♯1-1
(――すけ、恭助!)
聞き覚えのある声がする。
(……誰、だろう)
仰向けに横たわっていた青年、御手洗 恭助は、ぼんやりと瞼をあけた。気怠げに上半身を起こしてみたものの、周囲には人の姿どころか、家具の輪郭さえない。まるで水の中にでも放り込まれたようだ。しかし、寝起きの彼にとってはごく日常的な現象である。
自宅のワンルーム・マンション。
当然ながら、そこで目を覚ましたのだと思った。
恭助は欠伸を噛み殺しながら、携帯電話を探す。いつもは枕もとに置いてあるはずだが、それらしき感触はない。まるで手応えがなく、彼の手は何度も空をつかむばかりだ。
一瞬、いやな汗がどっと噴きだした。
(昨日、バイト帰りに落としたのかも知れない……)
恭助の勤務先は、伯父の経営する喫茶店である。自宅からは、駅を挟んで徒歩20分。それほど遠くない距離だ。しかし、恭助はすぐに動く気にはなれなかった。
どうせ、ベッドの下にでも転がっているんだ、と面倒くさそうにため息をつく。せっかくの休日なのだから、のんびり過ごしたところで罰は当たるまい、と。二度寝をするつもりで、彼は再び横になろうとした。その時だった。
「やはり、間に合わなかったか」
透明感を帯びた低音が、彼の視界をかすかに揺らす――。
「え?」
恭助は二、三度まばたきをしてから、じっと目をこらした。
正面に奇妙な男が立っている。いや、声を聞かなかったら、性別すらもわからなかったにちがいない。なにしろ、その男は頭からつま先まで真っ黒だ――全身はローブに覆われており、鼻先が隠れるほどフードを目深にかぶっていため、顔すらもわからない――である。長身であること以外、他に形容しがたい姿だ。
その男は、ローブの懐から封筒を取りだすなり、「御手洗 恭助だな?」
「え、ええ……そう、ですけど」
反射的に答えながら、恭助は首をかしげた。
どこか懐かしいような、不思議な気持ちがこみ上げてくる。かといって、この男に見覚えがあるわけではない。どんなに頭を悩ませたところで、知り合いでもなさそうだ。
男が手にしている封筒。
恭助にはひとつだけ、心あたりがあった。
半年前から始めた “文通” である。相手は “ちいちゃん” という女性だ。今まで悩みを打ち明けたり、お互いを励ましあったり、というやりとりを続けてきた。文脈の上ではあるが、とても好意的な印象の女性だ。
「あの……郵便、ですか?」
「いや」
男は首をかしげるばかりだった。
どうやら、文通相手からの返事ではないようだ。それを心待ちにしていた恭助は、内心、ひどくがっかりした。そもそも、郵便の配達員がこんな格好で来るはずがない。
だとすれば、この男はいったい何者なのだろう。
あの、と恭助はやはり遠慮がちに声をかけた。
「このあいだ、断ったはずなんですけど……加湿器、とか」
「かしつき? 何だ、それは」
訪問販売でもないようだ。
「じ、じゃあ、新聞の勧誘とか宗教とか」
「私はそういう者ではない」
男は淡々と否定すると、封筒を懐にしまいながら、ちいさくため息を洩らした。
人を見た目で判断するなとはいうが、もはや、そんな次元ではない気がする。全身のほとんどは黒いローブに覆われており、露出した手や、ほっそりした顎は病的なまでに白い。恭助は得体の知れない不気味さを感じた。
(何者なんだ、こいつは……それ以前に、僕の部屋じゃないのか、ここは)
彼の住んでいるワンルーム・マンションは、郊外に建てられた格安の物件だ。とはいえ、オートロックなどという洒落たオプション付きである。まず、部外者が入って来られるはずがない。たとえ、知り合いだとしても。
じわり、じわりと恐怖が滲んでくる。
警察に通報しようにも、携帯電話がない。
「あの、僕の部屋ですよね……ここ。なにか、勘違いされてるんじゃないですか?」
恭助は、引き攣った愛想笑いを浮かべながら、ゆっくりと後ずさりをした。壁づたいに横歩きしながら、そこにあるはずの玄関を目指す。部屋から出てしまえば、逃げるのはたやすい。彼は、短距離だけには自信があった。
「お前の部屋……だと?」
挙動不審な恭助を、男はしばらくのあいだ不思議そうな眼差しで見つめていたが、やがて、事態を悟ったかのように、首を横にふった。
「勘違いをしているのは、お前のほうだ。御手洗 恭助」
