♯1-4
病院から出るまでのあいだ、彼らは何ひとつ、言葉を交わさなかった。病棟のまわりの外灯には明かりが灯り、何十本という樹木がぼんやりと照らされている。彼らは、どちらからともなく立ち止まった。小高い丘の上。眼下には、雪化粧をほどこされた街並みが広がっている。空は相変わらず分厚い雲に覆われているが、雪は止んでいた。
恭助の頭には、霊安室で目にした光景が焼きついていた。長いあいだ生活を共にしてきたが、あんなに狼狽えた伯父の姿は、初めてだった。
「…………悪夢、だ」
恭助は受け入れられずにいた。脳裏によぎる、あまりにも長すぎた一瞬。トラックに撥ねられた恭助は、痛みを感じることもなく、ただ眠るように瞼を閉じた。何の躊躇いもなく。彼は、電話に出なかったことを後悔した。
(あれが最後だなんて……)
死神はといえば、肩に鎌を担がせながら、恭助の背後にじっと佇んでいた。彼には理解出来なかった。恭助の目から滴(したた)り落ちる液体が、何を意味しているのかを。
「なぜ、泣くのだ」
その言葉に思わずふり返った恭助は、はっとした。
透きとおった灰色の瞳には、何の感情も映しだされていない。生気のない、冷淡なまなざし。この男が “死神” であるという事実が、恭助の中で、ようやく現実味を帯びてくる。
しに、ガミ。
「僕はまだ、死にたくない」
恭助は震える声を絞りだした。
「だって、まだ……」
「お前は死んだのだ」
閑静な丘の上に、どこまでも冷たい風が吹きぬける。
「…………なんで」
彼は、ぽつりともらした。
「なんで僕を殺したんだ」
死神は少しばかり驚いたように、
「私がお前を、殺した?」
「だって、あんた。死神、だろ」
涙を滲ませる恭助を見て、死神はやれやれといわんばかりにため息をもらした。「仕方がないな……」と彼はローブの懐から封筒を取りだすなり、それを恭助の目の前に突きつける。そこには、彼の個人情報が印字されていた。氏名、年齢、性別……最後の項目は、死因だ。その下には“死神局総司令部” の文字。恭助は首をかしげた。
「何、これ」
「先ほど、私に届いた依頼だ。まあ、正確には“どこかの死神に”、だが」
彼は咳払いをひとつして、「私たち【死神】の仕事は、死者の魂を “あの世” へ送り届けること。それ以外のことには関わらない――つまり、この封筒が届いた時点で、お前の死は確定していたのだ」
「どういう、こと?」
「寿命、だ」
死神は封筒をしまいながら、無造作に言い放った。
その時、恭助はふと彼のことを思いだした。横断歩道で右往左往していた、杖をついた老人だ。恭助は「助かったかな?」と心配そうな面もちで呟いた。死神は、小さく首をかしげる。
「おじいさんだよ。僕、その人を助けようとして、それで……」
「車に撥ねられた、というわけか。まあ、私の知ったことではないが……同日同時刻、お前の他に死者はいないはずだ」
恭助は、小さくため息をもらした――これでよかったのだ。彼は懸命に、そう自分に言い聞かせようとした。あの人を助けられたのだから、と。そう思いながらも、恭助の心には言葉なき葛藤が、渦巻いていた。
「もう十分だろう」
死神はそう言って、鎌の柄で地面を強く突いた――何もないはずの空間から、ごてごてと飾りつけられた荘厳な扉が、その姿をあらわす。まるで、劇場の舞台下からせり上がってくるように――青銅を思わせる両開きの扉は、蔦やら蜘蛛の糸やらが絡まりついており、よほど古くから使われている物のようだ。黴臭さが鼻をつく。扉のまわりには、天使や薔薇などの細かな装飾がなされている。上部には天秤や、“考えるひと”などの彫刻がなされており、異様な雰囲気を醸しだしている。何をモチーフにしているのか、今ひとつわかりづらい芸術品のようだ。
「何、これ」
恭助は、身の丈の倍はありそうなそれを見上げて、不思議そうに呟いた。
「“あの世”への【扉】、だ」
死神は答えながら、銀色の懐中時計を取りだす。時刻は、午後6時02分。彼の計算によれば、扉が閉ざされるまでの猶予は、あとわずかだ。
「時間だ」
死神は淡々とそう告げた。
(あの世……)
そこに何が待ち受けているのか、恭助は知る由もない。どんな世界が広がっているのか、想像もつかない。恐怖を感じないと言えば、それは嘘になる。向こう側へ一歩でも足を踏みいれてしまったら、もう二度と戻って来られないかもしれない。しかし、彼が扉に手をかけることを躊躇っていたのは、それだけではなかった。
恭助はじっとうつむいた。
「僕は、まだ行けない」
その場を動こうとしない恭助に、死神は小さくため息をもらしたあと、「――お前に何が出来る」と、冷たいまなざしを向けた。まるで、恭助の心の内を見透かしたような言葉だ。
「たとえ “現世” に残ったところで、お前はすでに死んだ人間だ。出来ることなど何もない」
「だとしても、さ」
否定されてもなお、恭助は食い下がる。
恭助の頭には、悲しみに暮れる伯父・神宮司の姿が浮かんでいた。生まれてまもなく両親を亡くし、孤独だった恭助にとって、神宮司は父親のような存在である。数年前に妻を亡くしており、恭助までいなくなってしまった今、彼には身寄りがないも同然だった。唯一の家族といえば、“公爵さま” という名の猫だけだ。
「せめて……」
「言ったはずだ。もうじき、扉が閉ざされる。時間がないのだ。たとえ、お前にどんな事情があろうとも、私の知ったことではない」
その時、勢いよく風が吹き抜け、樹木に残っていた葉を一度に奪い去った。
恭助はそれ以上、反論することが出来なかった。
あの世への扉――強制的にそれと向き合わされた恭助は、思わず息を呑んだ。正面から見るといっそう不気味だ。扉には、細かな紋様が刻まれている。錆びた取っ手。恭助の背後に立った死神は、鎌を片手にじっと彼を睨んでいる。逃げ場はない。瞬く間に、これまでの記憶が恭助の脳裏を駆け巡っていく。それは、“この世”を離れるための通過儀礼のようでもあり、また、惜別のようでもあった。「もう時間がない。早くしろ」と死神に急かされるまま、恭助は仰々(ぎょうぎょう)しい扉の“取っ手”に手をかける。
(ごめん……)
ついに恭助は思いきって、その扉を押し開けた――つもり、だった。
扉は、ぴくりとも動かない。
何度も押したり引いたりしてみても、そのたびに、軋むような音がするばかりだ。壊れているのだろうか。それとも、鍵がかかっているのだろうか。しかし、そこに鍵穴らしきものは見あたらない。ただ、冷たい青銅に腰かける“考えるひと” だけが、不気味な微笑みを浮かべている。
「何をしているのだ、早く……」
死神の声には焦りが滲んでいた。
その時、彼の手にしている懐中時計がかちり、と音を立てる。午後6時15分。時計の針が合った瞬間、扉は砂のように崩れていき、跡形もなく消え去った――あの世への道は今、完全に閉ざされてしまったのである。扉があったはずの空を見つめ、彼らは茫然と立ち尽くすしかなかった。