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しにガミ  作者: 夢邑 ひつじ
第 1 章「扉」
3/48

♯1-1



(――すけ、恭助!)


 聞き覚えのある声がする。


(……誰、だろう)


 仰向あおむけに横たわっていた青年、御手洗みたらい 恭助きょうすけは、ぼんやりとまぶたをあけた。気怠けだるげに上半身を起こしてみたものの、周囲には人の姿どころか、家具の輪郭りんかくさえない。まるで水の中にでも放り込まれたようだ。しかし、寝起きの彼にとってはごく日常的な現象げんしょうである。

 自宅のワンルーム・マンション。

 当然ながら、そこで目を覚ましたのだと思った。

 恭助は欠伸あくびを噛み殺しながら、携帯電話を探す。いつもは枕もとに置いてあるはずだが、それらしき感触はない。まるで手応えがなく、彼の手は何度もくうをつかむばかりだ。

 一瞬、いやな汗がどっときだした。


(昨日、バイト帰りに落としたのかも知れない……)


 恭助の勤務先は、伯父の経営する喫茶店である。自宅からは、駅をはさんで徒歩20分。それほど遠くない距離だ。しかし、恭助はすぐに動く気にはなれなかった。

 どうせ、ベッドの下にでも転がっているんだ、と面倒くさそうにため息をつく。せっかくの休日なのだから、のんびり過ごしたところでバチは当たるまい、と。二度寝をするつもりで、彼は再び横になろうとした。その時だった。



「やはり、間に合わなかったか」


 透明感をびた低音が、彼の視界をかすかに揺らす――。


「え?」

 恭助は二、三度まばたきをしてから、じっと目をこらした。

 正面に奇妙な男が立っている。いや、声を聞かなかったら、性別すらもわからなかったにちがいない。なにしろ、その男は頭からつま先まで真っ黒だ――全身はローブに覆われており、鼻先が隠れるほどフードを目深まぶかにかぶっていため、顔すらもわからない――である。長身であること以外、他に形容しがたい姿だ。

 その男は、ローブのふところから封筒を取りだすなり、「御手洗 恭助だな?」

「え、ええ……そう、ですけど」

 反射的に答えながら、恭助は首をかしげた。

 どこか懐かしいような、不思議な気持ちがこみ上げてくる。かといって、この男に見覚えがあるわけではない。どんなに頭を悩ませたところで、知り合いでもなさそうだ。


 男が手にしている封筒。

 恭助にはひとつだけ、心あたりがあった。

 半年前から始めた “文通” である。相手は “ちいちゃん” という女性だ。今まで悩みを打ち明けたり、お互いを励ましあったり、というやりとりを続けてきた。文脈の上ではあるが、とても好意的な印象の女性だ。

「あの……郵便、ですか?」

「いや」

 男は首をかしげるばかりだった。

 どうやら、文通相手からの返事ではないようだ。それを心待ちにしていた恭助は、内心、ひどくがっかりした。そもそも、郵便の配達員がこんな格好で来るはずがない。

 だとすれば、この男はいったい何者なのだろう。

 あの、と恭助はやはり遠慮がちに声をかけた。

「このあいだ、断ったはずなんですけど……加湿器、とか」

「かしつき? 何だ、それは」

 訪問販売でもないようだ。

「じ、じゃあ、新聞の勧誘とか宗教とか」

「私はそういう者ではない」

 男は淡々と否定すると、封筒を懐にしまいながら、ちいさくため息をらした。


 人を見た目で判断するなとはいうが、もはや、そんな次元ではない気がする。全身のほとんどは黒いローブに覆われており、露出した手や、ほっそりしたあごは病的なまでに白い。恭助は得体の知れない不気味さを感じた。


(何者なんだ、こいつは……それ以前に、僕の部屋じゃないのか、ここは)


 彼の住んでいるワンルーム・マンションは、郊外に建てられた格安の物件だ。とはいえ、オートロックなどという洒落しゃれたオプション付きである。まず、部外者が入って来られるはずがない。たとえ、知り合いだとしても。

 じわり、じわりと恐怖がにじんでくる。

 警察に通報しようにも、携帯電話がない。

「あの、僕の部屋ですよね……ここ。なにか、勘違いされてるんじゃないですか?」

 恭助は、引きった愛想笑いを浮かべながら、ゆっくりと後ずさりをした。壁づたいに横歩きしながら、そこにあるはずの玄関を目指す。部屋から出てしまえば、逃げるのはたやすい。彼は、短距離だけには自信があった。

「お前の部屋……だと?」

 挙動不審な恭助を、男はしばらくのあいだ不思議そうな眼差しで見つめていたが、やがて、事態をさとったかのように、首を横にふった。


「勘違いをしているのは、お前のほうだ。御手洗 恭助」

 男はそう言って、ぱちりと指を鳴らす――まるで、それを合図としていたかのように、恭助の視界が大きくゆがみはじめた。急速に。そして、確実に――家具や窓、床に散らばった画材、壁のシミなどが一度に溶けだして、絵の具のように混ざりあい、もうそこに形をす物はない。男の姿は風に吹かれた煙のように消え失せ、そこにはただ、ひたすらに白い闇が広がっていた。ワンルーム・マンションの一室……その空間でさえも、曖昧あいまいだ。床の感触が、ない。

