♯7-2
恭助は万年筆を片手にじっと便箋を見つめた。白紙だ。それは長いこと机に置かれたままになっていた。伝えたいことは山ほどあった。しかし、いざ文字にしようとなると、言葉が出てこない。恭助はしばらく思い悩んだあげく、ゆっくりと万年筆を置いた。「あのさ……」ソファごしに背後をふり返る。
「書けたのか?」
死神はふり返らずに言った。
「ま、まだなんだけど……」
「残された猶予は、あと5日だ。お前には決めてもらわねばならない。“あの世へ行く”のか“死神になる”のかを……時間がないのだ。悩んでいる暇はない」
死神の口調は淡々としたものだ。しかし、わずかながらに焦りが滲んでいた。死神は窓の向こうに視線をやりながら、小さくため息をもらした。もうじき夜が明ける。曇りガラスに遮られてはいるが、それだけはたしかだった。
恭助は少し躊躇ったのち、「死神ってさ、人間だったの?」
「――誰から聞いた」
死神はやはりふり返らずに言った。
「いや、そうじゃないんだけど……資料室で見たんだ。あの、転生名簿だっけ? そこに書いてあったんだ。あんたの、整理番号」
「その書類は“閲覧禁止”のはずだが……」
死神は独り言のように呟いたあと、肩をすくめた。彼は相変わらず、見えもしない窓の向こうを見つめながら、「そうだ。この仕事をする以前は、人間だった」
「どうして、死神に?」
恭助は身を乗り出しながら、興味深そうに尋ねた。背中ほどまである白髪が、わずかに揺れる。死神は少しばかり口を閉ざしたあと、小さく首を横にふった。彼は何か物寂しげな表情でうつむきながら、「理由などない」――そう言って、小さくため息をもらした。
「しかし、これだけは覚えている。私には、“選択肢がなかった”」
「どういうこと?」
恭助は首をかしげた。
「ある時、私の前に【死神】があらわれた。誰なのかはもう覚えていない。しかし、そいつは私にこう言ったのだ。これは運命だ……とな」
「ウンメイ?」
「お前は死神になるしかない。そう言われた」
「どうして……」
死神は小さく首を横にふった。
「そんなことは知る由もない。私は、ただ茫然とするうちに【死神局】へ連れていかれた。よほど、手が足りなかったのだろう」
「そんなの、無理やりじゃないか」
恭助は納得のいかない面持ちで、死神の後ろ姿を見つめた。彼はやはり、窓の向こうに目をやっていた。曇っていて、何も見えやしない。しかし、彼はそこに何かの姿を投影しているようだった。
「どんな人生だった?」
恭助がふと発した言葉に、死神は一瞬たじろいだ。彼はしばらくのあいだ口をつぐんだあと、「――今となっては、わからない」
「わからない?」
「“人間だった頃の記憶はすべて抹消される”のだ。死神になると同時に、な」
恭助は思わず絶句した。
今まで聞いたことがなかった事実だ。
「じ、じゃあさ……何も覚えてないの」
「ああ。気がついた時には、何もかも思い出せなくなっていた――当然、だ。私にはもう、そんな記憶など“存在しない”のだから」
死神はそう言って自嘲ぎみに笑った。
彼はやはり、窓の向こうに視線をやっていた。
そこから見えるものは何もない。ただ、夜明け前のどっぷりとした闇が鎮座していることを、おぼろげに感じさせてくれるだけだ。死神は、聞こえないように小さくため息をもらした。
恭助は何とも言えない寂しさをもてあましながら、死神の後ろ姿を見つめていたが、やがて諦めたようにソファに座り直した。目の前には、白紙の便箋が並んでいる。彼の思いを綴るのには十分な枚数だ。恭助はゆっくりと息を吐きだしたあと、おもむろに万年筆を手にとった。
曇り窓の向こうから、かすかに淡い光が差しこんでいる。朝、だ。ようやく手紙を書き終えた恭助は、内容を読み返して満足げに微笑んだ――「これをポストに投函すればいいのだな?」二枚の封筒を受け取った死神は、確認するように言った。
恭助は小さくうなずいたあと、「本当は花束も送りたいんだけど……」
「花束?」
「ちいちゃん、もうすぐ誕生日だから」
恭助はうつむきながら、少しばかり頬を赤らめた。しかし、彼はすぐさま首を横にふって、「でも、いいんだ……手紙さえ、届けてくれたら」
死神は小さく首をかしげたあと、封筒を懐にしまいながら、「――では、私は“こと”を済ませてくるとしよう」そう言って、恭助に背を向けた。
死神が埃っぽい書斎を闊歩し、扉の向こうへと姿を消すのを見送ったあと、恭助は小さくため息をもらした。彼の手には、もうひとつの封筒があった。神宮司や小林に宛てたものではない。恭助はしばらくそれを見つめたあと、衣服のポケットにそっとしまいこんだ。




