第17話 邪神バハヌイール
レブが家に戻ると、ウィルが息をひそめて椅子に座っていた。言われたとおり、静かに待っていたようだ。
レブを見て、安堵の表情を浮かべたウィルが立ち上がり、一礼した。
「おかえりなさいませ」
「おう」
「さっきの女性とは、大丈夫でしたか?」
ウィルは、ハーピーのダフネのことを言っているようだ。
「ああ。ちょっとした知り合いでな。世間話をしただけだ」
実際には、その後にコロコッタのフェザンが来て、ジャンナが来たのだが、ウィルにそれを言う必要はない。
「とりあえず今後の話をする前に、茶でも入れてくれ」
「わかりました」
ウィルはそうしたことは得意なようで、すぐにてきぱきと動きだし、茶をいれた。
レブがベッドに腰掛け、カップを運んできたウィルが椅子に座る。
「ところで、レブ様。何で天井が……」
そう言って、ウィルは天井を見上げる。
レブは見なくてもわかる。テント生地で塞いでいるが、壁と生地の隙間から細く青空が見える。
レブは自分の膝に飛び乗ってきたティコの背中を撫でた。
彼女はウィルがいるからだろう。人語を話さず、にーと鳴いた。おかえりと言っているのだ。
「天井のことは気にするな。もうじき修理することになってる。それに天井が無きゃ、天井裏に潜んで盗み聞きする奴がいないか心配しなくていいだろ?」
「はあ。そうかもしれませんが」
ウィルはわけがわからないという顔だが、それ以上は聞かないことにしたようだ。
レブはそんなウィルの様子は気にせず、子猫の暖かくて柔らかい背中を撫でながら、今後のことを話すことにする。
「それよりよ。いきがかり上お前を助けたが、そんなに長くここに隠れてるってわけにはいかねえぞ。それはわかるよな」
「はい」ウィルはうなだれた。
「誤解するなよ。お前が邪魔ってわけじゃねえ。ただお前に追っ手はかかるだろうし、犯人は時間が経てば経つほど見つけるのが難しくなる。いいか。今日明日でケリをつけるぞ。駄目だったら、お前はこのフィレノを出るしかねえ。その覚悟はしとけ」
「わかりました」
「さしあたっては、犯人の目星だな。さっき話した時には思いつかなかったが、あれから何か浮かんだりしねえか」
ウィルは黙ったままだが、考えてはいるようだ。レブはまずは入り口から話すことにした。
「まず俺たちがエルバリオの家に行った。家にいた使用人たちは、眠らされてたよな。エルバリオは声をあげる間もなく殺されたってことになる。お前が叫んではじめて、家にいた奴らは起きたわけだ。エルバリオが断末魔の声を上げてたら、眠ってた奴らは起きただろうからな」
主人の死に様を思い出したのか、ウィルは目を伏せた。
「そうですよね。ああ。私が家を離れていた間にあんなことになっていたとは。サー・エルバリオが誰かに殺されたなんていまだに信じられません」
「あのな、自分じゃ気づかねえうちに人から恨まれることはあるんだよ。お前の気持ちはわかるけどよ。いつも自分の思う正しさが通るわけじゃねえ。壁が嫌だからって避けて通ってばっかりじゃ、目的地に辿りつかねえぞ」
――まあ人のことは言えねえんだがな。
レブは自嘲する。
魔王の跡目相続で、三男のナークと次男のラーゴンが揉めている。
レブにしてみれば、勝手にやってろという気分でいた。
我関せずを通していたら、八番目のマーさんと戦う羽目になった。これからもラーゴンの手下どもは来るだろう。
生きていれば、様々な軋轢が生まれるものだ。レブとしては、立ちはだかる壁は、すべて完膚なきまでに打ち壊して前に進むつもりではある。
「じゃあ、他には」とレブが言う。「エルバリオは騎士だ。騎士には義務って奴があるよな」
騎士は主君に忠誠を誓って、ただ戦に参加するだけが仕事ではない。平時には、街の守護であったり、主君から預かる宝などを警備することもある。
そして名誉がついてまわる。名誉を守る為に決闘することもあるわけで、そこで禍根を残したということはないだろうか。
考えながら、レブは頭の後ろで手を組み、背後の壁に寄りかかった。エルバリオは、レブから優勝を150万ゴオルで買うような男だ。
