一眼レフでつかまえて 〜俺のセカイの幽霊少女〜
──パシャリ。
シャッターの軽い音が、夕暮れの校舎に響いて消える。
「……うん、いい感じ。今日は帰ろう」
ずっしりとした一眼レフの画面には、あかね色に染まる一階の廊下が映し出されていた。
二年間と二ヶ月見続けていた、リノリウムの床。
デジタルの中には他の生徒の姿も、今朝まで降っていた雨の匂いも、外から聞こえる部活に勤しむ声も入っていない。
何にも汚されることのない、俺だけの世界。
ある程度満足のいく写真は撮れたと思う。
でも……。
「……これでも足りないんだろうな」
首にかけた一眼レフから伝わる重さを感じながら、帰るべく歩き出す。
階段の前に差し掛かった時、上から降りてきた誰かとぶつかりそうになった。
「おっとっと、すまない……って、南じゃないか。今日も写真部の活動か?」
「……次のコンテスト用の写真です」
「おぉー、精が出るな」
落としそうになった書類を持ち直しながら、俺の担任教師──二村浩也先生はニカッと笑みを浮かべる。
見慣れた快活な表情には、少し疲れが見えた。
朝のホームルームではアイロンのあてられていたスーツも、この時間になると少しよれが目立っている。
「相変わらず風景ばかり撮っているのか?」
「……えぇ、まぁ」
人を撮るのは、あまり好きではない。
俺にとって、写真とは自分だけの世界を切り取るものなのだから。
そこに、他の誰かは必要ない。
「あぁ、勘違いしないでくれ。別に悪いわけじゃないんだ。君の写真は素人目からしても素晴らしいものだと思っている。
ただ、担任としては誰とも話そうとしないから心配ではあるがな」
「お──」
大きなお世話です。
思わず出そうになった言葉を止める。
「っと、思い出した。南、これから時間あるか? 以前コンテストに出していただろう。その景品が届いているんだ」
「コンテスト……?」
「そう、以前佳作をとっていただろう」
佳作、か。
そう言われても、候補がありすぎてどれか分からない。
だめだ、考えるだけで気持ちが沈んできた。
「……もう帰りたいんですけど」
「よし、じゃあ急いで持ってくるわ」
「え、あ、ちょ」
止める暇もなく、二村先生は早足で階段を登っていった。
……相変わらず慌ただしい先生だ。
常に走り回っているから、帰りのホームルームではいつもヘトヘトなのだろう。
さすがに自分に用事がある担任を無視して帰る気にもなれず、その場で一眼レフをいじり始める。
祖父から借りたそれは、首ひもの先でずっしりとした鈍色に輝いている。
高校入学時に借りた、宝物。
この重さにふさわしい写真を撮ることができれば、きっとコンテストで最優秀賞を取れるはずなんだ……。
想いとともに、手癖でカメラを持ち上げて軽くファインダーを覗きこむ。
その時だった。
「……え?」
一眼レフの先。
一階と二階を繋ぐ階段の踊り場。
開かれた窓のところに、誰かが見えた気がした。
反射的にカメラを下ろす。
「…………あれ?」
しかし、誰もいない。
空虚な踊り場は窓から降り注ぐ夕日に照らされている。
気のせいだったのか……?
もう一度覗いてみる。
そこに、少女がいた。
うちの制服を着た彼女は、窓から外を眺めている。
その腰まで伸びた黒髪は、画面越しにでも分かるほどに美しい。
制服から覗く手足はすらりと長く、夕焼けもあってか健康的な色合いに見える。
しかし、彼女はそこにはいない。
ファインダーを覗きこんでいない左目に、少女の姿はない。
そのことに気づいた瞬間、ぶわりと全身から汗が噴き出した。
じわじわと首元を締められるような圧迫感。
けれど、俺は彼女の後ろ姿から視線を外すことができなかった。
こちらの存在に気づいたのか、少女はゆっくりと振り返る。
整った顔が向けられる。
──にやり。
その唇が、獲物を見つけた蛇のようにつり上がった。
「うわっ!」
カメラから手を離し、その場に尻餅で倒れ込む。
──パシャリ。
拍子にボタンに手がかかり、シャッターが閃いた。
「え、あ、きゃぁ!」
その瞬間に聞こえたのは、絹を裂くような叫び声だった。
「はぁ、はぁ……」
荒れた息だけがやけに煩く響く。
頬を撫でる窓からの風、その生ぬるさだけが、俺を現実に何とか縛りつけてくれていた。
かばうように抱きしめた一眼レフのディスプレイには、見上げた階段が映し出されている。
もちろん、画面の中には誰もいない。
「いつつ……何だったんだ、今の」
呆然としていると、誰かが階段を駆け下りてくる足音が聞こえてくる。
「待たせてすまないな、南──って、大丈夫かっ?」
俺の目の前に現れたのは、紙袋を持った二村先生だった。
先生はこちらを見るなり、慌てて駆け降りてきてくれる。
本気で心配している様子に、本当に現実に帰ってきた実感が沸いてきた。
ただ、そこでふと気づく。
今ここであったことを正直に話して、信じて貰えるのだろうか。
「…………カメラを覗いていたら、躓いてしまって」
考えた末、俺は先ほど見たものを誤魔化すことにした。
「本当に写真が好きなんだな。でも、足下がおろそかになっちゃいかんぞ」
「き、気をつけます」
先生に手を引かれ、立ち上がりつつ考える。
あれは何だったのだろうか、と。
気のせい? 幻覚?
