♯2-1
死神は、レンガの壁に囲まれた袋小路で立ち止まった。このあたりは、周辺の店舗が共有しているごみ置き場である。まわりには、雪に埋もれた収集箱やポリバケツ以外に、何もない。ただ、明滅を繰り返す外灯が、それらに青白い光を投げかけるばかりだ。
彼らの前には、レンガの壁が立ちはだかっている。
「行き止まり、だけど……」
「まあ、“生者”にとってはな」
死神は意味深な口調で言うと、片手を壁にあてがった――その手は、固いはずのレンガの壁をいとも簡単にすりぬけ、あるはずのない、向こう側へと吸い込まれていく――恭助が呆気にとられているあいだに、彼の身体は、鎌ごと壁のなかに呑みこまれてしまった。恭助はひとり、その場に取り残される。恭助にとって壁は壁であり、その向こうに空間があるなどとは、今まで想像もしなかったことだ。
彼は躊躇っていた。
「――何をしている。早く来い」
「うっわ!」
恭助は思わず声をあげた。
向こう側から死神の手があらわれ、彼の腕をぐいとつかんだのである。とっさに抵抗も出来ず、恭助は半ば強引に、壁の中へと引きずり込まれた。
閉ざされた空間。
ふり返っても、路地は見えない。
あたりはどっぷりと深い闇に支配される――恭助は重苦しい空間の中でひとり、恐怖した。
(……コロシテヤル)
ふいに悪夢の断片がよみがえる。
見えざる手に首を絞められるような錯覚。
恭助が長いあいだ苦しめられてきた、幻想だ。彼は、その場に倒れこんでいた。身体の震えが止まらない。息が出来なくなりそうだった。闇から逃れようと、もがけばもがくほど呼吸は苦しくなっていく。恭助は息を切らしながら、地面に爪を立てた。
(……殺、される)
ぱちり、と乾いた音がこだました。
煌々(こうこう)と燃え上がる炎――壁の両わきに備えつけられた蝋燭が、狭い通路を浮かびあがらせ、その空間の一部があらわになっていた。こげついたレンガの壁。通路の幅は、人ひとりが通るだけで精いっぱいだ。床には、石畳が敷かれている。
恭助は床に転がったまま、表情を強ばらせていた。額には、べったりと汗が滲んでいる。少しずつ、薄らいでいく恐怖。やっとのことで落ち着きを取り戻した恭助は、壁をたよりに、よろめきながら立ち上がった。
「何をしている」
「な……なんでも、ない」
そうか、と一瞥をくれると、死神はそれきり何も言わずに歩きだした。恭助のことを気遣うようすは微塵もない。等間隔に置かれた蝋燭は、死神が先へと進むにつれて新しく灯され、通り過ぎるとまもなく消えていく。
恭助はその後ろ姿を見失うまいと、時おり転びそうになりながら、小走りに彼のあとをついていった。
「ここだ」
狭苦しい通路を過ぎて、少しばかり広くなった空間に、レンガに嵌めこまれた大きな木製の扉があった。よく磨きこまれたそれは、蝋燭に照らされた彼らの姿を、ぼんやりと映しだしている。死神は小さく息をもらすと、扉の“取っ手”に手をかけた。ぎぎぎ、と軋んだ音を響かせながら、ゆっくりと手前に開く扉。
その向こうには、壮麗な空間が広がっていた。高い天井から吊るされた、大きなシャンデリア。いくつもの燭台が、だだっ広いホールを浮かびあがらせている。白い大理石の床には深紅の絨毯が敷かれており、至るところに彫刻や、観葉植物などが置かれていた。その中央に、真ん中から左右に分かれるタイプの大階段。2階には無数の本棚が並んでいる。
まるで、大富豪のお屋敷のようだ。
(伯父さんが見たら、きっと喜ぶだろうな……)
恭助はぼんやりとそう思いながら、内部のようすを見渡した。黒いローブを身に纏った人影が、ちらほらと窺える。彼らは一様にしてフードをかぶり、言葉を何ひとつ交わさずに、ホールの中を音もなく行きかっている――不気味、だ。
「ここにいるの……全員、死神なの?」
「ああ」
死神は、足早に大階段をのぼっていく。恭助は、まわりの何とも言えない視線を感じながら、
「ここは?」
「――【情報屋】だ」
死神は恭助をふり返りもせずに、淡々と答えた。どうやら、それ以上、会話をしようとする意思はないようだ。恭助は小さくため息をもらしたあと、仕方なく、死神のあとにつづいた。
目的地に辿りついたのは、個室が並んだ廊下を過ぎ、湿っぽい石畳の階段を下りたあとのことだった。地下にある一室だ。扉、というよりも木目の目立つ板には、そこら中にガムテープが貼ってあり、やけにみすぼらしい印象を与えた。不器用な字で“書斎”と書かれた紙が、無造作に貼られている。
死神は、今にも壊れそうな扉をノックしながら、部屋の主に声をかけた。
「ゼロ」
返事はない。
「ゼロ」
やはり、返事はない。
扉の向こうはしんと静まり返っている。どれほどノックをしようとも、声をかけようとも、まるで音沙汰がない。
「おい、ゼロ!」
「…………留守なんじゃ、ないのかな」
恭助は遠慮がちに声をかけた。
「いや、居留守だ」
死神は、肩に担がせていた鎌を両手にかまえ、目の前の扉をじっと見据えた。恭助は反射的に後ずさりをした。彼の背後にただならぬ雰囲気を感じたからだ。ひと息の間をおいて、死神は勢いよく鎌を振りおろした。傷だらけの扉が、その力にかなうはずもない。見事なまでに木っ端みじんである。
耳を塞ぎたくなるような爆音に、さすがに気がついたらしい。書斎の主は、なんだいなんだい、と血相を変えて飛びだしてきた。継ぎはぎだらけの、くたびれたローブを身に纏った猫背の男。左目に眼帯をしている。色素の薄い髪は縮れており、あちらこちらに、ひどい寝癖がついていた。どうやら、今まで眠りこけていたらしい。
彼は恭助と死神を交互に見やって、「おや、めずらしいお客さんだねえ」と、興味深そうにニヤニヤ笑いを浮かべた。
「久しぶりに訪ねてみれば」
と、死神はいきなり彼の胸ぐらをつかんだ。
「仕事もしないで、惰眠をむさぼっているとは……いいご身分だな。ゼロ」
「ご、誤解だよ」
「黙れ」
死神の言葉には、わずかながらに怒りが滲んでいた。まったくの無感情というわけではないらしい――抜き差しならない雰囲気の中で、恭助は少しほっとしていた。
「これには、ちょっとしたワケがあるんだよ」
「どんな訳だ」
「ま、まあまあ……それはともかく、さ。キミがここまで来るってことは、よっぽど切羽つまってるんじゃないのかい?」
書斎の主は引き攣った笑みを浮かべる。
「やっかいなことになった」
死神はようやく彼から手を離し、深々とため息をもらした。それで何かを悟ったらしい彼は、「まあ、ついておいで……」と、乱れたローブはそのままに、粉々になった扉の残骸をまたいで、部屋の奥へと姿を消した。