♯1-2
店内にもう客の姿はない。
窓の向こうは、真っ白だ。正午から降りだした雪は、しだいに勢いを増していく。早めに店を閉めることになったのは、恭助にとって都合が良かった。
「じゃ、お疲れさまでした」
さっさと帰り支度をすませた恭助は、いつものように、カウンター席で一服している店長に声をかけた。きちんとアイロンがけされた白いシャツに、黒のベストを羽織った男性――彼は、神宮司 透。この喫茶店〈memento mori〉の経営者であり、恭助の伯父にあたる人物だ。短めの髪には白髪ひとつなく、肌にも艶があって若々しい。西洋アンティークをこよなく愛しており、店の内装のほとんどは、彼の趣味で埋め尽くされている。
「ああ、ちょっと待って」
神宮司は、裏口の扉から出て行こうとした恭助を呼びとめた。彼は、煙草の火を灰皿に押しつけ、カウンター席を離れるなり、「お前……最近、大丈夫か?」と、苦笑まじりにそう洩らした。
「え?」
「いや、なんとなく元気なさそうだから」
恭助は内心どきりとした。
ここ数日間、まともに眠れていない。市販の睡眠薬を試してみたが、その効果は薄く、夜中に何度も目を覚ましてしまう。そんな状態が続いているため、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。
(悪夢のせいだ)
「――寝不足だよ」
恭助は誤摩化すように笑みを浮かべる。
「ほんとに?」
伯父は眉をしかめた。
恭助は視線をそらし、店の奥に目をやった。
壁に飾られている額縁のひとつには、彼の描いた油絵が飾られている。恭助が伯父に頼まれて描いた作品だ。タイトルは【死神】――しかし、一般的なイメージの黒や骸骨、鎌などのモチーフはなく、むしろ天使のような姿をしている。
「あの絵、いつまで飾ってんの?」
「え? ああ……」
神宮司は少し考え込むようなそぶりを見せてから、小さく首を横にふった。
「そんなことより、恭助。お前、悩みごとでもあるんじゃないのか?」
恭助はそれ以上、何も言えなくなってしまった。いつものように、冗談めかした会話をひとつふたつして、店を出るつもりだったのに。伯父の目は真剣そのものだった。まるで、何もかも見抜かれているような、落ち着かない気持ちになる。
「どうしたんだ、困ったような顔をして」
「も……もう、帰らないと」
伯父に背を向け、裏口の扉に手をかける。
「――恭助」
神宮司はすかさず、その手をつかんだ。
「今日は泊まっていったらどうだ」
恭助はうなずくことも、首を横にふることもしなかった。
「久しぶりに、メシでも食べないか? ほら、お前が好きなオムライス。作ってやるからさ……」
恭助は皮膚に爪が食い込むほど拳を握りしめ、黙って彼の言葉を聞き流した。そうすることしか出来なかった。イライラが募る。今の彼には、どんなに優しい言葉も気遣いも、ただ、煩くて仕方なかった。しだいに頭痛や、耳鳴りまでもが恭助に襲いかかる。
ここにいてはいけない。
彼は、何かがそう訴えかけるような気がした。
(ああ、だめだ)
「……僕は、だいじょぶだから」
消え入るように呟いて、恭助は裏口の扉を開け放つ――彼の行く手を阻むように、視界を遮る雪。恭助は神宮司の手を振りはらうと、躊躇いもせず、そのまま路地へ飛びだした。
「おい、恭助…………恭助!」
逃げるように。
傘も、持たずに。
時おり転びそうになりながら、恭助は狭い路地をひと息に駆けぬけた。
途中、すれちがう人とぶつかりそうになりながら、寂れた商店街をぬけ、ようやく駅前の大通りまで辿りついた。その時だ。上着のポケットから、けたたましい着信音が鳴り響いたのは――伯父さん、だ。
恭助はいったん立ち止まり、近くの壁に背をもたせた。電話に出ようと思ったからではない。あまりの息苦しさに、今にも倒れてしまいそうな気がした。彼は力なく、壁づたいにずるずると座り込む。ズボンの後ろが湿って、刺すような冷たさが肌へと直に伝わってくる。
(どこが、大丈夫なんだ)
恭助は呼吸が落ち着くまで、大通りの景色を眺めることにした。
色とりどりの傘が忙しなく動き回っている。普段は人通りが少ないのに、めずらしい。この季節は、やはり特別なのかもしれない。至るところで煌やかな装飾がなされ、街中がクリスマス一色に輝いている。どこからか、風に乗って、馴染みのあるクリスマス・ソングまで聞こえてきた。
思わず、ため息がこぼれる。
そのあいだにも、着信音はひっきりなしに鳴りつづけた。もう何度目かもわからない。恭助が応答するまで、諦めないつもりらしい。切れた、と思ったらまた鳴りだす。その繰り返しである。恭助はたびたび聞こえないふりをして、やり過ごした。自分を引き止めるであろう電話に、出る気にはなれなかった。
「さっむ……」
恭助は背中をまるめながら、かじかんだ両手に顔をうずめて、何度も息を吐きかけた。
まるで、傘を忘れた彼を嘲笑うかのように、雪はその勢いを増していく。
何とかして落ち着きを取り戻した彼は、まだふらつく足取りで立ち上がり、人混みのなかに紛れこんだ。一歩、一歩と足を踏みだすたびに、身体が重くなるように感じた。すでに真っ白な地面には、誰のものかもわからない足跡が重なっている。幾度となく、それらを覆い隠されようとも、人々は歩くのをやめようとしない。
自分の弱々しい痕跡も、やがては雪に消されるのだろう――悲観的な思いに押しつぶされそうになりながら、恭助はようやく交差点にさしかかった。信号は青である。それなのに、まわりは誰も動こうとしない。不思議に思いながらも、恭助は傘の群れの最後尾に並んだ。
その時、何度目かの着信音が周囲に響きわたる。
いつまで立っても鳴りやまない音に、ちらちらと迷惑そうな視線を感じた。電源を切ればいい。それだけの話だ。しかし、睡眠不足と疲労感に浸食されかけた恭助は、そこまで頭が回らなかった。
「…………出る、か」
ポケットの携帯電話に手をやる――と、傘の向こう側で立ち往生している人の姿がちらついた。老人だ。杖をついている。あたりを見回して、何やら狼狽えているようすだった。
(まあ、信号は青なんだから大丈夫……あれ?)