それとも、信じたくはないけれども、幽霊……なのか?
「南?」
考えこんでいると、先生が心配した様子で名前を呼ぶ。
「……先生、この学校って幽霊出たこととかありませんか?」
「幽霊?」
その質問に、先生はふむ、と顎に手を当てた。
どこか視線を遠くに向ける彼は、何かを思い出しているようだった。
「懐かしい言葉だな。ちょうどそこの踊り場だったか」
「……っ」
「先生がここの学生だってことはクラスで話しただろ? その頃な、そこの階段を長い間見ていると、幽霊に呪われるって噂が立ったんだよ」
階段、長い間、幽霊──呪われる。
先生が口にした言葉は、今の俺が最も聞きたくないものだった。
背中を薄ら寒さが駆け抜ける。
「でも、どうして急に? もしかして心霊写真でも撮ったか?」
「い、いえ、少し気になっただけです」
「……? まぁ、気にするな。おれが学生の時も、今も、よくこの階段を使うが、出会ったことは一度も無い。噂は噂だよ」
「ですよね……」
「下校時のここは人がたくさん通るからな。たむろする生徒たちを早く帰したい誰かが流したんだろ」
それっぽいことを言って、先生は励ましてくれる。
今の俺にできるのは、曖昧に笑って先生の言葉を信じることぐらいだった。
「また、か」
その日の夜。
俺は自室で、二村先生から受け取った賞状と賞品を机の上に広げていた。
俺を讃える文章の中に、最優秀賞の文字はない。
……賞を取ることはできている。
でも、いつもいいところ止まり。
いったい何が足りないんだろう……。
「…………いけない。切り替えよう」
次のコンテストの締切まで残り二週間を切っているにも関わらず、まだ応募するための一枚はまだ決まっていない。
机の上にある、現像した写真の束を手で掴む。
「これでもない、これでもない……」
校舎、グラウンド、町並みなどといった風景写真をどんどんめくっていく。
それはどれも美しい景色の数々。
いいと思う写真はいくつもある。
けれど、これだというものが一向に見つからない。
厳選を重ねた候補の数は数十枚に及び、現像した写真は数百枚。
昨日は母親から印刷のしすぎでインクが尽きたと苦情が来た。
そろそろ決めないと……。
でも、何かが足りない。
もう一押しが見えてこない。
……めくる度に移り変わっていく美しい写真たちは、何も応えてくれやしない。
──その中でも、『それ』は明らかにおかしい存在だった。
「…………俺が撮ったのって、夕方だよな?」
目に留まったのは、階段の写真。
そこには、夕日が射しこんでいたはず。
だが、写真に写り込んでいたのは、真っ暗な夜の世界だった。
夕日が差していたはずの窓からは、月明かりが覗いている。
何だ、これは。
疑問と恐怖が頭の中を駆け抜ける。
その時だった。
目の前から何かが聞こえてきたのは。
いや、目の前と言うには語弊があるだろう。
その音は、写真の中から聞こえていた。
──カツ、カツ、カツ。
いや、そんなはずはない。
あれは気のせいだったはず。
そんな思考を裏切るように、少女が階段を降りてくる。
一歩、また一歩。
そして、踊り場に辿り着いた彼女はゆっくりと振り向いた。
「「……」」
目と目が合う。
その瞬間、俺の手足は金縛りにあったかのように動かなくなる。
どくん、どくん。
茫洋とこちらを眺めていた少女は、すぅっと息を吸いこんで。
「きゃぁああああああああああああっ!」
「────」
耳をつんざくような悲鳴を上げた。
ふっと、目の前が白くなる。
「はふぅ、びっくりしたぁ。いきなりでっかい顔が目の前にあるんだもん。
……って、あれ? もしもし、もしもーしっ? 帰ってこーい!
そんでもって私の話を聞いてよーっ! ねぇ、ねぇってば! おーい!」
この日、俺は生まれて初めて座ったまま失神した。
薄れゆく意識の中、見知らぬ誰かの声が聞こえ続けていた。




