に念を押す彼女に頷き返すと納得したようで、軽い足取りで台所へと向かっていく。
「しかし、誰なのでしょうか。村人でないのは確かですね。となると、他に誰かを助けた覚えは……。すみません、お名前をお聞きしてもいいですか!」
扉の向こうで料理をしている彼女に届くように大声で質問すると、返事が戻ってきた。
「私はオー……オークミと申します」
その名に聞き覚えはなく、ますます頭を悩ませてしまう。
しばらく考え込んでいると、扉の隙間から彼女の声が微かに聞こえてきた。
「私は強い子。大丈夫、やれる! ちょうど痩せようと思っていたのだから、お腹の肉をそぎ落とすぐらい平気よね、うん」
とんでもないことを呟いていたので、聖職者が慌てて扉を叩く。
「あ、あの! なんの料理を作るつもりなのですか」
「え、えーと、肉の揚げ物でも作ろうかと」
肉も油がないのにそんなものができるわけがない。
咄嗟にそう言いそうになった聖職者だったが、寸前のところで言葉を呑み込む。
「あ、あいにく油を切らしていまして、揚げ物は無理ではないでしょうか。それに我が宗派は肉を食すことを禁じていますので」
「そう、ですか。ブフーッ、残念です」
「食材がほとんどありませんので、簡単な料理ぐらいしかできないのでは」
さっきの呟きを聞き間違いだと信じたい聖職者が提案してみた。
「そうですね、ここにある食材だけだと……少し時間がかかりますが、構いませんでしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ」
ほっと、胸をなでおろす聖職者。
よくよく考えると自分の体を切るような真似をするわけがないと、バカな考えをした自分に対して思わず失笑してしまう。
待っている間、手持ち無沙汰だったので女神像を磨いていると、今度は台所から何か大きなものを引きずるような音がする。
手を止めて耳を澄ますと、ずりずりと台所の床石を削りながら何かが移動しているように聞こえた。
「あの、オークミさん。何をされているのですか?」
「今からスープを作ろうと思っています。ブヒッ、覗かないでくださいね」
大鍋で野菜を煮込んで出汁を取るつもりなのだろうと、一応は納得した聖職者だった。
覗くなと念を押した声が若干照れていたように聞こえたのだが、気のせいだろうと頭を振り払う。
とはいえ、気になるので聞き耳を立て続けている。
「すみません、隅に置いてあるレンガを使ってもよろしいでしょうか?」
「石窯を作った際の残りなので、好きに使ってもらって構いませんよ……レンガ?」
料理をするのにレンガを必要とする意味がわからなかったが、危険性はないだろうと放っておくことにした。
「度々、申し訳ございません。薪も使っていいですか? ブフゥー」
「はい。そこにあるのは料理用の薪なので、好きなだけ使ってください」
彼女に対していらぬ心配は止めようと思いはするが、それでも気になってしまう。確かめたい気持ちは強いが覗くことはない。
経典に『人を信じ、約束を違えることなかれ』という一文があり、敬虔な信者である聖職者はその教えを破るわけにはいかなかった。
落ち着かないながらも平静を装い、今度は床を磨いていたのだがある異変に気付く。
「異様に蒸し暑いですね……」
実りの季節も終わりに差し掛かり、そろそろ本格的な寒さが訪れる時期だというのに汗が止まらない。
初めは掃除をして体が熱くなったのだろうと考えていたのだが、手を止めてからも体が冷えることはなく、むしろ暑さが増している。
「暖炉に火はくべていませんよね。となると調理の熱でしょうか。もしや、火事では⁉」
はっとして、台所に繋がる扉に視線を向けると隙間から赤々と燃える炎が見えた。
炎はかまどの位置ではなく、台所の石床から燃え上がっている。
慌てて扉に体当たりをして、台所になだれ込んだ聖職者が見たものは――石床にレンガを組んで作られた即席のかまど。脇には脱ぎ捨てられたマント。
そして、その上に置かれた風呂釜に入っているのは、真っ赤な豚の顔をした魔物だった。
「オーク?」
あまりに衝撃的な光景に茫然と突っ立っている。
「えっ? ……ブキャアアアア!」
慌てて胸を隠しているが、そんなことはどうでもよかった。
「なぜ、オークが……というかですね、なんで風呂に入っているのですか」
驚きが限界値を超えて逆に冷静になった聖職者が淡々と質問を口にする。
「ブ、ブヒュッ、お肉が食べられないのなら、私を煮ればいい出汁が出ると思いまして。え、えっと、臭み取りに香草を入れていますから!」
「いえ、そんな心配はしていませんよ」
悪意のある行動ではないとわかり、詰問気味だった口調が柔らかくなる。
「どうしてあなたは、そこまでして私に恩返しを……もしかしてあの時の?」
「ブヒャッ! 思い出していただけましたか! 数年前、森で罠にかかっていた私を助けて、治癒してくださったことを」
聖職者は数年前、罠にかかった小さなオークの女の子を哀れに思い逃がしてやったことがある。
その日以来、オークの女の子は聖職者に恩を返すことだけを考えていた。そんなある日、お腹を空かしている聖職者を見つけて、自分を食べてもらおうと思ったそうだ。
「その身を犠牲にして、誰かに尽くす。その考えは尊敬に値しますが、食を満たすならもっと他にもやりようがあったのでは」
「で、でも、この村に潜んでいたら女の人たちが『今日、彼に食べられちゃうかもー』とか、食べられると男の人はすごく喜ぶって話していたので」
「……なるほど、それで勘違いされたのですね。いいですか、それは――」
詳しく説明すると、一瞬にして茹で上がった女オークが気を失った。
それから数か月が経過した。
教会の扉を開けて帰宅した聖職者は肩に積もった雪を払い落とす。
「ちょっと無謀でしたね。芯まで冷え切ってしまいました」
「ブヒュ、おかえりなさいませ」
震えが止まらない聖職者を迎えたのは、エプロンを身に着けた女オーク。
あれ以来、何度も教会を訪れては料理を作るような関係になっていた。
「あのー、コートを着て出かけられましたよね?」
「いえね。隣村からの帰り道に女神像がひっそりと佇んでいまして。雪が積もっていて寒そうでしたので、雪を払って私のコートをおかけしてきました」
「あなた様らしいですわ。ブフフ」
顔を見合わせて笑うと、温かい食事を取るために奥の部屋へ行こうとした。
コンコンコン。
すると、閉じたばかりの扉が叩かれる音がする。
振り返り開いた扉の先には――。




