#9ー3
「――計画どおり、というわけにはいかなかったけれど、まあ、これでよしとしよう」
グロリアは恍惚とした眼差しで、恭助の顔を覗き込んだ。
「うう……」
恭助は息苦しそうに喘いだ。
グロリアは恭助の頬を撫で、一筋の涙を指先で拭ったあと、「ああ、ちょっとしたものを入れさせてもらったんだ。君の紅茶にね」――そう言って、燕尾服の胸もとから一輪のバラを取りだした。むせ返るようなきつい香りがひろがる。グロリアはそれを持て余しながら、「このバラの棘には、霊体の中枢神経を麻痺させる毒が仕込まれていてね」
「毒……」
「ああ。とある人間が書き残した伝記から着想を得たものなんだけれど…………これは、なかなかの効き目だ。これでもう、君はどこにも逃れられない」
グロリアは不敵な笑みを浮かべた。
恭助は恐怖に表情を強ばらせながら、ただ喘ぐことしかできなかった。何度やってみても、手足は棒のように動かない。彼はソファに貼りついたまま、うっすらと微笑むシルクハットの紳士を見つめた。
「なんで……」
「ああ、君には知る権利があるかもしれないね」
グロリアは懐にバラをしまい、すっと立ち上がった。彼は恭助の脇から離れ、書斎の中を闊歩しながら、「10年前――すべては、そこから始まった。ああ、忘れもしないさ。我はある“計画を立てたんだ」
「けい、かく?」
グロリアは立ち止まり、窓の向こうに視線をやった。蒼白い月明かりに浮かびあがる、荒れ果てた庭園。そのひどい有様にため息ひとつもらしたあと、彼はおもむろに言葉を続けた。
「この世界を破滅に導く壮大な計画さ──だけど、それは失敗に終わった。予想外だったよ……まさか、“他の誰かが君の身代わりになろう”なんて、ね」
恭助の脳裏にはある一部始終が思い浮かんでいた。
降りしきる雨の中、交差点に飛びだした恭助を命がけで救ってくれた青年。しだいに朦朧とする意識のなかで、彼の姿がちらついては消え、ちらついては消えた。きっと、“彼”のことだ。
「そいつさえ現れなければ、もっと早くに実現できていたよ。君の魂を取り込めさえすれば、我の力は何十倍に増幅する……その力を行使して【亡魂】を操れば、多くの魂を、効率よく狩ることができるからね。すべての魂をこの世界から抹消する──それが、我の計画さ。もちろん、死神たちも含めてね」
「どうして、そんなこと……」
グロリアは意外そうな表情をした。
「おや、君になら共感できると思っていたんだけど……まあ、いい。教えてあげよう」
グロリアは恭助の側にしゃがみ、にっこりと微笑んだ。
「くだらないからだよ」
「え?」
「人間は実につまらないことで命を奪い合い、憎み合い、傷つけ合う、どうしようもない生き物だ。“人生”という制限時間を有意義に過ごせる人間は、ごくわずかさ。君だって、自殺を考えたことは一度や二度じゃないのだろう?」
恭助はどきりとして腕に目をやった。今は何事もなかったように白い手首──しかし、生前は傷だらけだった左の手首を。
「知っているよ」
グロリアは恭助の手首をやさしく撫(な)でた。
「悪夢を見せていたのは、我だからね」
「な…………」
グロリアは小さく息をもらしたあと、「君はあの日、老人を見たはずだ。そう、君が命を落とした日だよ。横断歩道の真ん中でうろたえている、哀れな老人の姿をね──」
まさか。
恭助の表情を見て、グロリアはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、僕が助けたのは……」
「君は“誰も助けていない”んだよ。あの老人は、我が見せた“幻覚”だったんだから。まわりの人間には見えなかったし、記録も残らないはずだ。君はお人好しだから、この状況なら確実に飛び出してくれる、と思ったよ」
恭助は愕然とした。
自分の死を受け入れられたのは、誰かの命を助けたのだから、という事実があったからだ。しかし、実際はハメられた──目の前で笑っている、この男に。恭助の死はすべてグロリアに仕組まれたことだったのだ。
