♯1-3
雪は、しだいに小降りになりつつあった。どれほどのあいだ、走り続けていただろう。恭助がふと足を止めたそこは、住宅街から少し離れた場所に建てられた病院だ。病棟のまわりは、多くの樹木に囲まれている。あたりはしんと静まり返っており、人の姿はない。彼はまだ少し息を切らせながら、目の前にあるひときわ大きな樹木を見上げた――残りわずかな葉が、雪の重みで今にも落ちそうだ。
白の世界に囲まれた恭助は、この世にただひとり取り残されてしまったような、漠然とした不安を感じた。
(――夢なんだ。これは)
「死神……」
恭助はあの男の姿を思い浮かべて、ため息をもらした。
何か物足りないような気もしたが、黒いローブという出で立ちは、死神というにふさわしい。血色のない肌や、生気を感じさせない瞳。思いのほか美人であるという点を除けば、生とは反対側にいる彼ら、そのものだ。もし、“死神だ”なんて自己紹介さえされなければ、絵のモデルをお願いしているかも知れない。
(何を考えているんだ、僕は……)
いつまで経っても変わらない景色に、彼は苛立ちをおぼえた。いい加減、夢ならば覚めてもいい頃だ。思わずため息が洩れる。
「寝不足だから、こんな夢を……」
彼が、そう呟きかけた時だった。
「ほう。死者が寝不足とは、滑稽だな。御手洗 恭助」
聞き覚えのある声だ。
頭上を見上げると案の定、いた。
樹木の太い幹に、先ほどの男が腰かけている。ローブの裾を風になびかせながら、恭助をじっと見下ろす、白髪の男――【死神】、だ。何やら、棒のようなものを携えている。不気味さを感じさせる代物。どことなく見たことがあるような、それは――鎌、だった。とはいえ、普段よく目にするものとは比べものにならないほど、大きい。二メートル弱はある、まっすぐに伸びた柄。研ぎすまされた刃は、首を刈るために作られたのではないかと思えるほど、罪作りな曲線を描いている。
「――失礼」
男は音もなく降り立つと、呆気にとられている恭助の背後に回りこみ、その鋭い切っ先を彼の首筋にあてがった。とっさのことに、恭助は声を出すことも、身動きすることも出来なかった。
(殺、される……)
透きとおった刃に映りこんだ自らの顔は、情けないほどに引き攣っていた。これから為されるであろう、残虐な仕打ちを思い浮かべて、恭助は思わず目をつむった。
(いや、待てよ)
どうせ、これも夢の戯れだ。そうだとわかっていれば、怖いものなど何もない。そう思い直した恭助は、「し、信じないからな……死神、なんて!」唇を小刻みに震わせながら、懸命に言葉を絞りだした。
「信じる、信じないはお前の勝手だが……問題は、時間がないということだ」
そう言いながら、男は鎌の切っ先をどけた。言い知れない圧迫感からようやく解放された恭助は、小さく安堵のため息をもらしたあと、首をかしげる。男は、鎌を肩に担がせながら、ローブの懐に手をさしいれていた。そこから取りだされたのは、銀色の懐中時計だ。ところどころ錆びている。
男は時計の針を確認しながら、「死後、およそ3時間で【扉】は閉ざされる。それまでに私は、お前を送り届けなければならない」
「送り届けるって、どこへ?」
「聞くまでもない。“あの世” に決まっている」
「…………は?」
「あの世、だ」
(何を言っているんだ、こいつは)
「ひとつ、確かめておきたいことがある」
男は懐中時計をしまいながら、真面目な顔をして恭助に向き直った。
「――“死因”、だ」
「え?」
「つまり、お前は“どのような死に方”をしたのか、と訊いている。まあ、あの状況を見ればだいたい見当はつくが……念のため、だ」
「そ、そんなこと、言われても……」
(嫌な夢だ)
恭助は小さくため息をもらした。
伯父にあんな態度をとってしまうわ、トラックに撥ねられるわ、死神につきまとわれるわ、さんざんである。こいつが現れてからというもの、ロクなことがない。むしろ、この男がすべての元凶なのではないだろうか。