名誉は金になるし、また維持するには金がかかる。それをエルバリオはわかっていた。だから、レブから勝ちを買った時も、最初は断ったが勝てぬと知ればすぐさま買うことを決断したのだ。
今までも人生の岐路で、そうした選択をしてきたことは十分考えられる。
ならば、誰かの恨みも買っている筈だ。
たとえ品行方正な人間であっても、恨みを買うのが世の常だ。
筋を通せば恨まれるし、無理を通しても恨まれる。
そこだけは、魔族も人間も変わりはない。
この世は本当に面倒くせえなあ、とレブは小さく呟いた。
生前の魔王シャルクは、人間とは調和であると言ったことがあるが、これのどこが調和だというのだろう。
「何かおっしゃいましたか?」
ウィルが尋ねるので、レブはかぶりを振った。
「なんも言ってねえよ」
「わかりました。そういえば、サー・エルバリオは封印の守護者でした」
ウィルが唐突に言うので、レブは考え事を中断した。
「封印? なんだそれは」
「はい。太古の邪神バハヌイールが、六つに分けられて封印されているのはご存知だと思いますが、その一つ、右腕の封印の守護を担っているのがサー・エルバリオです」
それはご存知なかった。
レブは邪神バハヌイールの名前を聞いたことはあるが、六つに分けて封印されているというのは初耳だ。
レブは片手にティコを抱きかかえたまま立ち上がり、ウィルに近づいた。
「レブ様。どうされましたか?」
と尋ねるウィルの脳天に、無言で手刀を落とした。
「あいたっ。何で叩くんですか」
「何でもっと早くそれを言わねえんだよ! それはエルバリオが狙われる理由のかなり上位に入るだろ!」
「でも、今まで何もなかったわけですよ」
「それは今までの話だろうが。もっとよく聞かせろ。その話」
ウィルは涙目になりながら、頭をさすった。
「レブ様は、邪神バハヌイールのことはご存知ですか?」
「とおりいっぺんは知ってるかな」
「邪神バハヌイールは混沌の神とも怒りの神とも言われていますが、太古の昔、神話の時代に、光の神の加護を受けた人類によって封じられました。過去に二度ほど、一部だけ復活したことがありますが、そのたびに人間の手によって封じられています」
「聞いたことはあるな。西の海も、邪神の腕が大陸を削って出来たとか、東の山脈を削って双子山にしたとかな」
「ええ。それが神話の時代の話です。その後も数百年前に他の街で、邪神の一部だけ封印が解かれた時には、その街は壊滅したと言われています」
人間の世界では邪神と呼ばれる存在のバハヌイールは、レブたち魔族にとって神というわけではない。魔族に神というものは存在しない。
「邪神バハヌイールが完全に復活すれば、世界は混沌と闇の世界と化すことでしょう。いわば魔界のようなものですね」
「いや、そこまで悪いもんでもねえぞ」
故郷を悪く言われたようで、レブはつい言ってしまう。
「何がですか?」
ウィルが訊くので、レブは肩をすくめて誤魔化した。
「邪神の復活を防ぐため、その体は、六つに分けられ、国内に分散して封印されています。このフィレノには邪神の右腕が封印されているのです」
「なあ、邪神バハヌイールが復活すると、何が問題なんだ?」
「は?」
ウィルは目をぱちくりとさせた。レブの言っている意味が最初は理解できなかったようだ。
まるでレブが彼を試す為に言ったかのように、注意深く、ゆっくりと答える。
「だって、邪神バハヌイールが復活すれば、世界は善も悪も入り混じった、混沌と化すのですよ」
「一つになるってことは、誰もはじかれないってことだろ」
「誰もが死者となるだけです。生者の世界は崩壊します」
「ああ。そういうことか」
皆が等しく死んでしまうのでは、それを混沌とは呼べない。
「死は逃れられぬものではありますが、邪神によって決められていいものではありません。サー・エルバリオは仰っていました。その邪神バハヌイールの復活を、魔族が狙っているのだそうです」
今度はレブは目をぱちくりとさせる番だった。
「魔族が邪神バハヌイールを?」
「はい」
「聞いたことねえぞ。そんな話」レブはそう言ってしまう。
「え?」
「あ、いやなんでもない」