恭助は悔しさに涙を滲ませた。
「ひどい……」
「おやおや、“即死”は、ある種のサービスだったんだけどね」
グロリアは残念そうに付け加えた。
「じゃあ、ゼロは……」
「奴は感づいたのさ。我が【死神くずれ】なんじゃないかって──目障(めざわ)りな奴だったよ。あの頃から、我のことをしつこく嗅ぎ回っていてね……まあ、奴がかき集めた証拠を使って、逆の立場に追い込んであげたんだけど……まったく、馬鹿な奴だよ。我に楯つくから、こういうことになるんだ」
グロリアは小さく鼻で笑った。
「──ああ、彼はまだ死んでないよ」
まるで恭助の思いを察したかのように、グロリアは付け加える。
「もっとも、今は“死にたがっている”けどね。我が考案した拷問のメニューが相当こたえているみたいだよ」
拷問。
恭助は血の気が引く思いがした。
グロリアはふと笑みを浮かべながら、「ちなみに、シュヴァルツも我の配下──いや、“捨て駒”というべきだろうね」
「…………」
恭助はとめどなく流れる涙を拭うこともできなかった。身体の震えを抑えることも、助けを求めて叫ぶことも──その時、突如として凛とした声が響きわたった。
「──話は聞かせてもらったわ」
グロリアは来訪客の姿を見るなり、小さく舌打ちをした。扉の向こうからあらわれたのは、片手に鞭(むち)を持った小さな少女、モノローグだ。珍しく、黒のローブに身を包んでいる。
「君の出る幕じゃないよ、チビ」
「いいえ、そうはいかないわ」
モノローグは懐から書状を取りだし、リボンをほどいて、それをグロリアの目の前に突きつけた。末尾には、“死神局総司令部”と印字されている。
「何だい、これは?」
「あなたに対する令状よ。わたしは、あなたを拘束し、死神局まで連れ戻すように命じられているの」
「ほう?」
グロリアは意外そうな顔をした。
「正直なところ、わたしには未だに信じられないわ…………どうして、こんなことを」
「君にはとうてい理解できないことだ」
グロリアは懐から一輪のバラを取りだすなり、間髪入れず、鋭く投げた。モノローグめがけて飛んだそれは、空を切る音とともに切り刻まれ、床にはらはらと落ちる。モノローグは鞭を片手にうつむきながら、「昔のあなたは、優しかったじゃないの。誰よりも人間のことを大事にしていたわ。それなのに、どうして……」
「何百年前の話だね?」
グロリアは嘲るように鼻で笑った。
「とにかく、あなたには大人しく出頭してもらうわ」
「──断る」
グロリアはにっこりと微笑んだ。
そう、とモノローグは残念そうにもらしたあと、すばやく鞭をふるった。それらを軽々とかわしたグロリアは、「無駄だよ」と一笑し、懐から取り出した数本の薔薇を、続けざまに投げる。空中で分解した薔薇がはらり、はらりと床に落ちた。
恭助は二人が争っているあいだ、ソファに横たわっていることしかできなかった。体中が痺れて、思うように動かない。
すさまじい速さで繰り返される、攻防。
恭助はそれらを聞きながら、現実を拒絶するかのように、固く目を閉ざした。
すべてが悪夢であってほしい。
そう思った瞬間、「残念ながら、これは現実だ」──心のどこかで冷静な声が聞こえた気がした。
「しに、ガミ……」
恭助は無意識に呟いていた。
「恭助!」
書斎に飛び込んで来た死神は、思わず息を飲んだ──二人の上司が対峙している。今度ばかりは、ただの喧嘩ではすまされない状況だ。
来訪者に気づいたグロリアは、「おや、シュヴァルツはどうしたんだい?」
「奴は……」
「──“彼”を連れて逃げて、Au1208!」
モノローグの切迫した言葉に死神はハッとした。
彼は即座に恭助のもとへ駆け寄り、「立てるか?」
恭助は涙ながらに首を横にふった。
死神は上司らに一瞥をくれたあと、恭助を軽々と抱きかかえ、足早に書斎をあとにした。