男はそう言って、ぱちりと指を鳴らす――まるで、それを合図としていたかのように、恭助の視界が大きく歪みはじめた。急速に。そして、確実に――家具や窓、床に散らばった画材、壁のシミなどが一度に溶けだして、絵の具のように混ざりあい、もうそこに形を成す物はない。男の姿は風に吹かれた煙のように消え失せ、そこにはただ、ひたすらに白い闇が広がっていた。ワンルーム・マンションの一室……その空間でさえも、曖昧だ。床の感触が、ない。
巨大な渦に呑みこまれているような、錯覚。耳の奥で低い振動が鳴りはじめる。上下左右のない、あまりにも不安定な感覚に、恭助は目眩をおぼえた。
(何が起こっているんだ)
問いかける間もなく、彼はしだいに自分の存在すらも消えてしまいそうな、漠然とした恐怖に支配された。目の前にはただ、白い闇が広がるばかりだ。その中でふと、聞き覚えのある声がした。
「やはり、現実すらも見えていないようだな。御手洗 恭助」
「何だよ、それ。あんた、ダ、レ……」
次の瞬間、恭助は駅前の大通りにいた。
アルバイトの行き帰りで、かよい慣れた場所である。普段は人通りが少なく、いやに殺風景なところだが、恭助のまわりは人で溢れていた。休日にしても、めずらしい混み具合だ。目の前の交差点を過ぎ、少し歩いたところに商店街がある。きっと、イベントでもあったのだろう。
それにしても、と恭助は目を見張った。
ひどい雪だ。
大粒の塊は、みるみる内に降りそそがれて、地上を白で埋め尽くしていく。もうすでに、かなりの量が積もっており、歩道と車道の境目がわからないほどである。こんな悪天候にも関わらず、多くの人が立ち止まっているのは、電車が動かないためだろう。
「…………あれ」
ひとり、交差点の真ん中に突っ立っていた恭助は、ようやく周囲の異変に気がついた。
やたらと人が多かったのは、自分のまわりに人だかりが出来ているからだ。いや、これは野次馬というべきかも知れない。悲鳴にも似た叫び声や、右往左往するざわめき、場ちがいなクリスマス・ソング……あらゆる音が混じりあって、あたりはやけに騒々(そうぞう)しい。そこに今、けたたましいサイレンを轟かせながら、救急車が到着したところだ。
視界の隅(すみ)に横転したトラック。
警察の車両も止まっている。
ここで事故があったのは、明白だった。
問題は、その渦中に恭助がいるということだ。
「何、これ……」
救急隊が担架を抱えて飛びだした。
彼らは恭助のそばを通り過ぎ、トラックのほうへ駆け寄っていく。車体の横に誰かが倒れていた。ひとりは大柄の男性。彼は、トラックの運転手だろうか。もうひとりは腕しか見えなかったが、まわりの雪は泥にまみれ、かすかに赤い色が滲んでいる。
思わず顔をそむけた恭助は、足もとの黒い塊に気がついた。雪に埋もれかけてはいるが、携帯電話である。機体には無数のひびが入っており、折りたたみ式のそれはまっぷたつに割れていて、もう片方の部分がない。
しかし、恭助には見覚えがあった――小さな猫がついたストラップ。銀で出来た猫は、かなり錆びてしまっている。以前、誕生日に伯父から貰ったものだ。恭助はそれを拾おうとして、何度か躊躇ったのち、手を引っ込めた。
(僕のものとは限らない。こんなありふれたストラップ、どこでだって……)
「あれを見ても、まだわからないのか」
背後からいやに冷静な声がした。
先ほどの、黒づくめの男だ。彼の姿は相変わらずローブで覆われ、表情すらも謎に包まれているが、そのほっそりした指はじっとトラックの方向を指さしている。恭助は、おそるおそる、視線を向けた。
二名の人物が、今にも担架で運ばれようとしているところだった。ひとりはトラックの運転手らしき男。彼は見知らぬ人物である。しかし、もうひとりには心あたりがあった。茶色がかった天然パーマ。泥にまみれ、べったりと汚れた衣服。地味な色合いのマフラーに、路面に転がった肩かけ鞄…………自分に似ている、と思った。否。
恭助は両手で顔面を覆った。
あの変わり果てた姿を、これ以上まともに見ることは出来なかった。
一瞬、鋭い切っ先が脳裏をかすめる。
激しい頭痛をおぼえ、恭助は頭を抱えてその場にうずくまった。内側から抉られるような痛み。それは、閉じ込められていた記憶の扉を、容赦なく叩く。今まで忘れていた光景が、瞼の奥にちらついては消え、ちらついては、また消える。それらはしだいに繋がっていき、ひとつの映像となって、今にも溢れだそうとしていた。
恭助はただ、苦しさに喘ぐことしか出来なかった。
ああ、だめだ。
思い出したく、ない。
恭助の意思に反して、その扉はひらかれた。
いまや周囲の喧騒は完全に姿を消し、まるで映画のように瞼の奥で再生される、記憶。それは、12月16日午後3時15分――その瞬間に至るまでの、一部始終。