今までの経緯を思い返していた恭助は、ふと、疑問に思った。
いったいどこまでが現実なのだろう、と。
「これは、夢なんだ」
不安に駆られた恭助は、話しかけるでもなく、ぽつりともらした。
「まだ、そんなことを言っているのか」
男は呆れたような視線を向けた。
いつまで経っても、覚めない夢。
あまりにもリアルな街並み、あまりにも不自然な感覚。恭助は、ある種の違和感を感じていた。男から逃げだした際、その場にいた誰も、彼の姿を見とがめる者はいなかったのだ。あれだけの人がいたというのに、ぶつかった覚えもない。いくら恭助が細身とはいえ、だ。
恭助は浮かびあがってきた可能性を打ち消すように、首を横にふった。男は、じっと押し黙っている恭助に歩み寄り、唐突に彼の腕をつかんだ。
「来い」
「ち、ちょっと……」
「“現実” を見せてやる」
男はローブの裾をなびかせながら、半開きになっている入り口へ向かった。彼の目の前できれいな白髪が揺れる。恭助は、半ば引っぱられるようにして、彼のあとに続いた。その手を振りはらおうと何度か試みてみたが、男は骨っぽいわりに力が強く、まるでかなわない。大ぶりの鎌を片手で担いでいるのだから、その腕力は相当なものだろう。
男の指先から、じんわりと冷たさが滲んでくる。
嫌な予感がした。
恭助が連れて来られたのは、非常灯だけに照らされた薄暗い廊下だった。男は、その一角にある部屋の前で、はたと足を止めた。少しばかりの隙間から、うっすらと室内の明かりが漏れだしている。扉のプレートには、霊安室と書かれていた。
「ここだ」
室内を覗きもせずに、彼は断言した。
かすかに人の声が聞こえる。
「……伯父、さん?」
恭助はしばらくのあいだ躊躇っていたが、おそるおそる、扉の隙間から中のようすを窺った――仏具が備えつけられた、こぶりの祭壇。蝋燭に照らされた室内。輪郭は、はっきりしない。しかし、中央のベッドに寝かされているのは、他ならぬ、恭助自身だ。そのまわりを囲むようにして、二人の人物が頭を垂れている。
ベッドを挟んで奥には、見知らぬスーツ姿の男。膝をおっているもうひとりは後ろ姿だったが、恭助の伯父――神宮司 透、その人だ。彼は防寒着も持っておらず、シャツにベストという出で立ちのままだった。彼は、ベッドの脇で、恭助の亡骸を前に茫然としている。
「…………恭、助」
恭助は思わずどきりとした。
弱々しい声が、恭助の身に何が起こったのかを物語っていた。
彼自身も認めたくない、事実を。
「あの時、オレが……無理にでも、引き止めていれば」
神宮司はベッドに縋りつくようにして、何度も、何度も謝罪の言葉を口にした。まるで、自分に責任があるとでも言うように。
「伯父さんのせいじゃない」
恭助は思わず声に出していた。
彼に気づいてほしかったのだ。これはただの夢なのだ、と。目が覚めさえすれば、いつもの日常で会えるのだ、と。恭助は、まだ望みを捨てきれなかった。
神宮司の真向かいにいた男が、恭助の顔にゆっくりと丁寧な手つきで、白く薄い布をかぶせる。横たえられた恭助の顔は、小さく微笑んでいた。
(こんなの、悪夢に決まってる)
「ねえ、おじさ……」
「申し訳ありませんが、よろしいでしょうか?」
恭助が声をかけようとした時、スーツ姿の男が遠慮がちに口をひらいた。神宮司は黙ってうなづくと、袖口で目もとを拭ってから、名残り惜しむようにゆっくりと立ち上がった。
二人の影が扉に近づいてくる。
「伯父、さん…………伯父さん!」
恭助は肩を震わせながら、声をかけた。
しかし、彼らには届かない。まるで、そこに誰も存在しないかのように、神宮司と男は恭助のそばを通り過ぎ、薄暗い廊下の向こうへと遠ざかっていく。恭助は、二人の後ろに向かって、何度も何度も大声で叫んだ。声を枯らした。それでも追いかけなかったのは、彼自身、どこかでわかっていたからかも知れない。廊下には革靴の音だけが空しく響きわたる。彼らの姿が完全に消えたあと、
「気がすんだか?」
恭助の背後で冷えきった声がした。