4 食べられました。
クロエはダンスフロアへ戻るため足早に廊下を前に進む。
ところが、角を曲がったところで、一人の男性がしゃがみ込んでいた。
顔は下を向いていたため、誰かは分からなかったが、肩で息をしている。
慌てて声をかける。
「大丈夫ですか?侍女を呼びましょうか?」
「いえ、少し酔っただけですので。このまま動かなければ、落ち着きます。どうぞ、私のことは気にせず、お戻りください。」
男性は下を向いたまま、右手で拳をつくり大理石の廊下をゆっくり小刻みに叩いていた。
まるで何かを我慢しているように見える。
お酒に酔って気分が悪くなっているのかもしれない。
「では、とりあえず空いている部屋で休みませんか。私、部屋を確認してみます。」
クロエは何も考えず一番近い部屋の扉を開けた。
テーブルの上に小さな明かりがあるだけで、部屋の中は薄暗い。
部屋に入ろうと一歩踏み出した。
しかし、誰もいないように見えるが人の気配がする。念のためにそれ以上部屋には入らず、部屋の中を観察する。テーブル、ソファー、そして寝台。
寝台の上には麗しい男女の影が見える。
「キャー」
クロエは叫ぶ。
「失礼致しました。」
クロエは叫びながら、慌てて扉を閉める。
そして、クロエは大きく深呼吸。を2回。
今度は静かに隣の部屋の扉を開ける。薄暗い部屋の寝台を扉から確認してから、今度は小さな声で言う。
「失礼致しました。」
静かに扉を閉める。
再び深呼吸。
更に隣の扉を・・・・・・・・。
繰り返すこと5部屋ほど。
どうして、どうして、こんなにも盛り上がっているの。自分の家で盛り上りなさい。
悪態をつく。
たしかに、盛り上ることに問題は無い。でも、本来は舞踏会の途中に体調を崩した人たちに控え室が始まりだったはず。断じて、盛り上るための部屋じゃないはず。
やっと6部屋目で部屋に誰もいないことが確認できた。
先程のしゃがみ込んでいる男性のもとに行き、肩をかして部屋へ案内する。寝台の上に男性を寝かし、侍女を呼びに行こうと、男性から離れようとしたら・・・・。
++++++++++
クロエがコルベール伯爵家のタウンハウスへ戻ったのは、寝台で起きた日の更に翌日になってからだった。
王族主催の王宮舞踏会でお泊まりなんて・・・・しかも二泊。
なんであんな軽はずみの行動をしてしまったのだろう。
家に帰った時には、いつの間にか相手の男性とクロエの婚約が決まっていた。
そうして1週間経った今日、その男性と改めてタウンハウスの応接室で会うことになった。
屋敷の前に馬車が止まった音がする。
普通なら玄関まで迎えに行き、挨拶をするのが礼儀なのだが、父から、今日は応接室にて新しい婚約者が来るまで待っていなさいと言われた。
タウンハウスは大きくない。その為、執事が玄関で応対している声が微かに聞こえる。続けて、迎えに出た父の声が聞こえる。
応接室にてその音を聞いていた。何を話しているかは判らない。
10分程して廊下を歩く音が聞こえた。
クロエは席を立つ。
応接室の扉が開いて執事の案内でナチュラルブロンドの男性が部屋に入って来た。
「お久しぶりです。クロエ様。この度は婚約を了承して頂きありがとうございます。」
男性・・・アレクシス第三王子は、手にしていた桃色の薔薇の花束をクロエに手渡す。
「ありがとうございます。」
クロエは顔を真っ赤にして薔薇の花束を受け取る。
そのまま、二人ともテーブルを挟んでソファーに向き合って座る。
クロエは心の中で狼狽する。
目の前に王子様がいる。
恋愛劇の主役が脇役にすらなれない令嬢の前にいる。
本来なら婚約者同士といえども未婚の男女が部屋で二人きりになることは推奨出来ない。
だが、執事もメイドもお茶の準備をしたら、直ぐに応接室を出て行った。
誰でもいい。
誰か一緒にいてくれ。
クロエは心の中で助けを求める。
王子様と話したことがない。何を話せば良いのか判らない。