 巨大な渦にみこまれているような、錯覚。耳の奥で低い振動が鳴りはじめる。上下左右のない、あまりにも不安定な感覚に、恭助は目眩めまいをおぼえた。

(何が起こっているんだ)

 問いかける間もなく、彼はしだいに自分の存在すらも消えてしまいそうな、漠然ばくぜんとした恐怖に支配された。目の前にはただ、白い闇が広がるばかりだ。その中でふと、聞き覚えのある声がした。


「やはり、現実すらも見えていないようだな。御手洗 恭助」


「何だよ、それ。あんた、ダ、レ……」




 次の瞬間、恭助は駅前の大通りにいた。

 アルバイトの行き帰りで、かよい慣れた場所である。普段は人通りが少なく、いやに殺風景なところだが、恭助のまわりは人であふれていた。休日にしても、めずらしい混み具合だ。目の前の交差点を過ぎ、少し歩いたところに商店街がある。きっと、イベントでもあったのだろう。

 それにしても、と恭助は目を見張った。

 ひどい雪だ。

 大粒のかたまりは、みるみる内に降りそそがれて、地上を白で埋め尽くしていく。もうすでに、かなりの量が積もっており、歩道と車道の境目さかいめがわからないほどである。こんな悪天候にも関わらず、多くの人が立ち止まっているのは、電車が動かないためだろう。

「…………あれ」

 ひとり、交差点の真ん中に突っ立っていた恭助は、ようやく周囲の異変に気がついた。

 やたらと人が多かったのは、自分のまわりに人だかりが出来ているからだ。いや、これは野次馬というべきかも知れない。悲鳴にも似た叫び声や、右往左往するざわめき、場ちがいなクリスマス・ソング……あらゆる音が混じりあって、あたりはやけに騒々(そうぞう)しい。そこに今、けたたましいサイレンをとどろかせながら、救急車が到着したところだ。

 視界の隅(すみ)に横転したトラック。

 警察の車両も止まっている。

 ここで事故があったのは、明白だった。

 問題は、その渦中かちゅうに恭助がいるということだ。


「何、これ……」

 救急隊が担架を抱えて飛びだした。

 彼らは恭助のそばを通り過ぎ、トラックのほうへ駆け寄っていく。車体の横に誰かが倒れていた。ひとりは大柄おおがらの男性。彼は、トラックの運転手だろうか。もうひとりは腕しか見えなかったが、まわりの雪は泥にまみれ、かすかに赤い色がにじんでいる。

 思わず顔をそむけた恭助は、足もとの黒いかたまりに気がついた。雪に埋もれかけてはいるが、携帯電話である。機体には無数のひびが入っており、折りたたみ式のそれはまっぷたつに割れていて、もう片方の部分がない。

 しかし、恭助には見覚えがあった――小さな猫がついたストラップ。銀で出来た猫は、かなりびてしまっている。以前、誕生日に伯父からもらったものだ。恭助はそれをひろおうとして、何度か躊躇ためらったのち、手を引っ込めた。


(僕のものとは限らない。こんなありふれたストラップ、どこでだって……)


「あれを見ても、まだわからないのか」

 背後からいやに冷静な声がした。

 先ほどの、黒づくめの男だ。彼の姿は相変わらずローブで覆われ、表情すらも謎に包まれているが、そのほっそりした指はじっとトラックの方向を指さしている。恭助は、おそるおそる、視線を向けた。

 二名の人物が、今にも担架で運ばれようとしているところだった。ひとりはトラックの運転手らしき男。彼は見知らぬ人物である。しかし、もうひとりには心あたりがあった。茶色がかった天然パーマ。泥にまみれ、べったりと汚れた衣服。地味な色合いのマフラーに、路面に転がった肩かけかばん…………自分に似ている、と思った。いな

 恭助は両手で顔面を覆った。

 あの変わり果てた姿を、これ以上まともに見ることは出来なかった。


 一瞬、鋭い切っ先が脳裏のうりをかすめる。

 激しい頭痛をおぼえ、恭助は頭を抱えてその場にうずくまった。内側からえぐられるような痛み。それは、閉じ込められていた記憶の扉を、容赦ようしゃなく叩く。今まで忘れていた光景が、まぶたの奥にちらついては消え、ちらついては、また消える。それらはしだいにつながっていき、ひとつの映像となって、今にも溢れだそうとしていた。

 恭助はただ、苦しさにあえぐことしか出来なかった。

 ああ、だめだ。

 思い出したく、ない。


 恭助の意思に反して、その扉はひらかれた。

 いまや周囲の喧騒けんそうは完全に姿を消し、まるで映画のように瞼の奥で再生される、記憶。それは、12月16日午後3時15分――その瞬間にいたるまでの、一部始終。




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