魔族が邪神の復活を企んでいるとは、レブも魔族であるが初めて聞いた。
魔王軍でそんな作戦を実行している部隊があっただろうか。
魔王シャルクの魔王軍ではレブは四天王だったから、彼の耳にあらゆる情報が届けられていたが、今は違う。
レブの知らないところで、何かが動いているのかもしれない。
何を考えているかわからない四男のリゲータあたりなら、十分ありえる話だ。
「それで、邪神バハヌイールの右腕を封印する鍵を、サー・エルバリオが守護していたのです」
「それって今どこにあるんだ?」
「私も見たことがないのでわからないんですよ」
「どこにあんのかね。もしかすっと犯人が持ってるかもしれねえな」
言いつつ、レブは何気なくウィルを見た。異変に気付いて、体を起こす。
「おい。お前の目、どうなってんだ?」
「え? 何かおかしいですか?」
「おかしいなんてもんじゃねえよ」
ついさっきまで青かったウィルの瞳の色が、白銀に変わっている。
武闘会で戦った時の、エルバリオの瞳と同じ色だ。
「中庭に水場がある。そこに鏡があるからそれで見て来い」
「わ、わかりました」
出て行ったウィルを待つことしばし、その間にティコが口を開いた。
「なんで目の色が変わってしもうたんかいの」
「俺にもわからん」
外から、うわー、とウィルが驚いたような声を出している。
レブとティコは顔を見合わせた。お互いにこれという答えは出ない。
慌てふためいたウィルが部屋に戻ってきた。
「なんなんですか。これ! 目の色が!」
「お前が知らねえなら、俺だってわからねえよ」
「サー・エルバリオと同じ瞳の色になってますよ。私」
「医者に見せようにもお前、お尋ね者だしな。それ、痛かったりすんのか? 世界の見え方は?」
「痛くもないし、見えるものも今までと一緒です」
「そうか。じゃあ、なおさらわからねえな。犯人の方もあてがねえことだし、どうする。邪神の右腕が封印されてるところでも見に行ってみるか」
そう言って、レブは上を見上げた。
天井の穴を覆うテント生地の隙間から、青空が見える。
晴天である。天井が無くて良いところは、見上げれば空の様子がすぐにわかるところだ。
上を向いていたレブの目に何か入った。軽い違和感がある。
眼球というものは鍛えられない。それは魔族も同じで、だから弱点でもあるのだ。
レブは舌打ちして目を瞑った。しばらくまばたきを繰り返すと、痛みはおさまる。
「目に何か入ったみてえだ。ちょっと洗ってくる」
外に出て、建物の中庭にある水場に向かおうとしたレブは、自室の扉をくぐったところで立ち止まった。
階段へ続く廊下は、通りに面しているのだが、街の様子がおかしい。
街全体が、キラキラと輝いている。
それは光の粒が、空から街へと静かに降り注いでいるからだとレブは気づいた。
視界がふさがれるほどではないが、無数の光る粒が街を覆っている。
その粒が音を吸い尽くしたかのように、街は静かだった。
「砂嵐ってわけでもなさそうだな」
見れば、通りのそこかしこに人々が倒れている。動く者は一人もいない。
買い物途中の女性は、買い物籠の中身を石畳にまいている。店先の主人も、つっぷして動かない。
道沿いに椅子を出して座っていた老人も、座ったまま目をつむっている。
通りを見下ろすレブの前を、一台の馬車が朗らかな音をさせて走っていく。御者はふんぞり返ったような姿勢で、座ったまま動かない。
「何だ。これは」
レブは静寂を破らないように、小さく呟いた。
まさか全員死んでいるのだろうかと考えたレブは、振り返って、部屋の中のウィルに声をかける。
「おい。ウィル。街の様子がおかしい」
「どうしたんですか? えー。これは」
部屋からそっと出てきたウィルも驚いたようだ。
「まさか、皆さん死んでるってことはないですよね?」
「わからねえ。ティコ」
使い魔を呼ぶと、にー、と返事が返ってくる。
「外の様子を見てくる。何が起きてるかわからねえから、お前はここにいろ」
にー、とティコは鳴いた。気をつけてな、と言っているのだ。
ウィルが当たり前のように言う
「私も、ここにいます」
「馬鹿野郎。お前は来るんだよ」