それなのに、いつまで待っているのだ。この人たちは。これだけの人数がいるのに、誰も気がつかないなど不自然である。
恭助は周囲のようすを不安げに見まわした。
まるで、自分以外の時間が止まっているかのような、そんな錯覚をおぼえる。異変を感じた恭助が、隣の人をちらと覗こうとした、次の瞬間。
「……え?」
視界の端に、不気味な塊が横ぎった。
轟音を立てて走るトラック。
速度が緩められる気配は、ない。
恭助は反射的に飛びだしていた。
人混みをかきわけ、雪の積もった路面を駆けぬける。今までの倦怠感が嘘のように、軽やかに――勢いよく雪を撥ねながら迫る、巨大な車体の影。恭助は必死で老人に追いすがり、その小さな背中を思いっきり、突き飛ばした――冷たい路上に転がり込む、その刹那。
鼓膜を突き破るような金属音。
何度も、何度も地面に圧しつけられ、悲鳴をあげる飛沫の残響。
それらは嫌というほど長ったらしく、耳の奥にこびりついた。少し遅れて、重苦しい衝撃が通り過ぎていく…………焦れるほど、ゆっくりと。あれほど煩かった着信音はぴたりとやんで、もう二度と鳴ることはなかった。
何が起こったのかは、わかっていたはずだ。
しかし、恭助には痛みも何も感じられなかった。ほんの一瞬で、ありとあらゆる感覚が遮断され、周囲は気怠い静寂に支配されていく。背中を受け止められた恭助は、瞼をこじあけながら、ひたすら真っ白な空をあおいだ。ふわり、ふわりと舞い降りる雪の粒は、天使の羽根のように美しい。白昼の幻想が彼の瞳に降りそそがれ、不思議な安堵感をもたらせていく。
恭助は、かすかに微笑みながら、重い瞼をゆっくりと閉じた。あらがえない睡魔に、引きずり込まれるようにして。
「…………嘘、だ」
警告をうながしながら、しだいに遠ざかっていく救急車のサイレン。それは、どこにでもある日常――ありふれた他人事だ。この時はそう、彼以外の存在にとっては。
恭助はただ、茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。
夢であってほしい。
何もかも、消え去ってしまえばいい。
目が覚めたら、いつものように気怠い朝が来て、それから――。
「もう、手遅れだ」
隣にいた男が口を開いた。
どこまでも、淡々とした声。
それは、恭助のわずかな希望を見抜いたかのような、残酷な言葉だった。
「あんた、何者なんだ。どうして、そんなことが!」
恭助は思わず、男の胸ぐらをつかんでいた。
落ち着きはらった、感情の欠片もない男のようすに、どうしようもなく苛立った。どうしようもなく……しかし、間髪いれず、恭助の怒りは絶句に変わった。男のフードがはずれ、その全貌があらわになっていたからである。
透きとおる白い肌、ガラス玉のような灰色の瞳。西洋人を思わせる端正な顔立ち。背中ほどまである長い髪は、色素が薄く、ほとんど白に近かった。まるで、精巧に作られた蝋人形のようだ――恭助が思わず呆気にとられていると、男は相変わらず、淡々とした口調で言ってのけた。
「死神だ」
「…………は?」
「私は、死神だ。お前を “あの世” へ送り届けるために、派遣された」
「しに、ガミ?」
恭助はその言葉に、はっとした。
僕は本当に目を覚ましているんだろうか、と。
(ひょっとしたら、まだ夢を見ているのかもしれない。とびっきり性質の悪いやつを……そうだ。そうにちがいない。目を覚ましたら夢の中だった、なんて。よくある話じゃないか)
男にはかまわず、恭助は勢いよく駆けだした。悲惨な光景を通り過ぎ、ざわめく人混みにまぎれこんで、街の中を走りぬける。行き着く先はどこでもよかった。逃れられるだけで――途中、何度かふり返ったが、死神の姿はもうそこにはなかった。
(何もかも夢だったんだ、あれは……)
そう思いながらも、恭助は力を緩めようとはしなかった。全速力でもって駆けた。倒れて動けなくなるまで、そうするつもりでいた。そのうちに目が覚めて、本当の現実に辿りつく、その瞬間まで。