正確には王宮舞踏会で挨拶はしたことがあるのだが、挨拶とお喋りは違う。
誰でもいい。
今すぐ、白馬に乗らなくていいから私だけの王子様、助けに来て。
クロエがそんな馬鹿なことを考えて、薔薇の花束をずっと見ていたら、視線を感じた。
顔を上げると、アレクシスと目が合う。
この世の者とは思えない神々しい笑顔をクロエに向ける。
どうしよう。気を失ってもいいかしら。私、こんな美青年を間近で見たことが無い。
更に、顔か赤くなる。耳も当然赤くなる。気付いたら両手も赤くなっていた。
心臓が破裂するかのように音を立てる。
再び薔薇の花束を見る。
これ以上アレクシスを見たら。間違いなく心不全で死ぬ自信がある。
どれぐらいそのまま静かにしていたか。
突然アレクシスが話し出した。
「先日は、本当に申し訳なかった。」
アレクシスはクロエに対して、謝罪の言葉を口にした。
++++++++++
あの日アレクシスは、王宮舞踏会で沢山の女性に囲まれていた。
アレクシスは現国王の三番目の息子として生まれた。母親はフランクール伯爵家出身の第二側妃アナ。
この国において王位継承の順位は、まず王妃の子である男子が第一位。王妃に男子の子がいなければ側妃の子が継ぐことが出来る。
その為、現在王太子は王妃が生んだ第一王子アルフレッド。
ちなみにアルフレッドとアレクシスの間には第一側妃が生んだ第二王子アナトールがいる。
つまりアレクシスが王位を継ぐことは限りなく『無い』のである。
更に王族という理由で爵位を賜ることもない。
基本的には母方の爵位を継ぐか、何処かに入婿するか、一生結婚せず王族に残り国の為に働くかである。
アレクシスの母方の爵位は既に母の弟が継いでおり、他に余った爵位はない。
その為、王族に残り、国の為に働くことを選んだアレクシスは、王立植物研究所で研究員として働いていた。
現在23歳。
その顔は、王族の特徴を色濃く受けており、100人中100人が美しいと言う容姿だった。
デビューしたての貴族令嬢なら、絵に描いたような王子様に憧れ、彼と恋をすることに夢を見るのは当然。王宮舞踏会では若い貴族令嬢が彼の回りを囲み、ダンスの申し込みを待っている。
しかし、実際は継ぐ爵位のないアレクシスは結婚相手としては論外。若い貴族令嬢の親達は、何とか娘の興味を他に向けようと必死である。
だが、若い貴族令嬢達は親という名の恋の障害があればあるほど燃えるのである。
そして、燃えすぎた令嬢の一人が、あの日、あの王宮舞踏会の日に、アレクシスの飲み物に媚薬を入れたのだ。
既成事実を盾にアレクシスに結婚を迫るつもりだったのだろうか。
直ぐに薬をもられたことに気付いたアレクシスは令嬢達を丁寧に振り払って、何とかあの廊下まで逃げて来たが、身体は限界に達していた。
そう、クロエはお腹を空かせた狼の、いや、薬をもられて限界に達していた男性の前に、自ら、皿に乗った兎のように近付いてしまったのだった。
馬鹿。阿呆。間抜け・・・・。
とにかく既成事実の出来上がり。
王子様との婚約に相成ったのである。
ただ、、ここで面白いことが起こった。
実は、クロエには既成事実の記憶がさっぱり無い。
アレクシスと口付けをした際に媚薬の一部をクロエも摂取したらしい。
王宮にいる医師達の見立てによるとこの媚薬は、男性が摂取すると機能を高め、女性が摂取すると一切の痛みを無くし、興奮したあと、全ての記憶を失うという珍しい媚薬とのことで、犯罪等に利用されることが多いため、現在国内では流通していないそうだ。
小難しいことはさておき、副作用は無いとのことだけは、理解できた。
しいて理解できないと言えば『燃えすぎた令嬢』は何故、そのような珍しい媚薬を使ったのだろう。女性に記憶がないなら、男性が既成事実はないと突っぱねられる可能性もあっただろうに。
部屋に入ったあと、誰かが部屋を訪ねるような手配でもしていたのかしら。